10.音のもつ不思議
私が意識するだけでも、世界は、不思議に満ちているわけだが、当然、私以外のどなたかが、私と同じものを同じように見て考えているとか感じているなどということは知ることが出来る筈もなく、正直、調べる術もなく、はっきりいうとあまり、そこは今話したいことにおいて重要な視点では、多分ないので気にしない。私は、私の妄言を妄想として書いている。そういったことにしてください。
話を戻そう。世界には、(私目線で見ると)不思議で満ちている。子供の頃などは、今よりも更に阿呆だった私は、全てが不思議だと感じていた。世界は不思議だと。たとえば、私が今目にしている色や、触れているものの形や、匂いや、味や、音や、生き物の存在や、水や大地や様々なそれら、生きているものそのものが、今より更に阿呆だった私には不思議に映った。たとえば、一日として同じようにはならない空というキャンバスに描かれた絵画(雲の流れや、色の変化)を見ては、阿呆のように頭の中に焼き付けようと思い色々と考えたものだ。筆運びやら、キャンバスでの色づくりやら表現方法やら、自分の好きだった油絵の絵師はこのような空を見て描いたのだろうかと妄想したり。一日中、自らの世界のお話を考えたり、人と会う度にその方はどのような綺麗で不思議なものを持っているのだろうと、興味がつきなかったり。様々な不思議にいつもわくわくしている阿呆だった。ただ、先程、ちらりと、音の不思議について触れたが、私は、子供の頃から、声フェチだったのにも関わらず、(歌うことは好きだった)音に対しては、敏感になりすぎて、あまり関わろうとしてこなかった。音楽は嫌いではなかったが、私は世界が静かであることを子供心に愛していたので(静かに妄想することが好きだったのだと思う。風の音とか当時も考えていたくらいだ)あまり触れてこなかった。そのため、音の不思議に触れ始めたのはほとんど大きくなってからだった。初めに触れたのは、詩の朗読に興味を持ち、その後、無声映画を知り、その後、映画から映像→そしてやっと音響効果に真面目に興味を持つようになり、今は、音の重要さにとても大きなものを感じている。(変人と思われた方、否定できないです)
……けれど、感じては居ても、少し、音が私は怖い。好きな音楽はあるにはあるが、やっぱり、無音の方が落ち着くのだ。音があると、その音に意識が塗り替えられるような気がして、画一的になる気がして、どうにも怖くなってしまう。音が持つ影響がとても大きいことを本能的に知っているからこそ、怖くなる。言葉には、音がある。音には潜在的にリズムが存在する。そして、人の身体は楽器のようだとも、私は感じることがある。声を出す楽器だ。そして、惹きつけられる話し方をする方ほどに声に特徴的な節と言っても良い、リズムをつける。まるで音楽のように奏でるのだ。歌うカナリアのようにそれら、音には個性がある。そしてその個性が持つ力はとても大きい。人の印象を簡単に変えてしまう程には大きい。だからなのかわからないけれど、私は、音が苦手だ。嫌いじゃない。寧ろ好きだと思うのに、長時間聞いていると、なにかしらくるしくなるのだ。私の思考の中に音が存在しないことが、なにかおかしいことに思えてくるからだ。
私の中には、様々な色やイメージからできる言葉があっても、音はあまり存在していない。単純にストックが少ない。触れてこなかった差なのかもしれないし、潜在的な恐怖からブロックがかかっているのかもしれないが、どちらにせよ、音は、私にとって新しいイメージであり、未知であり、怖いものでもあるのだと思う。音のもつ印象を左右するだけの影響力と大きさは、私の中で咀嚼するには手に余るのだと思う。相変わらずちっぽけな人間だと思うが、そう思う。音は不思議だが、私には怖い存在なのだと思う。
怖さというのは、ある意味神秘的なものだと思う。
音の持つ不思議に触れる度に私は、不思議な気持ちになり、神秘的な居心地の悪さを感じる。
それは恐怖と結びついて、そして、手に触れられないもの、大きなものに感じてしまう。
音というものは、そういった不思議さがあると思う。




