二話
私立 大名学園。
幼稚園から小中高大と一貫教育のこの学校には、首都圏各地から多くの資産家の子女が通っている。俗に言うお嬢様お坊ちゃま学校である。当然、途中からの入学者もいるが、高等科までの生徒の内訳は幼稚園から入園して学内で進学する者がほとんどだ。
無論、俺も大名学園には幼稚園から入園している。そして御多分に漏れず学内進学をし、現在は大名学園高等科に通っているのだ。
「氏実くん、どうしたの? 何だかすごく難しい顔してるけど」
昼食もひと段落した昼下がり。高等科二年壱組の教室内。その清潔感があり美しい広々とした部屋に、俺の名を呼ぶ女性の声がした。
俺は紅を染めた木々の見える窓に向けていた顔を、声のした方に向ける。そこには和服を基として設計された大名学園の制服を着た、大人しそうな長髪の少女が立っていた。
「え? あ、知頼さん!?」
俺は慌てながら言った。
彼女の名前は武田知頼。製菓を中心として色々な事業を展開する企業、武田組会長の一人娘で、生粋のお嬢様である。その容姿は端麗で、かつ頭もよく機転が利き武術も得意。それでいておごることなく謙虚で礼儀正しい。まさに大和撫子の鑑である。
「こんにちは、氏実くん。それで、何かあったの?」
知頼さんは心配そうな声で聞いた。
「い、いや、たいしたことではないですよ。堅い椅子に慣れないだけで」
俺は木製の椅子を右こぶしで軽く叩きながら言った。高く小気味よい音が骨を伝った。まったく、なぜ学校ではこんな堅い椅子に座らなければいけないのだろうか。畳の上に正座するのが一番楽だというのに。
「あはは、もう高校二年生だよ。幼稚園でも初等科でも中等科でも座ってきたのに。氏実くんらしいけどね」
知頼さんは小さく笑った。俺もそれに合わせて笑う。椅子に座るとすぐに尻が痛くなるのだから仕方ない。俺の体は堅いものの上に座れるようにできていないのだ。
「でも、別の理由もあるんじゃないかな? たしかに氏実くんは難しそうな顔をしてることが多いけど、今日はいつもより難しそうだったよ?」
知頼さんはまた心配そうな表情で聞いてきた。うむむ、見透かされている。
俺が難しい顔をしている理由は、まあ色々あるが、今回特に大きいのは俺の部屋にある。部屋に置いてきたクレアとアリスが気がかりなのだ。
昨日、突然現れた彼女らを、紆余曲折の後に俺の部屋に泊めることになった。その後はクレアと口げんかをしたり晩ご飯を出したりと大変だったのだが、就寝時はもっと大変だった。
俺の部屋に泊めるということは、同じ部屋で眠るということである。それも夫婦でもない男女が、である。
クレアとアリスは「そんなこと別に気にしない」と言っていたが、気にするべきだ。むしろ気にならない方がおかしい。なので何とか説得し、彼女らには押入れで寝てもらうことになった。クレアは「ドラえもんみたいで悪くない」と意外と受け入れてくれた。ところで銅鑼衛門って誰だ。
そして今朝、なぜだか動悸がおさまらなくて寝不足だったが、眠り目をこすりながら制服に着替え、車で登校してきたのだ。
その際彼女ら、特にクレアには念を押して大人しくしているよう言っておいたが、やはり親父に見つかってしまわないか不安なのである。
いや、それ以上に暇を持て余した彼女らが何か大変なことを巻き起こさないかが不安だ。
無論こんなことを知頼さんに相談することはできない。突拍子もない話なので頭がおかしいと思われかねない。
「だから、本当にたいしたことではありません」
俺はごまかすために、わざとらしく笑った。
「そう? なら、深くは詮索しないよ。でもいつでも頼ってくれていいからね。できるだけ力になるから」
知頼さんはそう言いながら上品に笑った。ああ、知頼さんは本当に素晴らしい女性です。
