5.怒りとは何なのか
感情の分解は、まるで味覚を確かめることに似ていると、私は思う。まるで、料理の味見をするときのように、様々な味(感情)の成分(微妙な心の揺れ)を慎重に分けていくのだ。どのような感情であっても、私の場合の話だが、そうやって分解していけば、そのうちそれらの怒りが何故そこに表出されるのか自分で解ってくる。私の場合は、怒りの原因は今までのほぼ全てのことが、自らの内側の問題が結局は絡んでいたものだと理解しているので、結局分析の終着点は私に返ってくるのだ。……これは、考えてみれば、当然なのかもしれない。感情は、私から生まれるのだから、どのような種類であれ、表出した私の中にその感情が返ってくる要素があるのだろう。
感情が絡み合うつらさは、嫌なものだと思う。感情を捨てたいとどれだけ願ったことだろう。もし、全ての感情を失ってしまえば、心安らかに過ごせるのにと。
感情が生まれる原因は、どこにあるのかというと、ほとんど全てが、他者との関わりの中で起こっているように思う。自分以外の他者の存在を認識したときから、私は、感情に苦悩され続けているのだと言える。 他者と自らが関わるときに生まれる様々なものが、やはり、感情を産むのだ。
私のみだけでも、感情が産まれる可能性はゼロじゃない。自然や動物と接するときも、感情は動く。たとえば、自然災害で、自らの作り上げた色々が壊れていくのを見たとき、平静ではいられないだろう。たとえば、自らが心を砕いていた動物が、この世から消えていくことを目にしたとき、平静ではいられないと思う。……けれど、人との関わりの中で産まれる感情とそれらでは、複雑さが違うと私は思う。
人と人が関わりあうということの自らに与える影響はきっと私自身が理解していること以上に大きいものなのだろうと思う。化学反応は常に起こっているのだ。
感情は何故発生するのかといえば、感情の元が私の中にあるからだとも思うが、それらはたとえば脳内物質であったり、自らの思考の癖や、経験からくる記憶であったり、器である身体の状態であったり、性別であったりと色々なのだろうと思うけれど、単純に快、不快で分けるとするのなら、それらは、私にとっては数分単位で移り変わっていると言えると思う。気分屋ということなのかもしれないが、どちらかというと、元来の性格からきているような気がしないでもない。面倒なことは嫌いだが、面倒ではないことは頑固に続けるこの性格は、気にならないものは見なくなれるのだ。相手の怒りに反応するとき、きっと私の中のなにかがそれらをキャッチして、私の中に感情の種類が配合されそれが、タガを外れた時あふれ出すのだ。化学反応を起こしている。結局は、酸素がなければ火がつかないように、反応しあうことによって何かが生まれるのは、感情であっても、自然の現象であっても、同じだと思う。つまり、感情が発生することは、自然なことなのだといえる。それを無理やりに歪ませることは弊害でしかあり得ないのかもしれない。けれど、感情に苦悩している時は、本当に苦しいものだ。心というのは、自らの行動の指針になってしまう程強いものだからこそ、そこから逃れることで、生き方すら変化することだってあり得るだろう。相手を自らの心の登場人物にしたくはないと私は考えているが、上手くいったことはあまりない。同一視ということがどれだけきつい状態かを知っているからこそ、それをしないように避けてはいるけれども、他者と自分と言葉の暗示から広がるイメージの共有は、ある程度一致し、共感を得られなければ何かに結びつかないものだろう。全てがマイノリティでいられる筈もなく、そこから生まれる好き嫌いも含めた他者との区別は、たとえ認めたくないと言い張っても、自然なことなのだとも思う。そして、それが私の個性が持つ思考の癖だとも思う。
自らを全て把握し、思考の癖の中から生まれる自身を嫌悪するのなら、その感情の連鎖の鎖を解きたいとも思う。結局は嫌なことは忘れたいと言っているも同義なのだけれど。
私の中で一番忘れることが難しい感情は、怒りだと思う。これほど、解くことが難しい自らを縛る鎖は無いと思う。勿論、怒りという感情の全てに対して嫌だ!と思っているわけではない。昇華出来る怒りも存在するのだと思う。たとえば、怒りによって、自らの良くない部分を初めて自覚出来たり、自らの行動の原動力が怒りが始まりであったり、怒りがあることで、強い結びつきが生まれたり、怒りという強い攻撃性をうむそれは、同時に強い行動力を産むのだとも思う。強いエネルギーを産むそれを、私は、全否定したいわけではない。そういった怒りは、認めつつ自らも恩恵を受けている。強い心の動きとして必要なものだとも感じている。けれども、そういった意味をもたないどろりとした、なんだか嫌な臭いを放ちそうな昇華出来ない嫌な怒りがあるのも事実なのだ。そして、そういったマイナスの感情を私が、振り払えない原因が、私の創作意欲にも関係してくるのだと思う。私の中の陰の部分。泥ついた嫌なものがあり、自らを嫌悪し嫌えば嫌う程、私は、内側に向かいたくなる。それらを別の意味で発酵させて、それを創作物としてキャンバスや、白い紙に絵や文字として打ち込みたくなる。ぶつけたくなる。それらはやはり原動力なのだろうと思う。結局は、怒り以外にもある持て余したくなる感情それらの行方を求めて、それらを整理したり吐き出したりしたくなる自然な心の動きが原動力となって、私は自らの内側を制御したくなり、創作という方法で表現したくなるのだろう。これは私の性格や、思考の癖がそうなっているのだろうと思う。もし、私がそれらの感情を全て別の表現方法で落とし込もうと思ったのなら、それらは、別のものに成り代わっていたのだと思う。音楽やスポーツや、なにかそれらのものに。自己表現の欲求は、結局はそういったところから生まれてくるのだとして、結局は、私はそれらを捨てることは出来ないのだ。自己表現として表出することそのものは、まぎれもなく、喜びであるからだ。