四話
瞼の裏に光を感じた。朝である。
俺の一日は毎朝五時に目覚め、布団をたたみ、着替えを済ませてから始まる。誰よりも早く起き、食卓で親父を正座で待っているように教えられてきた。子供のころからしつけられているので、今では嫌でもこの時間に目が覚める。
普通の学生は前日に夜更かしをして翌日に少し寝坊する、というようなことがままあると聞くが、俺にそんなことは許されていないのだ。
平日でも休日でもそれは変わらない。だから土曜日で学校がない今日も、この時間に起きなくてはならないのだ。
俺は何時間も目を覆っていた瞼をゆっくりと開いた。
「なぜだ」
目を開いた直後、俺はかすれた寝起きの声でつぶやいた。目覚めたばかりだというのに血圧がどんどんと上がっていくのがわかる。
それもそのはずだ。昨夜寝る前には、それどころか今までに一度だって見たことのなかったものが目の前にあったのだ。
透き通るような白い布地と一筋の淡い桜色。そしてかすかに聞こえる吐息の音。
それはまさしく女の子、クレアの寝顔であった。
おおお、なぜだ。なぜここにクレアの顔がある。そして俺の布団に入っている。俺は昨日もクレアが押入れに入ったところを見ているはずだ。それならなぜここに移動しているのだ。
いや待て。落ち着くのだ、氏実。これはもしかしたら夢ではないのか?
そうだ。そうとしか考えられない。なるほど、そういうことか。これは夢か。俺としたことが、こんなことで取り乱してしまうとは。
しかし夢の中であれこの状況はまずい。無防備に眠っている異性が目の前にいるというのは非常によろしくない。何だか悪いことをしているような気がしてならないぞ。でも何だかずっと見ていたいような気も……。
いや、駄目だ。何だこの変態的な思考は。駄目だぞ、俺。日本男児として清く正しくならなくてはならない。よし、なぜかもったいない気もするが、後ろを向いておこう。
俺は意を決して寝返りを打った。アリスの顔が目の前にあった。
「いやしかし、朝は傑作だったねえ」
正座して蓮華で味噌汁を飲むクレアはご機嫌に言った。
「うるさい、食事中にしゃべるな」
俺は座卓を挟んだクレアたちの向かい側でお茶を点てながら言った。怒りと恥ずかしさで茶筅を動かす手にも力が入る。
現在時刻は午前七時を少しすぎた辺り。俺の部屋でクレアとアリスの朝食を出したところである。
親父や美雪さんとの朝食を終わらせた後、台所に料理人がいなくなったのを見計らい、俺が彼女たちの食事を作る日々がここ二、三日続いている。最初はぎこちなかったクレアの正座も少しずつ板についてきている。二人とも箸はまだ使えないらしいが。
「あんな悲鳴を男が上げるかね、普通。それに『穢された』って、それ女の子のセリフ」
「だからうるさい。それにお前だって最初は悲鳴をあげていただろ」
「そ、それは、だって朝起きたら氏実がすごい近くにいるし、しかも知らないうちに氏実の布団に入ってるし……」
「だいたい何でいつの間にか俺の布団に潜り込んでいるんだよ! 昨日、しっかり押入れに入っただろ!?」
「だからわかんないんだって!」
クレアは顔を紅潮させたまま言った。
「トイレの帰りに寝ぼけて入った」
クレアの隣で黙々と食事していたアリスが小さく口を開いた。『といれ』とは便所のことだとクレアに聞いた覚えがある。
「寝ぼけてって、お前は子供かよ……」
「う、うるさい! そこにふかふかの布団があったんだもん! たぶん!」
クレアは蓮華を上下に振り回した。やめろ、水滴が飛ぶ。行儀が悪いぞ。
「じゃあアリスは何で入っていたんだよ」
「クレアだけずるい」
「つい最近、似たような答えを聞いた気がするぞ……」
昨日聞いた。というか何がずるいんだよ。羽毛布団か? 知らないかもしれないが、実はお前らの方がいい布団を使っているんだぞ。
「ところで氏実、私たちが寝てる間に何かしなかったでしょうね」
「するか! そんなこと!」
