2.もし、出会うことが出来るのなら、天使や神様よりも悪魔の方が良い
私の前にもし、”願いをかなえてくれる存在”が、現れるとするなら、それは、天使や神様よりも、悪魔であってほしいと思う。神様や、天使なんて現れてしまったら、きっと私はそこでも、本当の自分を取り繕おうとするのだろう。そうして死にたくなるのだ。もし、私の前に悪魔が現れるのならば、私は、心おきなく私を吐き出せるのだと思う。そういった保険という名の呪いを自らにかけているような気がする。だからこそ、私は、自らを傷つけない、でも自らを気持ちよく快くしてくれる綺麗さを求めるのだろうと思う。つまりは、結局は、どこまでも自らしか見つめられていない。そういった事実を突きつけられて、私は、また死にたくなるのだ。探そうとしている綺麗なものすら、どこまでも自分のご都合主義だということを気づいては死にたくなるのだ。そんな私を見たとき、悪魔なら、何と答えるだろうか。こう言ってほしいと私の中のご都合主義な気持ちが叫ぶ。私は、悪魔になんて言ってほしいのか。きっとこういってほしいのだろう。「願いはかなえられない」
ここで、叶えられてしまったら、私の悪魔像の理想からは外れるし、私の希望ではないのだろうと実感する。結局は、私は、反応が欲しくないという反応を望んでいるのだと思う。ご都合主義な自分のみが楽でいられる展開。結局は、自らを突きつけられない展開を望んでいる。私は、変われないのではなく、意識的に変わろうとしていないだけなのかもしれない。いや、そうなのだろう。言っていて、泣きそうになってきたが、きっとそうなのだろう。