五話
本日は晴天なり。
空には日輪が明々と照り、肌寒い秋風さえも温かく感じさせる。
日曜日の昼下がり、俺は今川の屋敷から最寄の駅前に立っていた。最寄駅といっても、来たのは初めてだが。
「本当に待ち合わせ場所はここで合っているのか? 誰も来ないぞ」
「いや、三十分前に来たらそりゃ誰もいないよ……」
俺の正面で花壇の淵に座るクレアは溜息交じりに言った。
そう、今日は知頼さん、政美、影勝と待ち合わせ、転校してきたばかりのクレアとアリスに近所を案内しようということになったのだ。
現在時刻は昼の十二時三十六分。待ち合わせ時間は一時ちょうどなので約三十分前である。
「だからもうちょっと遅くていいって言ったのに」
「もし予想外の事態が起きたらどうするんだよ。待たせるのは申し訳ないだろ」
「そのせいで私とアリスが待つことになってるんだけど、そっちは申し訳なくないのかな……?」
クレアは嫌味に言った。クレアの隣に座るアリスは、俺が今朝暇だったので試作したべっこう飴を舐めている。クレアにも飴を渡したが、すぐに食べ終わってしまっていた。飴を噛み砕いて食べるのはどうかと思う。
「おお、早いな、氏実!」
しばらくクレアと話していると、後ろから声がかかった。
「ああ、政美。遅かったな」
振り向くと、政美が手を振りながら走ってきた。暖かそうな洋服を着ている。
「いや、まだ二十分近く前なんだけど。あ、クレアもアリスもおはよう!」
政美が二人に元気よく挨拶した。元気なのは結構だが、昼の挨拶は『こんにちは』ではないのか。
「はよー」
その挨拶にクレアが笑顔で答えた。アリスはべっこう飴をくわえながら、返事の代わりに右手に持っていたもう一本の飴を政美に差し出した。
「あげる」
「な、何だよ、突然。アリスの施しなんかいらないぞ」
「氏実が作ったべっこう飴。あげる」
「氏実が作ったのか。だったら仕方ない、もらってあげよう」
政美はアリスからべっこう飴を受け取り、口にくわえた。何で上から目線なんだよ。
「というかアリス、何でそんなだぼだぼの服着てるの?」
政美はアリスの隣に少し距離を置いて座り、控えめに舌を出して、飴を舐めながら聞いた。アリスは長い袖の下から飴を持っている。
「私たちは魔女やジャコランタンの正装と、学校で借りた制服以外持ってないから、美雪に服を借りたんだ。でもサイズが合わないの。アリスはYシャツに着られちゃってるし、私もさっきから胸が窮屈で。美雪より私のが大きいからね。仕方ないね」
アリスの代わりにクレアが答えた。別にお前も美雪さんも、たいして身長は変わらないと思うが。
「何か喧嘩売られてる気がする……」
政美は自分の鎖骨辺りを触りながら言った。身長が低いのは恥ずかしいことではないと思うぞ。それなら俺だって男の中では低い方だ。
「あ、そうだ氏実、よくあのお義父さんから外出の許可が出たね」
政美は気を取り直して切り出した。
「まあ、色々な」
俺は政美から視線をそらして答えた。アリスに催眠術をかけてもらい、警備員は誤魔化すことができたのだが、催眠術の効かない親父には黙って出てきた。なのでそれがばれるのは非常にまずい。父親同士の関係でつながりが深い政美にも、やはりばれるわけにはいかないのだ。
ちなみに美雪さんには今朝話してきたが、護衛が必要とかでなかなか許してくれなかった。結果的に影勝たちが一緒だということで許可してくれたが。
「今日は珍しく機嫌がよかったんだ」
「氏実、右手が……」
苦し紛れの嘘をつくと、クレアが小声で言ってきた。
「え、右手? ……って、うわ!」
俺はとっさに両手を頭の高さまで振り上げた。
「ん、右手? 右手がどうかしたの?」
「いや、何でもないぞ! まったくもって異常はない!」
「そ、そう?」
