甘き天恵
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
兄さんは「天恵」というものを、どれだけ信じている? ああ、いや天の啓示という意味合いの「天啓」ではなく、天の恵みだ。天の啓示の方は、「ひらめき」に近しい意味で使われていて、アーティストにとっては信仰対象にする人もいるくらい、大切なものだろう。
だが天の恵みは更に幅広い人を助ける。そして、時には、命の在り方すら決めてしまうほど重大なものだ。しかし、受け止め方によっては逆に厄災になることもある。
一つ、天からの不思議な恵みについての話、聞いてみないか?
むかし、むかし。不思議な星の動きが観測された。
その星は、時に赤く、時に青く、様々に色を変えながら光っている。それだけでなく、ゆっくりと動いていた。他の星々の間を縫い、天の川を横切って、一晩の間に人々が見渡す限りの空を駆ける。
あれはいかなる兆しの表れか。翌日以降、学者から各村の長たちがひとところに集められ、話し合いの場が持たれたという。その結果、このようなことがずっと前にもあったと、一部の者たちが口にし始めたんだ。それは、はるかな先祖から、細々と語り継がれてきた、言い伝え。
曰く、あの奇妙な光星が空を横切る時、天からの恵みがもたらされるのだというんだ。以前、起こった時は、ちょうど凶作のただ中。その窮状で飢えた者を癒すかのように、数日の間、断続的に米が降り注いだという。
ならば吉兆なのかと問いかける声があったが、意見を発した者たちは、首を横に振った。恵まれたものが「助け」になるか、「災い」になるかは、受け取る私たち自身だという。
「常に、己が分をわきまえ、謙虚にあること。人の道を守ることが、大事なくやり過ごすことにつながるのだ」
そのように、伝承は結んであったらしい。
なかば、信じがたい伝説。それでも各村は異変にいち早く気づけるよう、昼夜を問わず、交代で空や村の周辺を見張ったらしいんだ。
しかし、10日あまりも静かだと、じょじょに気が緩んでくる。一人の男が見張り仕事の終わりと共に、村近くの湖に小舟を出す許可を願い出たんだ。警戒範囲を広げるため、という名目だが、その実は、趣味である、舟遊びをしたいがためだった。禁断症状のあらわれと言えるかも知れない。
村人も彼の好みは知っている。相談の末、一刻後に迎えにいくので、その間だけ認めるということ。何かあったときに、陸ですぐ連絡の狼煙があげられるよう、綱で舟と陸の大木とを結びつけ、川べりから離れすぎないことなどを約束させられた。
許可をもらうや、男は飛ぶようにして自宅へ戻り、準備を整え湖に向かう。限られた時間を無駄にはできない。
川岸に用意してある小舟の先を、太い木の幹に結びつけて、男は湖へと舟を押し出していく。乗り込むと、すぐに横になって、ぼんやりと空を眺め始める。釣りもやれなくはなかったが、見張りを謳っている以上、おおっぴらに遊ぶのははばかられた。船底をゆりかごの代わりにして、うとうとと午睡を貪ることにしたんだ。
ところが、いくらも時間がたたないうちに、空を見上げる彼の視界の左端から右端まで、ひゅっと黒く小さい玉が横切った。「あれ」と思う間に、2つ3つと、後を追うように小さな点が飛んでいっては、見えなくなっていく。
腕を伸ばしたが、黒点を止められる気配はない。やつらは目の前ではなく、ずっと上の方にあったんだ。こんな昼間に、何が飛び回っているんだと、彼が身を起こそうとした矢先。
いくつも飛んでいた点のうちの一つが、服にくっついたイラクサのように、ぴたりと動きを止めた。その上、どんどん大きくなっている。
