21.今、私が、全てから見捨てられたとして
たとえば、私が、今、全てから、見捨てられたとして、私は、本当にそこまで不幸なのだろうかと私は、考えてみる。そんなことは無いよと、私の中は答える。それはそうだろう。世界はとても広く、私は、自由になる手足を持っていて、自由に動く頭があり、自由に動く口があり、情報を見つけようと行動しようとする今までのどんなに陳腐であろうとも、経験と知識は全くのゼロではあり得ないのだから。
自分の足だけでそこに立っていると思い込むことは、ただの何も解っていない人なのかもしれないが、私は自分の足で立てると自覚することは、自立の一歩だと思う。結局は、人は、他人に寄り掛かってもなお、自分の足で立てると自覚しなければならないのだ。
自らの立場や、状態から、そのままの自分で、今を見つめるならば、それが意見となるのだと思うし、自らの意見が無ければ、生きているというのはすこし大変な話なのかもしれない。結局は、自分の身体が動いているのは、自分が動こうと思っているからであって、コントローラーで無理やり動かされているわけではないのだから。私は、自ら動きたい私像があって、結局は、その指示に従って動いているのだ。
どんなに自分勝手に聞こえても、自分がしたくないのならば、自分がしたくないことを選んでも良いのだ。それが、とても自分にとって厳しい道で、それが自分にとって周りの目から見ても苦しい道なのだとしても、自分を動かせるのは自分しか居ないのだから。
そう考えたとき、やっぱりその時、自分を助けるのは自分であって、その自分の意思を尊重してくれようとする方の存在だと思う。
……だから、なんというのかな。最後、というのか、決め手、というのか、そういったものは、やっぱり自分で決めなければならない。今、私が、全てから見捨てられたとして、それでも自分を見捨てるのか見捨てないのかを最終的に判断するのは自分なのだから。




