3.人に認められたいという言葉に隠したもの
他人に認められたいと思うそんな心の動きに私自身は、向き合ってみて、結局は、”寂しいから”という結論に達する。承認欲求は、きっと私の場合そんな小さなことからきているのだ。誰かに何かをしようと思うのも、きっと”何か”を得たいのだと思う。……それは、人に褒められたいとか、何かしらしてもらいたいとかそういった欲求とは違う。……否、それはある意味、人に求めているからそういったことを行うのだが、人に求めても居ないとも言えるのだ。結局は、人がどう思おうが、私が自らを認めたいと思いながら人にそれを行っているだけのような気がする。そこにはその人がいない。どこまでもさみしいと泣く私自身の心しかない。私は、自らがしてほしいことを相手に行うことで私にしてもらったような気になって安心しているのだろう。相手不在のそれはとても情けない矮小な私らしい臆病な自分の認め方だ。結局は、他人を見つめることそのものが怖いのは、本来の矮小な自分がむき出しになって、自分自身に突きつけられることを恐れているのだと思う。そして、それは、とてつもない恐怖なのだ。私にとって。綺麗なものを探したいという気持ちの裏に隠れた矮小な自分の心。そういったものは、見たくない。でも、見なければいつまでもこんな自分から逃げる自分の壁を超えることが出来ない。自分に本当の矮小な自分を突きつける恐怖を乗り越えることが具体的に何を指すのか、上手く思考出来ないけれども、私は、どこかで、乗り越えたいと願っているのだ。だから、自分を追い込めばそれがかなうかもしれないと思って、死にたいと思うのだろう。ごちゃごちゃと気持ちがまとまっていなくて支離滅裂かもしれない。けれど、そういったぐちゃぐちゃなものが、私がずっと戦いたいと思っている私自身なのだと思う。