4.文字に落とし込むことの意味
当然だが、現実に生きている中で、自らの心が全て文字で目の前に吐き出されるなんて、活字の世界の小説の中でしかあり得ない。現実は、もっと支離滅裂で、文字に出来るものではなく、心の動きも私みたいな人間では処理能力を超えてぐちゃぐちゃな思考がそこにいくつも漂っているようなものなのだ。活字の中の世界では、全てが活字で表現される。文字に支配されていると言い換えても良いと思う。全ての行動や思考や趣味や、成り行きは、活字にしなければ編まれていかない。それは活字で出来上がっている小説世界の特徴と言えると思う。当然、現実……私視点の現実ではそういったきちんと整合性が取れた時間軸の動きではなかったりする。私視点の現実は、思考と今の時系列が合わなかったりするのは日常茶飯事で、見ているものしていることが、全て意味のある小説世界とは違い、目に入るものを全て脳で処理しきれているかというと、そんなことはない。私は聞いていないこと、見ていないこと、聞いていても理解できていないこと、処理できていないこと、見ていても、見ていると認識していないこと……で、溢れている。その中で私は自らの現実だと思いたいものを他者の気持ちだったり行動だったり、自らの行動をコントロールしているような気持ちで動いている。そうしなければ、動けないし、考えられない。思考も食事もなにもかも、全ては取捨選択なのだと思う。私は、取捨選択をして、整えられていると自らが思っている世界を現実だと思い生きている。自らの考えた枠の中でしか生きられない。活字の世界である小説世界はどうなのだろう。彼らは、ある意味自由ではない。取捨選択できる立場にないからだ。取捨選択をさせる無意味な情報が活字の世界には存在しない。否、存在させようとしてもかまわない。それは”あえて書かないことでそこに自由を作ることが出来る”それは”想像させる”という自由だ。現実世界で、無意味なものが無意味ではないというこの視点を持っている方がどれだけいるのか知らないし、知りようもないけれど、私は、そう思っている。取捨選択できる自由があるからこそ、(無意味さがそこにあるからこそ)私は、私の世界を現実だと思い込めるのだと思う。取捨選択できると思える自由は、そのまま私が存在しているというリアルにつながると考えるから。
そういったことを現実でつらつら考えたところで、それらの考えは、そのうち霧散して消えてしまう。文字に起こすことで、それら霧散しようとしていたものが、化学反応を起こす瞬間がある。それが、私自身が考える文字に起こす理由だ。結局は取捨選択をしようと思った無意味でありそうな思考の中に、化学反応を起こす想像の余地が眠っているのだろうとも思える。結局は、余地を作る為に、文字に起こし、客観視しようとしたいと思う自らの欲求がそこにはあるのだろう。思考の広がりは、それこそが喜びだと思う。思考をこねくり回すことは思いのほか楽しい。なぜ楽しいのか。それはきっと、それこそが遊びにつながるからだ。私は、余地が遊びだと思っている。遊びが無ければ、私はきっと息も出来なくなってしまうんだ。