「お、二人で何の話だ? あたしも混ぜて!」
知頼さんと楽しく談笑していると、また新たな声が割って入ってきた。声の主は小柄で活発そうな短髪の少女である。
「何だ、政美か」
俺は真顔で言った。
北条政美。荒い話し方やちんちくりんな見た目はお嬢様という感じではないが、俺と同じく幼稚園で大名学園に入ったれっきとしたお嬢様である。親父の会社と提携する菓子会社、北条製菓社長の長女なのだ。
「何だとは何だ、何だとは!」
政美は人差し指で俺を指しながら怒った。人を指差すのはやめろ。
「まったく、それが許嫁に対する態度かね」
政美は腕組をして続けた。そう、俺と政美は許嫁なのである。つまり親が決めた婚約者だ。
「別に政美には関係ない話だよ」
「うう、あたしを除け者にするな! 影勝ぅ!」
政美は半泣きで援軍を呼んだ。
「え、な、何!?」
その政美の援軍要請を受け、先程まで遠くの席で本を読んでいた男が近づいてきた。男の顔には鬱陶しそうな長い前髪がかかっている。
「影勝! 氏実が冷たい!」
「いや、それを僕に言われても……」
影勝は困惑した声を上げた。
彼は上杉影勝。製菓会社、上杉製菓の次男坊である。学問でも武術でも何をやらせても一流なのだが、謙虚で控えめな性格の男だ。
俺と知頼さんと政美、そして影勝の四人は大名幼稚園からともに切磋琢磨した友なのである。それぞれ父親が製菓会社を営んでいるので本来は商売敵なのだが、それは親が勝手にやっていることなので俺たちには関係ない。
「でも氏実くん、確かにいつもより元気ないよね。冷たいのとはちょっと違うけど」
影勝が政美の訴えに同調した。
「元気だってあるし、冷たくもないよ」
俺はまた窓の外を見た。
「……ん?」
すると透明の硝子に映る一本の背の高い木の上に、見覚えのある三角形の黒い物体が見えた。その物体は一度ぴくりと動くと、すぐに木の陰に隠れる。
「まさか……」
「何か見えたの、氏実くん?」
知頼さんがまた心配そうに聞いた。
「あ、いや何でもないです。たぶん気のせい」
何となくクレアの帽子っぽかったが、まあ俺の見間違いだろう。彼女には大人しく留守番するよう言ってあるのだ。おそらく烏か何かだ。こんなところで一羽だけ烏を見るとは、縁起のよいことだ。きっとそのうち松明を掲げた八咫烏が幸運に導いてくれるだろう。
「そういえばうわさで聞いたんだけど、校内に不審者がいるらしいね」
影勝が思い出したように言った。
「不審者……?」
「うん、不審者。僕らが登校してから少し後に忍び込んできたんだって」
まさかとは思うが、不審者ってやつらじゃないよな。
「警備員が総出で追ってるらしいよ。黒い服と帽子をかぶった人と、覆面をかぶった人の二人組だって」
ううむ、特徴が断片的すぎて確信を持てないな。だが何となくその特徴に合っているような気もする。
「でも中庭で見かけたっていう目撃情報も少し前にあったらしいし、もう捕まってるかもしれないね」
「お前はなんでそれらの情報を知っているんだ?」
「端っこの席にいると廊下の会話が聞こえるからね。さっき警備員が話してた」
ああ、ただ本を読んでいるだけじゃなかったんだな。
「うーん、まあ、そうだな」
俺は黒板の上にかかっている時計を見た。まだ次の授業までは二十分以上ある。
「よし」
そして俺はゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと用事を思い出したから行ってくるよ」
「え、どこに行くんだ?」
政美が聞いてきた。
「まあ色々な」
俺は曖昧に答えて、教室を出た。
さて、俺の用事とはもちろん不審者の正体を確かめることだ。
窓越しに見えたあの黒い物体は烏であると信じたいが、やはり俺の目にはクレアの帽子に見えた気がする。というか十中八九クレアだろう。そしておそらく不審者というのもクレアだ。