「本当に? 私たちの寝顔をまじまじと観察したりもしてない?」
「そんなことするわけないじゃないですか」
まじまじとは見ていない。まじまじとは。
「……氏実、見た?」
俺は肯定も否定もせず、横を向いた。
「見たな! 女の子の無防備な寝顔を観察するなんて最低だよ、氏実!」
クレアはさらに顔を赤くして叫んだ。
「ほ、ほんの少しだ! ほんの少し視界に入っただけだ!」
「ち、ちなみによだれとか出てなかったよね……?」
「ああ、まあそれは平気だ」
クレアはそれを聞くと少し安心したように息を吐いた。むしろクレアの寝顔は大人しいし上品そうだったので、かわいいと思わないわけでもなかったくらいである。普段からああしていればいいのに。
て、そんなことを考えていたら、クレアの寝顔が頭に浮かんできてしまった。うう、思い出すたびに恥ずかしい。何か顔が熱くなってきたぞ。
「氏実くん、遊びに来ましたよ!」
「は、はい!」
突然、ふすまの先から声が聞こえ、反射で背筋が伸びた。
「美雪さん、どうぞ」
俺は声を裏返らせて言った。クレアの寝顔はまだ頭から離れない。
「失礼します」
美雪さんはいつもの所作で入室し、ふすまを閉めた。いつもと変わらぬ背広姿だ。
「あら、まだクレアさんたちの食事中でしたか」
美雪さんはその場で正座したまま言った。
「そうですね。もうすぐ終わると思いますが」
また正面を見ると、クレアは急いで蓮華と口を動かしていた。アリスには急ぐつもりはないらしい。
「ああ、ゆっくり食べていていいですよ」
美雪さんがそう言うと、クレアはまたゆっくりと食べ始めた。
「あれ、クレアさん、何だか顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」
言いながら、美雪さんは座卓の横に正座した。
「え、あ、赤くないよ! 大丈夫、大丈夫! 氏実の枕が意外といい匂いしたなあ、なんて全然思い出してないよ!」
「氏実くんの、枕の匂い?」
「み、美雪さん、今日はどうしたんですか!?」
俺は強引に話題を変えた。クレア、混乱しながら適当なことを口走るな。
「私は久しぶりに氏実くんとお話がしたくて……」
「そう言えば最近、食卓以外で会っていませんね。どうしていたんですか?」
三日前までは毎日のように俺の部屋に顔を出していたのだが。
「いえ、クレアさんたちが来た日なのですが、氏実くんの手料理を食べていて仕事に遅れたら、会長にすごく怒られまして。それでしばらく氏実くんの部屋に行くなって……」
「ああ、やっぱり」
たぶん怒られたんだろうなあ、とは思っていた。
「でも今朝やっと会長からのお許しが出たので真っ先に飛んできました!」
「わざわざありがとうございます。でも次から気を付けてください。首になりますよ?」
美雪さん程の素晴らしい人材でも遅刻が続けばさすがに首を切られてしまうだろう。
「はい、気を付けます。氏実くんとお話しできないなんて悲しい思いは、もう一日だってしたくありませんからね。氏実くんの料理がまた食べられるとなったら、誘惑に負けてしまうかもしれませんが」
「いや、反省していますか?」
俺の料理なんぞに仕事を賭けないでください。
「あ、そうそう。これも言おうと思っていたのですが」
美雪さんはまっすぐ俺を見つめていた視線をクレアに移動させた。クレアの朝食はほぼ終わっていて、後は米が一口くらいと味噌汁を残すのみである。アリスはまだ半分程度しか終わっていない。アリスは小食で食べる速度もかなり遅い。
「クレアさん、テレビを探していましたよね?」
「うん、ずっと部屋にいても暇だからね。和歌とかわかんないし。でも氏実の家にはないんでしょ?」
そう、我が家にそんな機械は存在しない。どんなものかは聞いたことがあるが、情報は新聞か人を通じて、あるいは手紙でやり取りするのが親父の信念である。最近やっと電話を使い始めたらしい。
「普通に私の部屋にありますよ?」
「え、そうなんですか?」