どうやら政美は気づいてないらしい。おそらく俺が嘘をつくときの癖も知らないのではないか。そう考えると許嫁の政美ですら知らない小さな癖に、たった数日で気づくクレアの観察力というか、鋭さはやはりすごい。
「というか、何でお前はそんな周りのみんなが気づかないようなことに、一々気が付くんだ? 俺の癖なんて今まで一度も指摘されたことないぞ」
俺は同じく小さな声で聞いてみた。
「いや、むしろ何でみんなが気づかないのか、わからないくらいなんだけど。氏実の行動、単純だしわかりやすいと思うんだけど」
自分が人より鋭いということは自覚していないのか。
「今度は何をこそこそ話してるの?」
「え? ああ、いや、何でもないぞ」
不意に尋ねられ、俺はまた政美から目をそらして答えた。
数分待つと、今度は花壇の奥の道路に二台の黒い車が停車した。二台の前扉がほぼ同時に開き、男が一人ずつ出てくる。その男たちが後部の扉を開くと、それぞれの車から見知った男女が降車した。男女はこちらをちらりと見ると、小走りで寄ってきた。
「氏実くん、遅れてごめんなさい」
俺の前で立ち止まった知頼さんは、息を整えながら言った。知頼さんの斜め後ろに立つ影勝は右手を肩のあたりまで上げて、「やあ」と一言、挨拶した。
「こんにちは、知頼さん、影勝。まだ待ち合わせ時間前ですから平気ですよ」
午後一時まではまだ約十分ある。つまり結局は全員が待ち合わせ時間の前に到着したのだ。
「というか、何で二人して車で来たん? そんな遠くないでしょ」
クレアと楽しそうに会話していた政美が、俺の隣にやってきて二人に聞いた。クレアとアリスも政美に続く。政美もアリスもまだ飴をくわえていた。
「最初は歩いてくるつもりだったんだけど、運転手さんが私を十分も歩かせるわけにはいかないって」
「僕もそんな感じで運転手さんに。そしたら知頼さんの車と鉢合わせたんだ」
「さすがブルジョワ。徒歩で十分以上かかる場合は近所の駅に行くだけでも車を出すのか……」
政美はあきれて言った。
「ところで氏実くん、普通に外出するときも和服なんだね。さすがは今川家」
影勝は苦笑いしながら言った。
「和服しか持っていないし、あったところで着るつもりもないからな。変か?」
「いや、変じゃないけど、浮くなあって。草鞋か。うん、草鞋か……」
俺の頭から足までに視線を往復させて、影勝はまた苦笑した。
たしかに政美を見ても知頼さんを見ても影勝を見ても全員が洋服を着ており、和服を着ているのは俺一人だ。
駅を行きかう通行人を見ても和服の人間は誰もいない。むしろ先程から物珍しそうな視線を送られている。なぜ日本で日本の服を着て珍しがられなくてはならないのだろうか。
草鞋に関しては長時間歩く可能性もあるので、機能性を重視して選んだのだが、まさか制服でもないのに制服用の革靴では合わないし、草履か下駄で来るべきだったのだろうか。
「まあ全員そろったことだし、そろそろ出発しようか」
そう言うと、影勝は駅と反対方向に歩き出した。俺たちも影勝についていく。
「そう言えば、どこに行くんだ?」
俺は影勝と横一列に並びながら聞いた。女性陣は後ろで何やら盛り上がっている。
「やっぱりこの辺で有名なのは大名商店街だからね。まずは商店街を散策しながら色んなお店を案内しようと思ってる」
「商店街が有名なのか」
「ああ、そうか。学校は今川の屋敷からだと反対方向だし、氏実くんはあんまりこっち側に来ないからね」
しばらく歩くと、大通りの向こうによく賑わっている道を見つけた。入り口にかかった弓形の看板には大名商店街という色鮮やかな文字が書かれている。道行く人は上品そうな熟年の女性が多く感じられる。
俺たちは青信号で横断歩道を渡り、看板をくぐった。
「あ、ここ! 私のお気に入りのお店なんだ!」
看板をくぐった直後、後ろから知頼さんの声が聞こえて立ち止まった。振り返ると、知頼さんは左手側にある全体的に白い建物を見ていた。建物の前には木の椅子や鉢植えがいくつか置いてあり、木製の扉の上には英語の教科書で見かけた覚えのある文字が書かれている。
