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六話

「……なぜ、それを」

 頭を雷に打たれ、完全に麻痺してしまった俺がようやく絞り出した言葉は、それだった。第一声を発するまでの十秒は、一時間よりも長く感じた。真っ先に出た言葉が説得の言葉ではなかったことが、情けなく思えた。

「大原から話を聞いた」

 親父は変わらず、硬筆を走らせながら言った。犯人は美雪さんだった。とは言っても、美雪さんに悪意はなかったのだろう。おそらく親父を説得しようとしてくれたのだ。しかし親父はその主語と述語のみを抜き出した。簡単に予想できる。

「わしは今川家の人間としての自覚を持てと、あれ程教えたはずだ」

 親父に怒られたのは初めてだった。今までは常に親父の言う通りにすごしてきた。常に我慢してきたのだ。だから怒られるようなことは一切してこなかった。

「まだ自分の立場が理解できていないのならば、もう一度だけ言っておく。お前は今川の人間だ。お前に選択肢などない。わかったか」

 親父は俺の顔など見ずに淡々と、それでいて耳を貫くような声で言った。

 そうだ。何を勘違いしていたんだ、俺は。もとより親父に説得など通用するはずがない。

 家の掟という完全に世間から隔離された規則に、まともな論理など通るはずがないではないか。

 長く続く今川家という歴史と伝統において、俺は氏実という一人の人間ではなく、今川氏実なのだ。今川の籠からは飛び立てない。

「わかったか」

 うつむいて黙っていると、さらに強い語気で怒鳴られた。この威圧感は、きっと警備員が受けたものより何倍も強い。

「……はい」

 うなずくしかなかった。情けなさと同時に、恐ろしい倦怠感を体に感じた。


 親父の部屋を出て、俺は半放心状態のまま自分の部屋に戻った。足元がおぼつかなくて、何度か転びかけた。

 部屋にはクレアとアリスの他に美雪さんがいた。

「あ、氏実くん。あの、その、す、すいませんでした!」

 美雪さんは少し慌てた後、深々と頭を下げてきた。

「私が全面的に悪いのです! 会長を説得しようと、良かれと思ってお話したのですが、まさかあんなに立腹されるとは思わなくて……。本当にすいません!」

 美雪さんは眼鏡の裏に涙を垂らしながら何度も頭を下げてきた。予想通り、美雪さんは親父を説得しようとしてくれていた。

「いいんですよ。顔を上げてください。もともとお父様を説得できるはずなんてないんです」

 言いながら、俺は美雪さんとその横に立つクレアの間を素通りし、座卓に座った。

「で、ですが」

「いいんです。もう忘れましょう」

 なぜか悲しくはなかった。むしろいつもより笑顔も作りやすかった。前向きな考えは消え失せ、希望はすべて絶望に変わってしまったが、清々しい気分だ。たぶん心のどこかでは、すでにあきらめていたのだろう。