クレアより先に俺が食いついた。親父の部屋にもないのでうちにはないとばかり思っていた。
「はい、住み込みで働くことになったとき、テレビがあるかを確認したら買ってくれました。しかも毎年新調してくれます」
「至れり尽くせりですね」
「給料も待遇も最高の超ホワイト企業ですから、福利厚生の一環なのかもしれません」
「じゃあさっそくテレビを見に行こう!」
クレアは茶碗に蓮華を静かに置いて言った。今日も綺麗に食べ終わっている。
「そうだな。美雪さん、お邪魔してもいいですか?」
俺も『てれび』というものには興味がある。そうでなくてもここ最近で自分がものを知らないということをことごとく実感させられたので、そういった一般常識は知っておきたい。
「え、氏実くんも来るのですか!?」
「駄目ですか?」
「ちょ、ちょっと待っていてください。少しだけ作業してきます」
「どうぞ、まだアリスが食事中ですし。でも何をするんですか?」
「聞かないでください!」
そう言い放ち、美雪さんは礼もせずに慌てて部屋を飛び出した。美雪さんが欠礼するとは珍しい。
しかし困ったな。これでまた三人になってしまった。美雪さんがいた間は別の話題があったので気が紛れたが、今また沈黙が訪れ、否が応でも今朝の出来事を思い出してしまう。
いつもならこの三人が同じ部屋にいてもクレアが適当な話題を出してくれるが、今回はそのクレアも極めて静かだ。アリスが静かなのはいつものことだが。
何度かクレアと目が合ってもすぐにそらされてしまう。もちろん俺も反射的にそらしてしまう。そのたびに雰囲気はどんどん気まずくなってくる。
うう、まずいぞ。クレアの寝顔がまったく頭から離れない。
そういえばクレアは、俺の枕がいい匂いとか言っていたな。クレアも今朝の俺のことを思い出していたのか。
たしかクレアからも甘くてよい香りがしていた。クレアたちは親父に怪しまれないように美雪さんと一緒に風呂に入っている。とすると美雪さんと同じ石鹸の香りだろうか。美雪さんの匂いを詳しく嗅いだことはないのでわからないが、何だか美雪さんよりもよい香りがした気もする。
ああ、駄目だ。目が合ってそらすたびに今朝の記憶が鮮明になってくるぞ。俺は清く正しい日本男子なのだ。雅な心を保たねば。
「ごちそうさま」
「ああ、お粗末さま」
頭の中をごちゃごちゃさせていると、アリスが食べ終わっていた。時間はかかったが綺麗に完食している。
俺は二人の食器を手早く洗い、片づけた。
「それじゃあ、美雪さんの部屋に行くか」
「う、うん」
「かぼ」
俺はクレアとアリスを連れて、美雪さんの部屋に向かった。
美雪さんの部屋は俺の部屋から南側にある。最短距離で歩くと途中に親父の部屋があるので、特に理由はないが遠回りをした。
「美雪さん、氏実です」
美雪さんの部屋の前で名乗った。美雪さんの部屋のふすまは少しだけ開いていることがよくあるのだが、今回はしっかりと閉まっている。
「はい、ただいま」
奥からそう聞こえると、ゆっくりとふすまが開いた。正座でふすまを引いている美雪さんが少しずつ見えて来る。
「お邪魔します」
俺は美雪さんに一礼して入室した。後ろで立っていたクレアとアリスも俺に続いて入室した。
「あれ、意外に片付いている」
辺りを見渡すと、部屋内は予想外に片付いていた。というより驚く程に物がないといった方が正しい。この前まで部屋内を制圧していた衣類も雑然と敷かれていた布団も見当たらない。もちろん酒瓶などはどこにも転がっていない。
「当然です! 私は片付けのできる女なのです!」
美雪さんは胸を張って言った。
「そうだったんですね。この前は失礼なことを言ってすみませんでした」
俺は部屋の中を徘徊しながら、三日前の無礼をわびた。
「あ、でも押入れは開けないでくださいね」
うろうろしながら俺が押入れに近寄ると、美雪さんが注意してきた。
「……開けてもいいですか?」
中に入っているものはだいたい予想がつく。たぶん酒瓶。
