1.精一杯ってどの程度なのか
由宇は、ふぅ、とため息をついた。
自分のそのままをありのままに見つめようとするのは、とても苦しくて、勇気が要ることだったから。
だから、少しずつ少しずつ自分が痛くならないように抉りたいだけちょっとずつ抉って、自分と折り合いをつけていく。そういった形に落ち着いている。
一年前よりも、今、今よりも未来が、今の自分よりもより、自分と折り合いをつけられていると良い。そう、思ったりもする。私は、自分のことしか言えないが、自分に対してさえ、かっこつけたくなったり、見栄を張りたくなったりする。マイナスな要素から自らを見ると、途端に今までこう歩くんだと思いながら進んできた道が、全く歩けなくなったり、一瞬で道がなくなってしまったりする恐怖に陥ることが予感されて、それが恐ろしいから、私は常に保険を掛けるのだ。何かをする前にそれがうまくいかなかった場合の保険をいくつも自分の中に用意して。がちがちに準備しないと前に進むことすらできない。そういった自分は、ひどく……恥ずかしいし、死にたくなる。露骨に見つめることが、私は怖いからこそ、やはり、私は、用意している自らが折り合いをつけている自分を見ることしか出来ないでいる。言い訳は常に私の中にあるんだ。
精一杯って、どの程度なのか、そういうことを情けなくも思ってみて、自分と馴れ合っている自分の声が聞いてくる。精一杯なんて、なったことないだろう?なんて、知った風にして心の声が言ってくる。これは、実は保険で、傷つかない自分の為の折り合いだったりする。……私は、精一杯やって、それが失敗することが怖いのだ。だから、初めから精一杯取り組もうとしない。初めから自分を追い込もうとしない。今の緩く居られる環境に甘んじている。自分と馴れ合っている自分に甘い心の声は傷の舐めあいを前提とした声、精一杯やろうとしても出来ないんだ……私は、〇〇だから……なんて、出来ない理由に悲観するような体で私を責め立てる体で、実はその自らの声に挑戦しようとしない自分を隠して見ないようにしている。実はそうじゃない。私は、やろうとしたことが無いのだ。自分のそういった矮小な部分を直視してしまう結果につながるかもしれない事実が怖い。
怖いという感情は、ただの思い込みなのかもしれない。もしかしたら、それらはすごく高い壁のように見せかけているだけの超えてしまえばなんてことない壁なのかもしれない。けれど、今の私には、それが上手く出来ない。自分を直視することは死ねと言われているようなものだ。そして、直視したくないがために死にたいという気持ちに逃げる。結局は、私は自分自身の正当性から、自分自身の直視から、みっともなく逃げ続けているだけの自分と戦うことすらしてこなかった人間なのだ。だからこそ、未だにこんな恥ずかしい自問自答をしようとしなければ自分の中に踏み込もうと出来ない。自分に自分をきちんと見せられないでおいて、他者にそのままの自分を晒すことなど出来る筈がないのだ。恥ずかしいが、それが私の今の現状なのだと思う。