9.生きていくために必要なもの
生きていくために必要なものってなんだろうか。そう思ってみて、私の中で浮かぶことがある。プライドという問題。たとえば、劣等感という感情。たとえば、選民思想。たとえば、差別と区別。単純な悪口であっても良い。自分は他者よりも優れているのだと思い込みたいという感覚を伴ったそれ。
それらは、生きていく上で、必要な感情なのだろうか。
聞いたことがある。猿などは、嘘をつくことはないし、なにかとなにかを比較し、なにかに対して馬鹿にすることは出来ないのだと。
何故なのかというと単純な話だ。彼らは、”馬鹿に出来るほど賢くない”。
人が進化の過程で、身に着けた、他者よりも自分は上だと思い込み、”人を馬鹿にするように思う”ことは、知能が高いと言えるのだという。
なんだそれは。と、私は思う。そんなもの、必要なのだろうか。
生きづらくなるだけではないのか?と、私は思う。
進化する過程で生まれた副産物が、そういったものなら、ひどく嫌な気持ちになってしまう。
でも、と、一拍置いて思考してみると、馬鹿に出来るということは、人よりも考えているということになるのかなとも思ってしまう。自分が、他者よりも優れている点を冷静に分析出来る力や、区別出来る力が、優れていればいる程に、賢いと言えるのだろうか。と。
世界の立ち位置ともいえるそれ。
自らの立ち位置がどこにあり、自らはなにが出来、自らは、なにを求められており、自らに備わっている能力はこうこうこういうものであり、自らは、他者よりもこういった箇所で魅力や、才能があり、私は私という個性に対しての強みを知っている。ということ。
そして、そういった自らをきっちり整理出来ている方から見れば、私のように自らのことさえ上手く整理出来ず混沌としたものを抱え、生存競争からも脱落し、死へと向かおうとするようなものなど、生としては失敗作であり、脱落者であり、劣った対象となるのだろうかと思考する。
生というものというくくりから見れば、そうなのだろう。私は、生存したいという自由意志ですら放棄しようとした人生の脱落者一歩手前に近いと思う。今は、かろうじて崖に足先を乗せているが、いつ、そこから落ちるかわからないようなものだ。私は、未だに強く自分を保つすべを確立出来ないでいる。
人と自らの立ち位置をしっかりと認識し、自らの足で地に足をつけて生を全うするということがうまくできていない私は、なるほど、ひどく劣った存在となるのだろう。自覚はあまりなくのほほんと一部分でしていながら不安定に死などを思っていたが、冷静に自らを遠目から分析しようとすると、なるほど私は生という世界の中の脱落寸前の人間なんだとしみじみ感じる。ひどく感慨深いものがある。私が、人を馬鹿にすることもできないのは、自分の生にも他人の生にも興味が無いからなのだろう。自らにも興味がないから、人との区別などあまり強く考えようとしたこともない。なるほど。私は、どうやら、一般の人よりも知能が低いらしい。と、納得する。
そもそも、私は、自らがよくわからん。自らの確立もあまり出来ていない。そして、このようなことをうだうだ考えている時点で、私は既に人生の墓場に来ているということなのかもしれないが。つまり、詰んでいる。
私のようなものからすれば、劣等感やプライドや、区別や、人を馬鹿にしたりなどは、めんどくさい。面倒な感情だといえる。何故か。疲れるからだ。
自分と人を比較して分析して、相手の感情を分析して比較して。……それで、相手の思ったことと自らの思ったことが一致しなかったら?それらは全て妄想じゃないか。妄想で悲しんだり、喜んだりしていたってことじゃないか。と落ち込むだろう。そのようなことのもろもろの心や感情の動きが苦しい。つらい。だから、そのようなもの考えたくないし、生きているうえで不要だと思いたい。考えないとは言えない。私は醜くて矮小な私という人だから、イラっとしたときなどに思ってしまうかもしれない。けれど、憎むまで考えるのは自分が疲れるし、面倒だから嫌だ。基本、面倒なことは嫌だ。
そう思うと、そのような感覚は、必要ないって思ってしまう。
でも、それはそれで、問題なのかなぁとも感じてしまう。
結局は自らだけ軽くなって、他者に他者自身が苦しくなるようなことを言えば、逆に他者から恨まれたり睨まれたり、憎まれたり。するのだ。
人の気持ちがわからないといけないということは、そういうことだと思う。
他者と同じ視点まで引き上げるには、他者と同じ目線で物事を拾うことが出来る知能や知恵が必要ってことだ。……私には無理だろう。結局は、私は、他者の気持ちを知るために相手の言葉の端々から他者の思いを推測して想定してこんなこと言われたらこう思うのだろうということを理解するようなことに落ち着くのだと思う。そうして、得てして、あまり話さない相手だとその判断はとっても難しくなる。相手の趣味嗜好や年齢なんて要素を入れて、判断して思考して。考えるだけでわぁあああとなってしまう。
私には、無理だ。無理だということが今はっきりわかった。自覚した。自覚した時点で、私は自覚しない私よりも少し、賢くなった。……そう思って自らを慰めよう。
理解できない相手には、理解できないと正直に思い、一番下の部分から丁寧に相手を見れるようになるまで、私はまだ全然足りないのだ。相手を客観視し、自らを客観視するという視点が。結局は、私は、まだ未熟なのだろう。私は、やはり阿呆だ。哀しいが、そういうことなのだと思う。
私は、阿呆だ。それをまた認識したところで、少しでも違う自分になれるかどうかは、この自覚した先に行きたいと思うかの自分の思考によるのだろう。私には、そこまで強く生を満喫したいというエネルギーが結局は足りない。だから、私は未だに、目の前の高い壁を越えられないのだ。ありのままの自分を直視するという初めの壁を。恐怖が越えられない。越えられないことがやはり一番の原因なのかもしれない。