「駄目です」
「なぜですか?」
「何ででもです」
「開けます」
俺は押入れの引手に手をかけた。同時に美雪さんが叫ぶ。
「呪われますよ!?」
「……何にですか」
「こ、この押入れに住み着いた悪しき妖怪どもです」
「人の家に変なものを住み着かせないで下さいよ……」
まあ俺の部屋にも変な者が二人も住み着いているから人のことは言えないが。
「ねえ、そんなことより早くテレビ見ようよ!」
俺と美雪さんの漫才を無視して、クレアとアリスは正座で待機していた。二人の前方には黒光りした長方形の板が置いてある。
「これですか?」
「はい。8Kってやつです」
「何ですか、それ?」
「従来のより画質が良くなっています」
「そうなんですか?」
従来のものがどれ程の画質なのかまったく見当がつかないので、どう驚いていいのかわからない。
「つけてみます?」
美雪さんは黒く細長い物体を差し出してきた。物体の表面にはいくつかの黒い突起とひとつの赤い突起が見える。
「いいんですか!?」
俺は美雪さんからその物体を受け取った。物体は冷たく固い。
「これ知っています。遠隔操作器ですね」
「リモコンをそんな堅苦しい呼び方する人初めて見ました。この『電源』と書いてある部分を押してください」
美雪さんは左上に書かれている赤い突起を指し示した。その上には『電源』と書かれている。
「ここですね。それ」
掛け声とともに右手の人差し指で押した。すると前方の板が一瞬光り、雄大な富士山が現れた。『富士の水』という無骨な白い文字も浮かび上がっている。
「おお、富士山がありますよ! あんなに薄い板の中にあの一番高い山が!」
「氏実くん、過去から来た人みたいです」
美雪さんは笑って言った。画面の中のものが本物ではなく、遠くから取ってきた絵だということはうわさで聞いてわかっているのだが、それでも本物と見紛う程に美しい絵だったのである。
「これは水のCMですね。つまり広告映像です」
「なるほど、こうやって消費者は商品の情報を得るわけですね」
富士山の映像が終わり、今度は細長い棒のような菓子を何人もの人々が分け合う映像が流れた。これはたしか武田組の商品である。
武田組の広告が終わると、いきなり男の顔が画面いっぱいに映し出された。
「日本のお坊ちゃま、お嬢様大集合! あなたも夢の玉の輿スペシャルう!」
男がそういうと画面が切り替わり、椅子に座った大勢の人間が騒ぎ出した。
「な、何か始まりましたよ、美雪さん!?」
あの美しい富士や人々のほほえましい光景はどうしたというのだ。
「バラエティー番組、もとい娯楽番組ですね。何で土曜の朝っぱらからこんな番組を放送しようと思ったのかはわかりませんが。しかもこれ再放送とかでもなさそうです」
「何だか頭の悪そうな番組ですね」
こんなものよりも美しい自然や人々の温かさを放送すべきではないか。
しかしそんな俺の考えとは違い、クレアは楽しそうに見ている。アリスも楽しそうかはわからないが、画面に釘付けになっている。クレアの正座はすでに崩れていた。
「この番組は日本全国のお金持ちのお坊ちゃま、お嬢様をスタジオにお呼びして、皆さんが普段どんな生活をしているのか、またどんな場所に行けば知り合えるのかを教えてもらおうというものです」
画面の中の男、おそらく司会者は大阪弁交じりの標準語で番組の説明をした。画面を見ながら美雪さんが正座したので、俺も畳に座りこんだ。
「スタジオにはこの通りずらあっと、たくさんのお金持ちに来ていただきました! 総勢五十名!」
司会者が右腕を大きく広げると、画面は悪趣味な椅子に座る多勢の男女を映した。金持ちというだけあって格好はまともだ。背広や着物、あとあれはたしか西洋で女性が着る正装だったか。しかし育ちの悪そうな肥え方をした男女が数人散見される。
「見てくださいこいつの指輪、きらっきらしてますよ!」