「お父さんのこと、説得してみたの?」

 クレアの声が聞こえた。

「……説得したところで聞いてくれるわけがない。無駄だ」

 あの親父との間に話し合いが成立するわけがない。時間の無駄。体力の無駄。

「すみません、美雪さん。しばらく部屋を出て行ってもらえますか?」

「あっ……。はい……」

 美雪さんは何かを言いかけて、それを飲み込んだ。きっと察してくれたのだろう。しばらくは一人になりたかった。

「クレアさん、アリスさん、行きましょう」

 美雪さんはクレアとアリスにも部屋を出るよう促した。

「馬鹿じゃないの」

 しかし、後ろから別の声が聞こえた。振り返ると、クレアがまっすぐに俺を見つめていた。

「馬鹿じゃないの、氏実! お父さんに好き勝手言われて、言いたいことがあるのにただ黙ってるだけで! 結局最後は何もしないであきらめて! かっこ悪い!」

「く、クレアさん、そんな言い方!」

「だってそうでしょ! 自分の意見はずっと心に秘めて、耐えて。それでずっと我慢して、悲劇の主人公でも演じてるつもり!? うじうじ、うじうじ! ほんとかっこ悪い!」

 クレアはさらに声を大きくして言った。クレアの目じりにはなぜか蛍光灯で輝く涙がたまっている。

「クレアさん! 氏実くんの気持ちも考えてあげてください!」

「考えてるよ! 氏実はずっとお父さんに言いたいことがあるんだよ!? 何年も何年も! 氏実はずっと辛い気持ちでいたんだよ!?」

「そ、それは……」

 美雪さんはそれ以降黙ってしまった。

「だいたい他人に言わせるってどういうこと! 本当は美雪に言わせるために、昨日悩みを打ち明けたんじゃないの!?」

 それは違う。なぜなら美雪さんが親父に話すことは、完全に想定外だったからだ。だから親父に呼び出され、切り出されたときは心の底から驚いた。

 ……いや、もしかしたらクレアの言う通りなのかもしれない。親父に美雪さんが情報元だと知らされたとき、特に驚きはなかった。それどころか美雪さんが話した理由さえも的確に予測していた。もしかしたら、俺は美雪さんの性格なら親父を説得しにいくと踏んでいたのかもしれない。

「氏実はただお父さんが怖いだけなんじゃないの!?」

「そんなわけないだろ」

 俺はとっさに顔を下げた。クレアに表情を読み取られたくなかった。

「そうだよ! だって一人称は指摘したらすぐ『僕』から『俺』に変えたのに、お父さんの呼び方はずっと『お父様』のままだもん!」

 それは気づかなかった。言われてみればそうかもしれない。

 たしか最初に部屋に忍び込んできたクレアとアリスには、とっさに『親父』と呼んでしまい、それ以降は彼女たちしかいない場所ではそう呼んでいた。しかし学校の友人や家の人たちがいる場所では、やはり『お父様』と呼んでいたと思う。無意識のうちに使い分けていたのか。相変わらず鋭い。

 では俺は親父のことを怖がっているのだろうか。いや、考えてみれば今さらそんなことを疑問に思うこと自体が変か。俺はクレアたちの居候に関しても今日の外出に関しても、親父に見つかることだけを心配していた。これは何よりも親父を怖がっている証拠だ。自分がただ認めてこなかっただけ。

 俺は親父が怖いのだ。親父に怒鳴られることが、親父に睨まれることが怖くて堪らないのだ。

「お前にはわからないだろ。お父様の怖さを」

 俺はまた座卓に向かい、極小さな声でつぶやいた。言った直後に、涙が溢れそうになった。また『お父様』と呼んでしまったことが、悲しくて仕方なかった。

「お前にはわからないだろ! 親父の怖さも! うちの事情も、今川家の掟の力も!」

 強がって、人生で一番の大声で言い直すと、余計なおまけがついてきた。もはや今川という家に対しての恐怖症だ。

「わかんないよ! わかるわけない!」

 クレアは涙声でそう叫び、そして続ける。

「でも間違ってるよ! 自分の思いを言葉にしないで、ただ流れに身を任せてるだけなんて、それじゃ何も変わらない!」

 矢じりよりも鋭いクレアの言葉が、胸に刺さった。

 クレアの言っていることは的を射ている。このまま親父に自分の気持ちを伝えず、ただ時が過ぎるのを待っていれば、事態は何も変わらない。暗転はしないが好転も絶対にしない。嫌々でも作り笑顔で家を継ぐのは既定路線だ。

 しかし、それに気づくにはいささか遅すぎた。もはや俺には拭えない負け犬根性が染み付いてしまっていた。暗転も好転もしないなら、いっそ現状維持で構わないというあきらめ癖がこびりついてしまっているのだ。いや、これすらも言い訳か。

 ただ単に親父と向き合いたくないだけだ。

「男の威厳なんて、最初からなかったんだな……」

 情けなくつぶやくと、胸がすっと冷たくなった。


 その後は、全員が黙っている時間が長く続いた。俺は後ろを振り返る気にもなれず、頭の中であれやこれやと言い訳しながら座卓を眺めるしかなかった。クレアも黙りこくって、まだ部屋にいるのかすらわからない。俺の反応を待っているのだろうか。

 しばらくたつと、後ろから畳を踏みしめる音が聞こえてきた。その音は一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。そして俺の後ろで立ち止まると、不意に俺の右手首を何かがつかんだ。その白く美しい手は、温かかった。

 俺はゆっくりと振り返る。すると、凛とした顔つきのクレアが目の前にいた。この数日でクレアのいろいろな表情を見てきたが、こんなクレアは初めてだ。

「何で……」

 クレアの顔を見つめていると、その先の言葉が出なくなった。

 クレアは黙ったまま俺の手をぐいぐいと引っ張ってくる。なぜか抵抗する気が起きず、俺はおずおずと立ち上がった。そしてクレアの誘うまま、畳の上を歩き出した。美雪さんは心配そうな面持ちで俺を見つめていた。