「雑貨屋さん?」
クレアがその建物を眺めながら聞いた。
「うん。キャットハンズっていうお店。可愛い雑貨がたくさんあるんだよ」
知頼さんは扉を押し開けながら答えた。扉が開くと、同時にころころと快い音が聞こえた。店に入ると、食器や手拭いが所せましと置かれているのが目に入った。これだけ多くのものがあるにもかかわらずしっかりと整頓されているのは感心である。しかしなぜか和服で入店するのは憚られる。
「あら、知頼ちゃん。いらっしゃいませー」
全員が中に入ると、店の奥から優しそうな表情の若い女性が現れた。ここの店主だろうか。
「こんにちは。今日は友達を連れてきたんです」
その店主に知頼さんは笑顔で挨拶をした。
「あら、そう。皆さんもいらっしゃい。ゆっくりしていってね」
店主はそう言うと、また店の奥に戻って行った。
「あ、これ可愛い!」
店主が奥の小さな椅子に座るのを確認した後、俺が目の前の机に置いてあった陶器の皿を眺めていると、横からクレアの声が聞こえた。クレアを見ると、白い取っ手の付いた器を持っていた。変な形状だが、湯呑の類だろうか。
「氏実、このティーカップ可愛いと思わない?」
クレアはその器を両手で持ち、こちらに持ってきた。
「そうだな」
器の内側には猫の絵が描かれていた。たしかにこの絵は可愛らしい。
「でしょでしょ! だから氏実、買って?」
「何でそうなった。自分で買えよ」
だから、の前文が理由になっていないぞ。なぜ俺が買わなくてはならないのだ。
「だって私、日本のお金持ってないし。氏実はお金持ちでしょ?」
「生憎、俺もお金は持ってないんだ」
「え、あんなにお金持ちなのに?」
「小遣いとか、そういうものはもらってないからな」
生まれてこの方、お金というものは持ったためしがない。
「そうなんだ。もしかしてクレジットカード、も氏実の家じゃありえないか……。あ、じゃあ欲しいものは何でも買ってもらえるとか?」
「それもない」
そんなことに親父がお金を出してくれるわけがない。
「え、それじゃあ欲しいものがあったらどうするの?」
「我慢」
「うわ、それはつらい……」
クレアは同情するように言った。まあたしかに突発的にものが欲しくなることもあるが、我慢していると意外に欲求は薄れるので、それほどつらくはないのだが。
「ああ、でも一つだけお父様に買ってもらったものがあるな」
「へえ、何?」
「俺が使っている茶道具があるだろ? あれは俺が初等科の一年のころ、家に清水焼の職人が来ていたから、お父様に頼んで作ってもらったんだ」
あの茶道具は実に素晴らしい逸品なので、大事に使わせてもらっている。おかげで未だに欠けひとつない。
「小学一年生がずいぶん渋いものをねだるね……」
クレアは目を細めて言った。あれほど素晴らしい焼き物はどんな年齢でも欲しくなるだろ。艶といい柄といい、まさに至高である。
と、そんな風に話していると、さっきまで政美たちと手拭いを見ていた知頼さんが近づいてきた。
「クレアさん、何かいいもの見つかった?」
「あ、知頼! うん、すっごく可愛いティーカップ見つけたんだ!」
クレアは知頼さんに器を見せびらかした。
「あら、本当。クレアさんにとっても似合ってると思うよ」
「でしょ! でも実は私、今日お金持ってないんだ……」
「そうなんだ。……もしよかったらそのティーカップ、私が買ってあげようか?」
「いいの!?」
「うん、いいよ。転入のお祝いに私がプレゼントしてあげるよ」
知頼さんはまぶしいくらいの笑顔で答えた。やはり知頼さんは優しい。
すると、突然クレアは持っていた器を皿の置いてある机に置き、知頼さんの手を握った。
「結婚してください」
こいつはいきなり何を言っているんだ……。
