6.憎しみの答え
もし、私が、赤を白と言い続けたとしたら、私は、理不尽に思われるかもしれないけれども、赤を白と言い続けなければならなかった対象相手を憎むのだろう。その方のせいで、私は、赤を白と言い続けなければならなくなったとそう思うのだろう。憎むという感情は、それだけ一方的で、だからこそ強く、理不尽なものなのだと思う。憎まれる側からしたら。
憎しみとはなんだろう。愛情は憎しみとは違うのだろうか。私は、愛情と憎しみは裏と表だと思う。愛憎という言葉があるほどに、憎しみと愛情は、ベクトルが違うだけで、同じくらい深いものだと思うのだ。殺したい程、憎い。殺したい程愛しているという人がいるとする。その方は、本当に、相手を愛しているのか、それは当人ですらもわからないのかもしれないが、愛情は強すぎると憎しみにも変化するものだとも思う。それでは、憎しみは愛情に変化するものだろうか。
私は、自らを元に思考するのならば、YESと答えるのだと思う。私は、憎しみも愛情に変わると思っている。私以外の方がどのように思うのかは知るすべがないのでわからないけれども。私は、そう思う。
好きと嫌いという感情は、どうだろう。私は、好きと嫌いという感情をとても曖昧に使う。そのため、明確な境目が私にはないのだ。本当に嫌ならば、そもそも近づかない。話さない。考えない。嫌いという感情はしばしばエスカレートすると憎しみに変わることもあるのかもしれない。けれども、私は、考えてしまう。私なら、憎むほどの興味が湧く相手ならば、その奥にその相手に愛情を感じているしるしだとも思う。
愛情を感じているからこそ、傷つけられたとき、心が悲鳴をあげるのだと思う。何も思わない相手からいくら嫌われても、心は痛まないだろう。目に入らないからだ。そういった、反応というもの。自分のフィールドというのか、そういったものの中にきっと入り込める方という枠のなかでの、好きや嫌いや、愛情や憎しみだと思うからこそ、やはりそれは特別な枠なのだと思う。気にするということそのものが、既に自らの枠に入れてしまっているという証拠なのだとそう思う。
一生懸命、枠から外に追い出そうとするとすごく苦しむことになるのが、そういった特別な枠の中の人々なのだ。
憎みたいと思って憎むような方はいらっしゃらないと思うが、私は、そう思う。強い感情や、興味は、その方を自らの特別な枠に入れてしまっているという証拠。
それは最早、歪んだ愛情なのだとそう思うのだ。そうして、そう考えてみると、憎しみが和らいでいくのを感じる。私は、そう思う。