 クレアに手を引かれながら、ふと俺は考えた。クレアはなぜこんなに真剣に俺を叱ってくれたのだろうか。

 今まで、表向きにはいい人間の俺を叱る人間など誰もいなかったが、クレアは涙を流して俺を叱った。じめじめ、うじうじと悩んでいた俺が鬱陶しかったからだろうか。いや、たぶんクレアは、底抜けに優しい人間なのだろう。だから人のために一生懸命になれるのだ。クレアは人のために人を叱れる人なのだ。

 クレアは窓の前で立ち止まると、左手で手元に立てかけてあった箒をつかんだ。次にその手で窓を開け放ち、俺の手を引いた。

 そしてクレアはそのまま、俺を抱き寄せた。

「お、おい、何でこんなこと!」

 一瞬何が起こったのかわからなかったが、なんとか気を取り直した。

「いいから黙ってて。じゃないと舌噛む」

 クレアは俺の言葉を制止しながら、そのままの体勢で箒にまたがった。次第に下から爽やかな風を感じるようになる。

 そして次の瞬間、俺たちを乗せた箒は窓を飛び出した。窓枠にぶつかりかけたので、とっさに目を閉じて頭を下げた。

 顔に冷たく吹き付けていた風が止んだ。目を開けると、箒は遥か空中で静止していた。辺りはすっかり暗くなっており、屋敷からは淡い光が点々と漏れ出している。

「おい、下ろせ! 親父に見つかる!」

「氏実!」

 俺の命令は無視し、クレアは俺の名前を叫んだ。クレアに一喝され、俺は声を出せなくなった。

「氏実は、籠の鳥なんかじゃないよ」

 クレアは静かな声で続ける。

「たしかに鳥は自分で籠から出られないかもしれないけど、氏実は鳥とは違う。その気になればいつだって籠をこじ開けられる。少し勇気があれば。もし一人じゃ無理だって言うなら、私が手伝ってあげる。背中ぐらいは、押してあげるから」

 吹き抜ける風は冷たかったが、火照った体にはちょうどよかった。

 視線を下に向ける。目に映る今川の家は、思っていたよりも小さく感じた。

「ごめん、クレア。下ろしてくれ」

 俺は下を見つめながら、つぶやくように小さな声で言った。

 クレアはすべて見通していたらしい。鳥籠の真意も何もかも。もうクレアの鋭さには脱帽するしかない。

 そう言えば以前、俺はクレアを烏と言ったことがあるが、あのときの俺の表現は的確だったらしい。クレアはさしずめ八咫烏だ。ただし俺はあのとき、一つだけ勘違いをしていた。八咫烏が導くのは幸運ではなく、正しい道だ。

「……うん、わかった」

 クレアは少し間を置いて答えた。そしてゆっくりと高度を下げ、庭園の芝の上に下り立った。箒から降りると芝生が裸足の裏に刺さったが、痛みは気にならなかった。

「ありがとう、クレア」

 俺は少し前に歩いて振り返り、クレアの目を見ながら言った。

「どういたしまして」

 月明かりに照らされたクレアの笑顔は、今までに見た何よりも綺麗だった。

 俺は踵を返し、屋敷に顔を向けた。美雪さんとアリスが開かれた窓からこちらを見ていた。

「氏実くん、大丈夫ですか?」

 窓に近寄ると、美雪さんが声をかけた。

「無事です」

「手をお貸ししますよ」

「いえ、平気です。自分で登ります」

 俺は両手で窓枠をよじ登った。一瞬だけだが、心地よい重みを腕に感じた。

「さて、では俺は行ってきます」

「こんな時間にどこへ?」

 ふすまに手をかけると、美雪さんが聞いてきた。俺は顔だけ振り向き、答えた。

「籠を壊しに」

「は?」

 美雪さんは困惑した表情をした。俺に続いて窓をよじ登っていたクレアだけが、笑顔で応援してくれた。


 親父の部屋に続く廊下は薄暗かった。しかし追い風に背中を押されているように足取りは軽く、道をまっすぐと進めた。前方に見える親父の部屋からは、ふすまの隙間から明るい光が漏れていた。