「それはちょっと……。ほら、私たちはお互いのこと、まだまだよく知らないでしょ?」
お互いのことがよくわかるようになれば結婚してもいいんですか、知頼さん。女性同士ですよ。
いやしかし、何となくこの二人は、何というか、悪くない。
「じゃあ、私はお会計してくるよ」
「あ、私も行く」
そう言うと知頼さんとクレアは、店主の下へ器を持って行った。
「氏実、何見てるんだ?」
知頼さんが財布から、何やら黒い長方形の板を取りだしているのを遠くから見つめていると、後ろから政美に声をかけられた。
「お皿?」
「皿だな」
俺は手元にあった平たく白い陶器の皿を見やった。真ん中にはクレアが持ってきた器と同じ猫の絵が描かれている。
この他にも猫が描かれている皿が多い。店内を見回せば、お盆や急須、さらには扇子など食器以外の品物にも同じ猫がある。
「政美」
しばらく無言で皿を眺めていると、今度はアリスの声が背後からした。俺と政美は同時に振り返る。アリスの手には側面に猫が描かれた円柱状の白い器が二つあった。クレアが持ってきたものとはまた形状が違う。
「何? コーヒーカップ?」
政美が尋ねると、アリスは小さくうなずいた。
「買って」
「な、何であたしがアリスに買ってあげなくちゃいけないんだよ! だいたい何で二つも……」
「ペアルック」
「ぺ、ペアって……。だからって、あたしがアリスに買ってあげる義理はないんだからな!」
「かぼ……」
「う、あう。……今回だけだからな」
弱い。簡単に籠絡されすぎだろう。
「結婚」
政美の答えを聞くと、アリスは間髪入れずに言った。おそらく先程の知頼さんとクレアのやり取りを聞いていたのだろう。
「だ、駄目だ! それは絶対駄目だ!」
政美は顔を真っ赤にして断った。すぐにこの反応を返せるということは、政美もさっきの会話を聞いていたようだ。
「かぼ……」
「う、ううう、だってあたしには氏実っていう許嫁がいるし、だから……」
おい、少しずつ心が傾いてきているぞ。
「氏実、ティーカップ買ってもらったの! 見て見て!」
会計を終え、クレアが器を見せびらかしに来た。遅れて知頼さんもやってきた。
「って、何やってんの、あの二人は?」
クレアは器を持ったまま、目の前で繰り広げられている、見ていてこっちが恥ずかしくなるような光景について聞いてきた。
「夫婦漫談だな」
この場合、夫はなしで二人とも嫁になるが。
「うう、知頼、助けて。どうやったら三人で結婚できると思う?」
「え?」
政美に助けを請われ、知頼さんは珍しく素っ頓狂な声を上げた。
夫婦漫談は知頼さんが間に入り、何とか数分で落ちが付いた。結局は結婚だの何だのという話は有耶無耶なまま終わったようだ。まさか複婚が成立するなどという結論にはなっていないはずだ。
政美の会計を待ち、俺たちは店を出た。
「次はどうするんだ?」
商店街を当てもなくさまよいながら、俺は影勝に尋ねた。またもや女性陣は後ろで楽しげに話している。クレア、アリス、政美は紙の箱に入れた器を、白い紙袋に入れて手に提げている。会計の時は少し恥ずかしそうだった政美の表情も、笑顔に変わっている。
「そうだねえ。特に計画はないからなあ」
影勝は考えるように空を仰いだ。
「じゃあ、今度はあたしの好きなとこでどう?」
後ろの政美が提案してきた。こちらの会話はしっかり聞こえているらしい。
「好きな場所って何だ?」
「もう少し行った先にお気に入りのお店があるんだ!」
そう言うと政美は前に出て、俺たちを先導して歩き始めた。
一分ほど歩くと、政美が立ち止まった。
「ここがあたしのお気に入り、ペットショップのパピードッグだよ!」
政美は左手で、前面が硝子張りになっている建物を示した。硝子の扉には片仮名の店名と、犬のような形をした白い影が描かれていた。
「『ぺっとしょっぷ』?」
俺が問うと、影勝が代わりに説明してくれた。