司会者は金持ちたちの先頭に陣取った小太りの男を示した。男の右手薬指には巨大な硝子のような宝石の入った指輪が輝いている。
「いきなり喧嘩売られてる気がしますねえ」
金持ちたちとは別の椅子に座ったひげ面の男が、大阪弁交じりの標準語で言った。するとすかさず複数の笑い声がした。何が面白いのかは知らないが、なぜかクレアも笑っている。
「クレア、お前はなぜこれで笑えるんだ?」
「え、だって面白いじゃん!」
クレアは笑いながら答えた。残念ながら俺にはその面白さはわからない。
しかし朝食中はあんなに気まずい雰囲気だったのに、今の受け答えはすっかり元通りのクレアになっていたな。これはこの頭の悪そうな番組の効果なのだろうか。侮れないな、娯楽番組。ただクレアが馬鹿なだけかもしれないが。
まあクレアが元に戻ったのはよかった。なぜだか寂しいような気もするが。
「あ、そういえば氏実くんにもこの番組への出演依頼が来ていましたよ」
俺がぼーっとクレアの後ろ姿を見ていると、美雪さんが唐突に言った。
「そうなんですか? 聞いた覚えがないんですが」
俺の記憶では一度だってそんな依頼が来ていると耳にしたことはない。
「はい。でも会長が、『こんな頭の悪そうな番組に出演したら今川家の恥だ』と一方的に断られまして」
「ああ、そうですか」
初めて親父と意見があった気がする。
「でもたしかにスタジオを見ても、会長のような本当のお金持ちは、あまりいない感じですね」
「そうですね。何というか、二流といいますか」
むしろ悪趣味な成金という印象がする。知頼さんや影勝がいないのも、もしかしたら俺と似た理由で断ったのかもしれない。しかし佐竹産業のあいつが後方上段にいるのは気のせいだろうか?
「この人たちもかなりお金持ちそうだけど、氏実の家はこれよりもすごいの?」
クレアが振り向いて質問してきた。画面の中では昼食を毎週、銀座の高級寿司店でとるという女の話題で盛り上がっている。
「それはもちろん。はっきり言ってここの人たちとは格が違いますよ。それだけ日本一の名は伊達じゃありません」
俺の代わりに美雪さんが答えた。
「でも氏実って高級店で外食とかしないよね? 何で?」
「お金の使い方も格が違うからですよ。まあ家にお抱えの料理人がいるというのもあるのですが。
会長は日本一稼ぎますが、その個人資産の半分近くは慈善事業への寄付や優秀な技術を持った国内企業への投資に回されています。ここの人たちとは違ってお金儲けだけじゃなく、お金の使い方もよく考えているのです。もし仮に私が会長程の富を得ても、そんな風に使うことはできませんね」
「ほええ、そりゃすごい。で、そんなすごい人が経営してる会社を氏実が継ぐことになるんだっけ? 前に言ってたような覚えがある」
クレアはまた俺に視線を向けた。何でそんなしょうもないことばかり覚えているんだ。馬鹿なのに。
「……そうだな」
俺は右側にある押入れを眺めながら言った。妖怪に憑りつかれたように肩が重くなった気がする。
「何か氏実、不満そうな顔だね」
クレアは体ごと振り返り、俺に正対した。
「不満なんかないよ」
一瞬取り乱しかけたが、何とか平静を保った。
「そう? ちょっと怖い顔してるけど」
何でお前はそんな余計な部分で鋭いんだ。
「そうですかね? いつものかわいらしい氏実くんだと思いますけど……」
美雪さんは俺の顔をまじまじと見ながら言った。何年も一緒に暮らしている美雪さんでも気づかないのに、なぜお前は気づく。
「そういえば昨日もお父さんの話になったら同じ顔してたよね。お父さんが原因?」
「違うよ」
「じゃあ、もしかして会社を継ぎたくないとか?」
「そんなわけないだろ」
俺は動揺を悟られないように、顔を動かさずにクレアをまっすぐ見つめた。今回は笑顔を作れそうにない。
「氏実、嘘ついたり話を誤魔化したりするとすぐ目が泳ぐよね。それに右手を左手で隠す」
その言葉で、俺の心臓は大きく鼓動した。俺の癖まで見破っているのか、こいつは。自分でもそんな癖は知らないのに。