 俺は部屋の前で一度、深呼吸をした。正座しようか迷ったが、今回はしないことにした。

「お父様、氏実です」

 さすがにまだ『親父』とは呼べなかった。

「お話があります」

 やはり返事はない。

「失礼します」

 俺はつばを飲み込み、ふすまを開いた。親父はまだ座卓に向かって筆を走らせていた。

「お父様、話を聞いてください」

 ふすまは閉めず、立ったまま親父に話しかけた。

「わしは今、忙しい」

 親父はやはり俺の顔を見ずに言った。

「お願いします。今、聞いてほしいのです」

 今でなければ、後回しにすれば、もう言えなくなる気がした。自分の思いを口にするには、最後の機会だという気がした。

「あとにしろ」

「お願いします」

「……三分やる。話せ」

 押し問答の末、親父が折れた。時計は五時三十分を示していた。

「ありがとうございます。では早速ですが、僕が」

 いざ言おうとすると、言葉が詰まった。そんな簡単にはいかない。しかし俺はたしかにクレアに背中を押してもらったはずだ。勇気を出さなくては。

「僕が家を継ぐという話ですが、その話を白紙に戻してほしいので、す」

 緊張のあまり語尾が自信のない感じになってしまった。言えば楽になれるかと思ったが、どちらかいうと、とうとう言ってしまったという感覚が強い。

「それだけか」

「は、はい」

「そうか、わかった」

 親父はあっさりそう言うと、筆を止めてようやく顔を上げた。そして言い放つ。

「却下だ」

 重い一言だった。

「……なぜですか」

 俺は湧き上がってきたやるせない気持ちを、拳を握る力だけに変え、聞いた。

 予想はしていた。言ったところで、親父が認めるわけがないとは思っていた。しかし実際に却下されると、どうしても怒りを感じてしまった。

「理由など特にない。強いて挙げるならば、お前が今川の人間だからだ」

「それでは、僕の存在意義は今川を継ぐことだけだと言うのですか」

「当然だ。お前の存在意義などそれ以外にはない。今川の家を継ぐ。それが今川に生まれた者の使命だ」

 最低の父親ではないかと思う。この親父は自分の実子の個としての意義を、完全に否定した。

「自分の人生です。自分で決めさせてください」

「親の庇護がなければ何もできぬ餓鬼が何をほざいている。お前は黙ってわしの言う通りしていればよいのだ」

「子供の人生を親がすべて決めつけるなど、非常識だと思いませんか」

「かつては皆そうであったし、今でもそんな話はよくある。仮に非常識だったとしても、世間の常識は今川家にとっての非常識だ。いや、世間が非常識なのだ」

 駄目だ。この親父には何を言っても通じそうにない。今川だけが絶対不変の正義であると頭ごなしに言われ、その論理がまかり通ってしまうならば、もう打つ手はない。

「お父様は」

 完全に切羽詰まった俺の口を出かけた言葉は、一度喉の奥に戻った。そして。

「親父は自分の未来を決められていることが、嫌だと思ったことはないのかよ!」

 初めて親父に向かって『親父』と呼んだ。初めて心からの言葉をそのまま親父に伝えた。言葉とともに、目から涙があふれてきた。

 そうか、簡単なことだったのだ。説得しようと考えるからいけなかったのだ。思いをそのまま伝えればよかったのだ。敬語や敬称は、気持ちを伝えるには邪魔だ。

 親父は一瞬俺を睨みつけると、筆をおいた。そして右手を左手で包むように組み、言った。

「ない」

 目つきは鋭く、貫くようだった。

「三分たった。話は終わりだ。部屋に戻れ」

 親父は俺を重く見据えたまま言った。時計を見ると、長針は五時三十一分と三十二分の間にある。

「まだ時間はあります」

「終わりだ!」

 親父の声は屋敷中に響いた。親父がこんな大声を出したことは、俺の記憶では一度もない。

 俺は無言で親父に背を向けた。

「もう二度と、わしにその話をするな」

 敷居をまたぐ直前、後ろから親父に言われた。親父の視線は未だに俺の背中を睨みつけているような感じがした。

「失礼しました」

 返答はせず、ふすまを閉めた。


 自分の部屋に戻ると、クレアたちが神妙な面持ちで座っていた。

「氏実、お帰り」

 俺にいち早く気づいたクレアが言った。

「ああ、ただいま」

「どうだった?」

「……駄目だったよ。聞く耳を持ってくれなかった」

「そっか……」

 クレアは肩を落とし、視線を落とした。クレアに悲しい顔をしてほしくなくて、できればよい報告がしたかったが、やはりこの結果はどうあっても覆らない。

 しかし、今回はこの報告で終わらせるつもりはない。

「でも」

 俺はクレアの肩に静かな声で語りかけた。クレアは俺を澄んだ瞳で見上げた。

「でも、まだ俺はあきらめない。時間はまだあるんだ。何日かかっても何年かかっても、説得してみせる」

 そう。まだまだ時間はあるのだ。親父に打ち明けるまでは、今回が思いを告げる最後の機会だと思っていた。しかし親父に話を中断させられたときに、自分で言った言葉でわかったのだ。時間は一分三十秒しか残っていないわけではない。

