20.それは、絹のような
もし、私が、これは綺麗なものだなと心から思えるものに出会えるとしたら、きっとそれは、現実では起こりえないのかもしれないと、最近そう思えてならない。
綺麗なものなどどこにもなく、ただただそこには摂理があるのみのような気がする。
生き物がそこに存在することそういったことそのものが、神の悪戯であったとするのなら、私はそのような悪戯で、生の苦しみを感じて生きているのだ。実際には、神の悪戯ですらなく、奇跡的な偶然の積み重ねなのだろう。今は、人の世だけれど、過去は恐竜の世でもあった地球は、結局は、大きなサイクルの中で蠢いているだけに過ぎない。これは、死にたい私を産んだとは思えない母の発言を聞いて思わず驚いたことがらからもきているのだが、母は、言った。生きていればいる程、世界がどんどん変化することを知ることが出来る。それはとてもわくわくすることだと。
それはそうかもしれない。今から後、20年もすれば、もしかしたら、再生医療なども進み、長寿は更に増え、人工知能が活躍し、コンピューターは益々身近になり、ロボットが街中をかっぽすることが至極当然な時代になっているのかもしれないし、あの某アニメの某ネコ型ロボットのような人工知能が搭載されたロボットが家庭教師をやるような時代になるのかもしれないし、クリーンエネルギーを使った様々な乗り物が色々と出来上がっているのかもしれないし、かと思えば地球の自転が急に早まったり止まったり、もしくは、寒冷化か温暖化が進んでとても人類が生活出来ない環境に突入して、ロケットか宇宙エレベーターで他の星に逃げる際にバルタン星の人々みたいに宇宙で遭難なんて起こっているかもしれないし、もしかしたら、人間そのものが何も栄養を摂取しなくとも生きられるくらい進化か退化か判断は微妙だが、しているかもしれないし、もしかしたら、生身の人は一人もいなくなってみなしごハイジみたいに人を探す旅に出ているかもしれない。未来は、本当に何が起こるかわからない。現実は小説より奇なりなんてよく言ったものだと思う。自分の未来が解らないからこそ、今に絶望できるのだろうし、解らないからこそ、今に希望を持てるのかもしれない。
けれども、と、思う。そうやって進化していっても、綺麗なものが変わったのだろうか?私は何も変わらないと思う。多分、ずっと昔の明治とか大正とか戦国時代とか弥生時代とか縄文時代とか、太古の時代とかでも、人の営みの中での人との関わりの難しさは変わらなかったと思うし、悩みも変わらなかったと思う。食を探求する気持ちも変わらなかったと思う。そして、綺麗なものを追い求めたいという気持ちも変わらなかったと思う。
時を超えても変わらない悩みを抱え続けていることが、それだけ難しい悩みなのかとも思うし、それだけ特別悩みなのかとも思う。いつの時の人もきっと葛藤を抱えているし、いつの時の人も、きっと信じたいものはあったはずだ。
こんなことはきっともっと深く考えていた思想家がいらっしゃったのだろうし、……なんだかひどく、そういったことを思うと何も書けなくなってしまうけれど、きっと、変わらないってことを知っているのと知らないのとではまた違う答えが出来てしまうのだと思うし、知ることによって、ループから逃れられることもあるのだと思う。全てを吐き出すことが良い悪いという話ではなくて、全てを広げて、それでも、見つめることが時には大事だと思うんだ。
だから、私は、綺麗なものは本当には、今、この世界にないような気がする。
そこには摂理のみがあるような気がするのです。