「ペット、つまり犬や猫なんかを購入できるお店だね。他には世話に必要なものとかも販売してるんだ」
俺は政美に向き直り、尋ねる。
「政美、犬とか飼っていたか?」
「いや、猫も飼ってない」
「何でお気に入りなんだよ……」
何も飼っていないのに買うものなんかないだろ……。
「いいから、いいから」
政美は俺の質問に答えず、硝子戸を開けた。
「へい、らっしゃい」
店に入ると、がたいのいい中年男が柔和な表情で出迎えた。男は大きな白い前掛けを肩からかけている。何となく顔と服が合っていない印象がする。店の雰囲気と台詞もあっていない。
「おじさん、久しぶり!」
政美は親しげに挨拶を返した。
「おお、政美ちゃんか! 元気だったか!?」
男は豪快に笑った。うるさそうな人だ。
「おじさん、枝豆いる?」
「枝豆な! おーい、枝豆え!」
男が叫ぶと、店の奥から薄茶色の犬がとてとてと歩いてきた。精悍ながら愛嬌のある顔つきの柴である。
「おお、枝豆! 久しぶりだな!」
柴が立ち止まると、政美はしゃがみこんで頭をなで始めた。柴は気持ちよさそうに尻尾をゆっくりと振っている。
「ほら氏実、柴犬の枝豆! かわいいでしょ!」
「そうだな」
俺も立ったまま枝豆の頭に手を置いた。すると枝豆は目を閉じてその場で座った。やはり犬はいい。癒される。
「でも政美、まさか枝豆に会うためだけにここに来ているのか?」
俺は枝豆の頭に乗せた手を小刻みに動かしながら言った。艶々の短い毛が手の中で動いて気持ちいい。
「うん。そうだよ」
「それってかなり迷惑じゃないのか?」
何も買わないのに何度も通ってくる客とか迷惑すぎる。
「いやいや少年、おじさんは迷惑だなんてまったく思ってないよ」
しかし男は柔和な顔を崩さず言った。
「おじさんはね、政美ちゃんみたいな小さい女の子が大好きなんだよ。見てると元気がでるしね。それになんかこう、興奮する」
「はい?」
今この男、すごく危険なことを口走らなかったか。
「あ、いや、待て、誤解するな少年! 別におじさんは幼女に対して欲情するとか、そんなロリコン的な考えを持っているわけじゃないぞ! しかし今日は小さい女の子がもう一人いるんだね。お嬢ちゃんは何て名前なんだい?」
男は意味のない弁明をした後、枝豆の尻尾に触って遊んでいたアリスに向かって質問した。この男、かなり危険だ。そして馬鹿だ。
「おじさん……」
「待ってくれ政美ちゃん! 誤解だ! そんな蔑むような目でおじさんを見ないでくれ! いや、でも悪くない。むしろいい! 興奮する! ……はっ、思わず素に!?」
「おじさん……」
「ああ、もうこんな時間だ! 子犬たちのブラッシングをしてあげないと!」
居づらくなり、男は棒読みでそう言って店の奥に引っ込んだ。枝豆はそんな男を憐れむように無言で見送り、男が見えなくなると、犬なのに呆れたような表情をして、すぐに顔を正面に戻した。飼い主より政美の方が信頼されているらしい。
「政美、しばらくここには来ない方がいいと思うぞ……」
「うん。いや、悪い人ではないはずなんだけど……」
政美は枝豆に手を乗せたまま固まっていた。
「ま、まあおじさんのことは放っておいて、今は枝豆と遊ぼうよ!」
「わ、わあ! 枝豆かわいい!」
クレアと知頼さんは空気を変えようと、わざとらしく歓声を上げて枝豆に駆け寄った。あの男の危険な発言を記憶から消去しようと必死である。
うむ、しかし追い出されてしまったな。枝豆の周りは女性陣が固めてしまい、もう手を出す隙がない。うむむ、もう少し枝豆をなでたかった。
しかし美女たちに囲まれてかわいがられるとは、枝豆が少しうらやま……いや、まったくもってうらやましくなどない。むしろ複数の女性と戯れるなど男の風上にも置けない。枝豆が雄かは知らないが。日本男児、いや日本男犬ならば、一人の女性を一途に愛するべきである。