「ちょ、ちょっと待ってください。それじゃあ、氏実くんは会社を継ぎたくないのに、それを隠していたってことですか? でも日本一の会社ですよ? 本当ですか?」
美雪さんは狼狽しながら言った。たしかに条件を見れば断る理由などどこにもない。稼ぎは日本一で、それでいて万人に愛され、悪いことだって一切していない素晴らしい企業だ。しかし、俺はそれでも、会社を継ぎたくないとずっと思っていた。
「……すみません、美雪さん。本当なんです」
俺はうつむいて答えた。ここまで心の内を覗かれてしまった。もうひた隠しにし続けるのは難しいだろう。
「そ、そうでしたか。申し訳ありません。そうとは知らず、今まで重圧をかけていました」
「いや、いいんですよ、そんなことは。気にしていません」
本当はかなり堪えていた。会社を、あるいは家を継ぐという話になるたびに無理に笑顔を作っていた。
「ですが、いったいなぜ継ぎたくないのですか? たしかに会長のあとを任されるというのは、越えなくてはならない壁が高いとは思いますが」
「そんなたいした理由ではないんです。お父様の後がやりづらいからとか、そんな理由でもなく、本当に非合理的で幼稚な理由なんですけど」
俺はゆっくりと言った。てれびからは場違いな音楽と笑い声が流れている。
「自分の将来が決められているというのが嫌なんです。何だか自分の存在意義が家のためにしかないような気がして。すみません、本当にしょうもない理由で」
「いえ、そんな。まっとうな理由だと思いますよ。まだまだいろいろなことができる可能性があるのに、生まれた時点から未来が定められているというのは、つらいと思います」
美雪さんは同情するように言った。同情される程につらくなるのは人間の性だろう。
「もしよろしければ、私から会長にお話ししましょうか? 会長もちゃんと話せばわかってくれるかと」
「いいですよ。きっと聞き入れてくれません」
長子相続は今川家の伝統であり、掟である。頑固な親父が家の伝統を破るようなことを、簡単に許すはずがない。
「何で? 言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいんじゃないの?」
クレアが真顔で首を傾げた。
「そんなに簡単な問題じゃないんだ、うちは」
単純な話なら、こんなに長く隠していない。問題の根は深く、複雑だ。
「もっと単純に考えていいと思うんだけどなあ」
クレアはため息交じりにつぶやいた。
親父のことを何も知らないのだから、クレアにわかるわけがない。親父がどんなに恐ろしい人間で、今川家の伝統の拘束力がどんなに強いのかを。
「まあ、そんな話はもう忘れよう。ここで議論しても意味はない。それより美雪さん、仕事はいいんですか?」
何となくばつが悪い気がして、別の話題を振った。
「ああ、ちょっと遅刻です!」
美雪さんは手首に巻いた腕時計を確認して、正座のまま飛び上がった。
「すでに遅れているんですか……。早く行った方がいいのでは?」
「しかし氏実くんの問題がまだ片付いていません」
「今度こそ本当に首になりますよ?」
それとできれば俺の問題は放っておいてもらいたい。
「首!? 氏実くんと会えなくなるのは絶対駄目です!」
「いや、それより自分が無職になることを心配してください」
「仕事なんて探せばいくらでもあるのです。しかし氏実くんと会える仕事はこれしかありません!」
「美雪さん、とりあえず落ち着いてください」
「はっ、また取り乱してしまいました。とにかく私は今から仕事に戻って会長に全力で謝罪してきます。テレビは自由に見て構いませんので。でも押入れは開けないでください」
最後に念を押して、美雪さんはまた礼もせずに部屋を出た。
うむ、また図らずも三人になってしまったぞ。まあクレアはいつも通りに戻ったので今朝のような気まずさはないが、自分の心中を語った後なので何となく居づらい。とりあえずその内容でまた議論になるのは避けたいので何か別の話題でも切り出さねば。
