22.幸せそうな君を見ているとこちらも嬉しくなる
人が人の為に何かしようと考えるとき、裏も表も、考えて、やっぱり、感じることは、結局は、どのような行為であってもその対象の相手が幸せそうである様子を目にして、それが嬉しくなるのなら、それは、そのために行っていることなのかもしれないと思えるから、結局は、根本は、人の心理の根っこの部分の一番の原動力は、やっぱり、そういった幸せな未来への願いを託して何かを行うのかもしれないと思います。散々、嫌なことをしてきたと思う私ですが、やっぱり、根っこにはその方それぞれに対する大事な思いがあったからだとやっぱり思うからです。伝え方が不器用すぎて哀しく思うことの方が圧倒的に多かったですけれど。
心地よい未来を切に願って、人は間違いを犯したり、哀しんだり、苦しんだり、時に嬉しくなったり、するのかもしれないです。
柔らかい手のひらが、温かな差し出された手のひらが、どの方にも平等に幸せの象徴や、温かさの象徴ではないのかもしれないけれども、それでも、やっぱり、そこになにかを求めてしまうのは、そして、それを目にしたいと思うのは、なにか、優しい原動力のような気がします。
原動力にも様々な種類があるって、人は言うのかもしれないけれど、私は、敢えて全て同じだって、同じ一つのものにつながっているって結論付けたいと思います。
憎しみも愛情につながっていて、それが、対等に裏と表であるのならば、
自らの特別な枠の中におさまる方々というくくりの中での感情の動きがあるのならば、
やはり、綺麗なものも、汚いものも、人の心の中にあるのです。
――本当に、美しいものや、本当に綺麗なものを、求める願いが、人の心から生まれているのであれば、
――本当に、美しいものや、本当に綺麗なものは、きっと、いえ、絶対に、その方の心に眠っているのです。
――隠れているのです。
……青い鳥を探し続けて、その青い鳥は自らの近くに居たことに気付いた、チルチルとミチルのように。
それを見つけるためにした遠回りは、決して、遠回りではなく、
――見つけるために必要な遠回りなのだとそう思います。自らの中に本当に探したいものがあるのだと気付けるまでに必要な遠回りだったのだと、そう思うのです。
本当に、綺麗で、美しいものを見つける由宇のお話は、これで、結末とさせて頂きます。
このようなお話に最後までお付き合いくださり、本当に、感謝の気持ちで一杯です。
有難う御座いました。