「僕たち、完全に蚊帳の外だね」
影勝が苦笑いしながら隣に立った。
「そうだな」
なぜだ。普段なら蚊帳の外にいることぐらい気にしないのに、今回はなぜか枝豆に負けた気がして悔しいぞ。
「ふと思ったんだけど、枝豆って氏実に似てない?」
と、俺が犬に対して大人げなく闘争心を燃やしていると、枝豆の左側で背中をなでていたクレアが、枝豆の横顔を見つめながら唐突に言った。
「あ、それわかる! 何かかわいくて弄りたくなる感じでしょ? あと見てると癒される」
言いながら、政美は枝豆の頬を軽く伸ばして笑った。
「いや、全然似てないだろ」
俺は蚊帳の外から反論した。俺は別にかわいくなどない。似ているなどと言ったら枝豆に失礼だろう。
「私も似てると思うけど。じゃあ、氏実くんは自分を何の動物に似てると思う?」
知頼さんは俺と枝豆を見比べながら言った。知頼さんにも言われてしまうとは、何だか複雑な気分である。
「そうですね。俺はむしろ」
俺は店内を見回した。店の一番目立つ場所にはいくらかの子犬や子猫が透明の箱の中でこちらの様子をうかがっている。わきの方には水槽に入った金魚や亀がおり、さらに奥には爬虫類と書かれた看板が見える。犬猫以外にも多くの動物がいるらしい。
俺はその中から一種類の動物を視界にとどめ、動きを止めた。頑丈そうな籠に入れられた九官鳥である。
「鳥?」
知頼さんが聞いてきた。
「もしかして籠の鳥ってことかな? あまり屋敷の外に出られないから」
影勝が気づき、解説した。
そう、籠の鳥だ。堅牢な籠に入れられ、出ることの叶わない鳥。自由に飛ぶことの叶わない鳥。
しかし影勝の解釈は少しだけ間違っている。俺を囲んでいるものは、今川の屋敷という目に見える籠ではない。もっと強固な籠。今川家という見えない籠である。
俺がこの世に生れ落ちたその日から、俺は籠の中に捕えられている。籠の外では弓の達人である親父が弦を引き絞って照準を合わせているのだから、無理にこじ開ければすぐに射抜かれてしまうだろう。
「氏実くん、どうしたの? ぼーっとして」
影勝の言葉で我に返った。九官鳥は呑気に居眠りをしていた。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
俺はクレアたちの方に顔を戻した。知頼さん、政美、アリスの三人が枝豆を囲んで、誰が何の動物に似ているかといった雑談をしている。その中でクレアだけが俺を見つめていた。
クレアは俺が鳥に似ていると思った真意に気づいているのだろうか。いや、いくら鋭いクレアでもさすがにそれはないか。
しかしクレアの透き通るようなすみれ色の目は、俺に何かを訴えかけているようにも感じる。
そう言えばクレアは昨日、俺に前向きに考えろと言った。俺は心配しすぎなのだと。
これは今日の外出が親父にばれないかと心配していたときにかけられた言葉だが、それを俺が何年も悩み続けていたことに当てはめてみればどうだろう。
俺は今まで、親父に意見したことがなかった。心に不満を抱えながら、親父の言ったことに従ってきた。当然、会社を継ぎたくないなどとは口が裂けても言えなかった。言ったところで、親父に見捨てられるだけだと思っていたからだ。
しかしもしかすれば、それは杞憂なのかもしれない。籠を破ったところで、親父は弓など携えていないのではないか。説得すれば、親父はわかってくれるのではないか。
そう考えると、自然と体が軽くなった気がした。
「氏実、何かうれしそうな顔してるけど、どうしたの?」
クレアが俺を見ながら聞いてきた。するとさっきまで雑談していた三人も俺に注目した。
「どうもしてない」
「えー、絶対何かあったでしょ! いつもより清々しい顔つきだもん」
「いつもよりって、俺は普段どんな顔をしているんだ?」
清々しいの反対といえば湿っぽいということになるのか?