俺がどんな話を切り出そうか思案していると、突然後方から軽快な音楽が流れた。振り返って画面を見ると、さっきと同じ水の宣伝が放送されている。てれびから出た音ではないらしい。
視線を少し横にずらすと、クレアが下を向いて小さな白い板を凝視していた。そしてすぐに顔を上げ、俺に話しかけてきた。
「氏実、明日空いてる?」
「予定のことか? 明日はまた徒然草を読み返す予定だが」
吉田兼好が徒然なるままに書いたのだから、徒然なるままに読むのには最適である。
「つまり暇ってことだね?」
「徒然草を読み返すと言っただろ」
「要するに暇なんでしょ?」
「はい」
まあ徒然なるままに、だからな。
「じゃ、明日はみんなで、お買い物に行こう!」
クレアは右手に持った板を天井に掲げた。
「何だよ、突然」
「さっき知頼からメールが来て、政美とか影勝とかも呼んで、ここら辺の案内がてらショッピングしようってなったの!」
「『めーる』……?」
「えっと、手紙?」
「いつの間に手紙のやり取りをしていたんだ!?」
こんな短時間でやり取りできるのか。それどころか外にすら出ていないではないか。日本の郵便技術もずいぶんと進化したのだな。
「いや、スマフォだから一瞬なんだけど」
「何だそれは。まさかその板か?」
俺はクレアが握りしめている板を丸い目で見つめた。
「ああ、説明するのがすごくめんどくさい」
クレアは呆れたように言った。
「何というか、手紙というか、文字を電波で送ることができる機械」
「つまり電報か」
「いや何というか。いや、もうそれでいいや」
なるほど、電報か。しかし電報でそんな複雑な内容のやり取りができるのか?
「で、話を戻すけど、氏実も明日行くでしょ?」
「ああ、それに関してだが、悪いが俺は遠慮しておく」
俺はクレアの目を見ずに言った。
「何で?」
「親父から学校以外の外出は規制されているんだ」
今までも知頼さんや政美に誘われることはあったが、学校以外で接触したことはほとんどない。学校以外の外出といえば、毎年春に北条の人たちと合同で開く花見と、正月に挨拶回りのために京都まで連れて行かされた以外に、なかったのではないだろうか。
そう考えると、俺がよく世間知らずなどと呼ばれる理由も、わからなくはない。
「うわ、軟禁じゃん」
「そうだな。外に出れば警備員に見つかって連れ戻される。親父には逆らえない」
「じゃああれは? アリスが氏実のお父さんに催眠術をかけるの。アリス、できるよね?」
クレアは未だてれびを一心に見つめているアリスに話しかけた。アリスは画面を見たまま小さく首を振った。
「え、駄目なの?」
「オーラが強すぎて無理」
「オーラって、氏実のお父さんはサイヤ人か何かなの……? というかアリスはお父さんを見たことがあるの?」
アリスはまた小さく首を振って否定する。
「氏実の部屋にいてもわかるぐらいに強い」
「もはや人間を超越した存在の気がする」
人の親を勝手に人外の存在にしないでくれ。いや、そう思う気持ちはわかるが。
「それじゃ、警備員に催眠術をかけるのは?」
アリスはこくこくとうなずいた。
「余裕」
警備員よりも親父の方がすごいのかよ。
「オッケー! じゃあ決まりだね。氏実、明日は出かけるよ!」
「本当に親父にばれないのか?」
正直言ってかなり不安だ。
「余裕」
アリスはさっきと変わらない声で言った。
「氏実は心配しすぎだよ。前向きに考えよ!」
前向きか。確かにそうだな。俺は消極的に考えすぎているのかもしれない。とにかく何でも後ろ向きに捉えてしまうのは俺の悪い癖だ。
「まあ、そうだな。わかった。明日は俺も付いていこう」
俺はクレアの言葉に同意した。
「やった! じゃあ、明日の詳しい計画を今から知頼と立てるね!」
クレアは笑顔で板を操作しだした。クレアの嬉しそうな表情を見ながら、俺も自然と笑顔になっていた。