落ちて来ているんだ。彼が察した時にはすでに、ぐんぐん迫ってきた黒点は、ふっと視界から外れたかと思うと、舟のすぐわきの水面に巨大な水柱が突き立った。大いに揺られて、舞い上がった水たちの不時着地点と化しながらも、男はどうにかずぶぬれになる程度ですんだ。
彼は大きく胴震いして水を撥ね飛ばしつつ、いまだ波紋の広がる水面を見つめる。一体何が降って来たのか。
幸い、ここの湖の川べりはそこまで深くない。彼は物を確かめるべく、つながれている範囲で、どうにか波紋の中心に近づき、服を脱いで飛び込んだ。
波紋の真下。さほど深くない水底で、それは黒々と丸みを帯びた身体を横たえていた。
一抱えほどもある大きさ。どうにか水面まで押し上げようと、彼は抱きつくようにして、玉に取りついたんだ。
全身に大きなしびれが走る。痛みではない。快感だった。
今まで食してきた飯、酔ってきた酒、触れてきた肌のいずれよりも、身体に染み込み、吸い付いてくる。
力がどんどん抜けた。このまま動くことそのものを捨て去って、強く強く抱きしめ続けたくなる誘惑。
息苦しさがなければ、おそらくこのまま離れられなくなっていただろう。
彼の肺と心臓が限界を告げる。生存本能が一気に神経の頂点へ上り詰めた。玉から離れて、一気に水面から顔を出した彼が、何度も大きく呼吸をしたのは、空気を取り入れるためだけではなかっただろう。
やがて約束通り、村の者がやってきた。すでに彼は舟を岸に戻していて、服も着替えている。「何も異状はなかったか」と尋ねてくる皆に、「早くここの危険を知らせねば」と感じていたが、次の瞬間には「いや、特に何もなかった」と返している自分に気づき、彼は驚く。必死に言い直そうとするが、口が真実の言葉を紡ごうとしてくれなかったんだ。
その日から、彼の足は夜な夜な湖に向き、黒の玉を抱くようになった。暗い水の中、月が出ていないというのに、玉は自ら青みがかった淡い光を帯びていて、彼をいざなった。
逢瀬を重ねるうちに、触れるだけでは物足りなくなってくる。彼は息の続く限り、玉をよく知ろうとした。
臭いをかげば、顔の奥を痛ませる水と一緒に、りんごに似た爽やかな匂いが、鼻に滑り込んでくる。舌を這わせれば、空気の漏れ出る苦しみの代わりに、水あめのような絡みつく甘さが口の中に溶け出すんだ。
もっと、もっと……彼にとっての一秒が、十秒になり、二十秒になり、快楽が長引くたびに、苦痛も身体を蝕んでいく。「やめなければ」と思っても「あと一回、あと一回」と沼に取り込まれた足は、沈み続ける一方だったらしい。
周りの皆は、毎日、彼の髪が濡れっぱなしであることから、異変を察したらしい。密かに見張りの者をつけ、彼の動向を探った結果、件の湖での所業と黒い玉の存在を知ったそうだ。
玉から離れようとしない彼を、総出で引きはがすと、皆は村の家に監禁し、湖に誰も近寄らないよう、全員に申し渡したらしい。
日課の愛撫を邪魔されたためか、彼は夜になると獣が威嚇するように歯を剥き、柱に縛り付けられた我が身を解き放とうと、暴れわめいたという。
だが飯を抜き、水を抜き、何日も経つと、彼はようやく落ち着く。日のほとんどを、泥のように眠って過ごすようになった。疲れが一気に押し寄せたかのような静かな眠りで、暴れ具合を知る人々は、「やれやれ」と肩をすくめたとか。
例の玉の効果については、飢えに飢えた末、正気を取り戻した彼によって話がされたんだ。湖は改めて調べられたものの、あの時の玉はどこにも見当たらなかったらしい。
だが、心なしか湖の水が甘くなり、人によっては誰かが止めないと、自分の身体を死に追いやるまで飲み続けてしまうことがあったとか。
今となっては件の湖は埋め立てられてしまい、多くの人の足の下で眠り続けているとの話だぜ。
どっとはらい。