「何ていうか、いつもはちょっと怖い感じだね。むすっとしてる。でも今は枝豆みたい」
俺は枝豆の姿を見た。複数の美女に囲まれ、弄られながらも、その堂々とした居住まいには潔さを感じる。何かを悟った、という感じだろうか。
「つまり氏実がさらに枝豆に似てきたってことだな!」
政美が頓珍漢な横やりを入れてきた。なぜそうなるんだ。
「だからそもそも似てないと言っただろ」
「いや、似てるよ、ほら!」
言いながら、政美が枝豆の両頬を持って俺に向けてきた。やはり枝豆はかわいい。が、やはり似ているとは思えない。
「犬耳氏実」
アリスが突然つぶやいた。
「おお、それいいな! 氏実、付けてみてよ! ちょうどおあつらえ向きに犬耳売ってるし!」
政美はそう言って、犬用の餌が置かれた商品棚の横にある金網にかかっていた、犬の耳のような形をした何かを手に持った。なぜあの男はそんな犬や猫の世話に確実に必要のないものを置いているんだ。
「あたしとしてはこの柴犬のやつが似合うと思うんだけど、どう?」
おお、俺を差し置いて話が進み始めたぞ……。
「いやいや、そこはやっぱコリーでしょ。ラッシー。超美人さん」
クレアよ。誰だそれは……。
「私は、レトリーバーとかいいかなって……」
ち、知頼さんまで加わるんですか……。
「猫耳」
アリス、犬の話じゃなかったのか……。
「ま、全部付けてみればわかるよね!」
政美が柴の耳を持って、開戦のほら貝を吹いた。それに呼応して他の三人もにじり寄ってくる。どうやら冗談ではないらしい。目が本気だ。
「か、影勝……」
俺は影勝に助けを求めた。すると影勝は俺に爽やかな笑顔を向けて。
「氏実くん、ご愁傷様」
見捨てられた。
「ま、待ちましょう、みなさん! 落ち着いて話しを……!」
その日、俺は何か大事なものを失った気がした。
「あー、楽しかった!」
夕焼けの朱に顔を染めながら、俺の隣を歩くクレアは言った。
「俺は男としての威厳を失うことになってしまったがな……」
俺はくぐもった声で言った。
現在、俺とクレアとアリスの三人は帰路についている。時刻は午後の四時を少しすぎた辺りで、白く輝かしい日輪は燃え盛る赤に変わっていた。
「いいじゃん。かわいかったよ、氏実ちゃん!」
「う、うるさい! 何度も同じ話をするな!」
駅に向かう道のりでも途中で寄った茶屋でも、よくもまあ同じ話題でここまで盛り上がれるものだ。おかげで忘れたいのに記憶から一向に離れないじゃないか。
「ま、もともと氏実には男の威厳なんてないから安心しなよ」
「馬鹿にしているのか、お前……」
誰がどう見ても男の中の男だろ。むしろ俺が男でないなら誰が本物の男になれるというのだ。
しばらく歩いて、屋敷の前に到着した。正面の巨大な門を潜り抜け、広大な庭に入った。
「ああ、氏実様! ここにおられましたか!」
庭園の石畳を屋敷に向かって歩いていると、警備員が一人、俺の下に走ってきた。クレアたちが後ろにいるので何か言われないか心配だったが、警備員は特に気にしていないようだ。アリスの催眠術が効いているらしい。
「どうしたんですか? 何だか慌てているようですが」
警備員は寒空の下だというのに体中汗まみれだった。
「ええ、その、義本様が氏実様を呼んで来いと……」
「……お父様が、ですか?」
身の引き締まる思いがした。
「はい。特に血が上っておられるような感じはしなかったのですが、とにかく威圧感がすごくて……。氏実様のお部屋にも何度か声をおかけしたのですが、返事がなかったもので、もうこのままでは首になるどころか殺されてしまうかと……」
警備員は安心したのか泣きかけの声で言った。親父の威圧感に当てられれば、怖くなるのも仕方がない。
「わかりました。すぐに向かいます」
俺は早歩きで屋敷に戻った。
一度部屋に戻り、クレアとアリスを置いて親父の部屋に向かった。
しかしなぜ呼ばれたのだろう。考えられる理由はクレアとアリスが見つかったか、今日の外出がばれたか、といったところか。たしかにもう少し慎重に行動すべきだったとは思う。ではどう弁明しようか。
考えているうちに、親父の部屋の前についた。ふすまには大文字山の水墨山水画が描かれている。先代の趣味らしい。
俺は小さく深呼吸をして、正座した。
「お父様、氏実です」
数秒待っても返事はない。
「失礼します」
俺は意を決してふすまを開いた。
親父は無言で座卓に向かっていた。四角い顔には多くのしわが刻まれていて、とても五十代前半とは思えない威厳と貫録を持っている。座卓の端には最近導入したという白い電話機が置かれていた。
「お呼びでしょうか」
親父の正面に正座し、恐る恐る聞いた。親父の背後にかかった時計は午後四時三十五分を示している。
親父は硬筆を持った手を止めず、しわだらけの口を重く開いた。そして鉛よりも重い声で告げる。
「お前、家を継ぎたくないらしいな」
青天の霹靂だった。
静かな部屋の中で、秒針の刻む音だけが、耳に響いた。