「そっか」

 今度は笑顔が返って来た。やはりクレアは笑っている方がいい。

「まあでも、今度また親父を説得しに行くときにさ、もしかしたらまた怖気づいてしまうかもしれない。そのときはクレア、また背中を押してくれるか?」

 こんなことを言うつもりはなかったが、なぜか口から出た。心の中ではまだ親父に恐怖心があるのか。……まさかクレアに甘えているなどということはないよな。

「うん、もちろん。何度だって押してあげるよ」

 クレアの笑顔で、甘えたくなる気持ちもわからなくはないと思った。いや、甘えてなどいないが。

「私も押す」

 クレアの顔を眺めていると、アリスが両手で背中を押してきた。一瞬戸惑ったが、俺は後ろを振り返って返事をした。

「ああ、そのときは頼むぞ」

 状況がわかっているのか、いないのかは知らないが、アリスも少しだけ笑っているように見えた。

「氏実くん、何だか変わりましたね」

 美雪さんが優しげな声で言った。

「そうですか?」

「はい。凛々しくなったといいますか、男らしくなった気がします」

「いつもは女々しかったと言うんですか」

「はい、とてもかわ……あ、いえ、そんなことはないです! 全然! 氏実くんは男の中の男です!」

 美雪さんは慌てて否定した。何を言おうとしたんですか。

「まあ、それは置いておきまして、美雪さんのおかげですよ。美雪さんが俺の悩みを代弁してくれたから、やっと親父と話ができたんです」

「本当に申し訳ありません。反省しています」

「いや、だから謝らなくていいんですよ。むしろ感謝していますから」

「そう言っていただけると助かります」

 美雪さんは胸をなでおろした。

 しかし、変わった、か。たしかに前までの俺と比べれば、別人と言っても過言ではないと思う。前までの俺は、ただ親父に恐怖していただけで、何もかもをあきらめていた。

 しかし今日初めて、俺は親父に自分の気持ちを正面からぶつけることができた。結果は無残なものだったが、それでもこれから説得していこうという思いも芽生えた。以前の俺ならどれも起こりえないことだ。

 美雪さんもそうだが、クレアにはもっと感謝しなくてはならない。きっかけは美雪さんが作ってくれたが、クレアがいてくれなければ、親父の下にたどり着けなかっただろう。

「なあ、クレア。俺は変わったかな?」

 誰よりもクレアの意見が聞きたくて、思わず質問してしまった。

「変わってないよ」

 しかしクレアは否定する。

「だって氏実は氏実だよ。相変わらず小さいし、顔も中性的で男らしさの欠片もないし。むしろ何で男のくせにそんなかわいいのか問い詰めたいくらい」

「何だよ、それ……」

 そんなことを思っていたのか。というかお前の方が小さいからな。二寸くらいは俺が勝っているんだからな。

「でも、ちょっとはかっこよくなったかもね」

 クレアは悪戯に笑った。

「そ、そうか」

 不意を突かれた。この表情はまったく卑怯である。こんな表情で褒められれば、世の男は全員簡単に騙されそうだ。

 俺はクレアの表情を見ながら、ふと考えた。

 クレアたちと出会い、五日という短期間の間に俺の生活は一変した。以前のような静かで平穏な暮らしはできないし、落ち着いて徒然草を読む時間すら、なかなか取れなくなってしまった。毎日のように問題に巻き込まれ、少々疲れた感じもする。

 だが同時に、クレアからは大事なことを教えてもらった。

 考えてみれば、この五日間は笑うことも多かったかもしれない。作り笑顔ではなく、自然と出る笑顔。

 それもこれも、まぎれもなくクレアのおかげだ。毎日が楽しくて仕方がないのだ。

 あとしばらく、少なくとも一年近くはこんな生活が続くのだろう。そんな未来を想像するだけで、疲れる反面、楽しみでもある。

「まあ、何だ。感謝はしているぞ」

「あはは、氏実の顔真っ赤!」

「うるさい。気のせいだ」

 俺はそっぽを向いて反論した。そして横目でクレアを見る。少しだけ赤みがかった彼女の笑顔が、まぶしく映った。



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