二人組ということはアリスも来ているのだろう。何せクレアは黒い帽子と服を着用しているし、アリスの南瓜は覆面に見えなくもない。
そしてそのクレアたちを警備員たちが総出で追っているという。もし捕まったら大変だ。適当なことを言われ、それが学校に、ひいては親父に伝わったりすればかなり困る。
場合によっては俺がクレアたちの知人であることはごまかせないかもしれないが、少なくとも同居していることはばれないようにしなくてはならない。
とりあえず影勝の情報によれば不審者は少し前に中庭にいたらしい。他に情報もないし、まずは中庭に向かおう。
俺は掃除の行き届いた白い階段を歩いて降り、高等科校舎の一階中央にある中庭を目指した。
大名学園の中庭は学校内の施設とは思えない広さの庭園である。
壁は硝子張りになっていて、天井は天然の光を取り込むために吹き抜けになっている。四季折々の花を咲かせる木々が芸術的な配置で植えられ、一番奥には小さいが趣深い枯山水まである。大名幼稚園に通っていたころ、子供ながら圧倒させられた記憶がある。特に春の八重桜は圧巻だった。今の時期ならおそらく柊あたりが咲き始めたころではないだろうか。
中庭の前に到着し、硝子の扉を押し開けた。すると金木犀のような甘い香りとともに、白い小さな柊の花たちが俺を出迎えた。
周りの景色を眺めながらゆっくりと歩いていると、奥から数人が叫ぶ声が聞こえた。
「もういい加減に降りてきなさい! この不審者め!」
「誰が降りるかバーカ! ていうか不審者じゃないって言ってるでしょ!」
おい、まさか……。
駆けつけると、四、五人の警備員が、枯山水の左側に植えられている少し赤味がかった紅葉の葉に向かって叫んでいた。俺も警備員に合わせて見上げると、そこには見覚えのある、やけに裾が短い黒い装束を着た妖女と、橙色の覆面をかぶった妖女がいた。
「お前ら……」
予想はしていたけど、大人しくしていろと言ったよな。というかそれ以前に迷惑かけるなと言ったよな。そして木に乗るな。枝が折れたらどうするんだ。
「やや、これは今川様!?」
警備員の一人が俺に気づいた。
「今、不審者がこの木の上にいて非常に危険です! 今川様はお下がりください!」
「いや、何と言いますか、あいつらはですね……」
「あ、氏実! 氏実も説明してやってよ! 私が不審者じゃないって!」
クレアが大声で俺に振ってきた。あんまりなれなれしく話しかけないでくれ。深い関係だと思われたくない。
「お知り合い、ですか……?」
「ええ、まあ。一応、友人です」
恥ずかしながら。
「そうだったのですか!? こ、これは失礼しました!」
警備員たちは俺に深々と頭を下げた。
「そうだ! すっごい失礼だったぞ!」
「お前は調子に乗るな!」
お前の方が失礼だぞ。
「ええと、では私たちはこれで失礼します」
警備員たちは小走りで中庭を立ち去った。俺は警備員たちをその場で見送ってから、またクレアの方を見た。
「で、お前ら何で勝手に抜け出してきているんだよ」
「仕方ないじゃん。部屋にいてもつまんないんだもん」
「仕方なくない。というかいつまでそこにいるつもりだ。木が傷つくだろ」
「ああもう、わかってるよ。氏実はうるさいなあ」
クレアは愚痴をこぼしながら枝から飛び降りた。アリスもクレアに続く。着地場所は白い砂利が敷き詰められた枯山水の上だった。
「て、おい、何で平然と枯山水を踏み荒しているんだよ!」
クレアとアリスの着地点とその半径三寸程の砂利は無残にも吹き飛び、描かれていた砂紋は跡形もなく壊されている。
「え、これ砂場じゃないの? 着地の衝撃を和らげるための」
「そんなわけあるか! 何で滅多にこの木に登る人間なんていないのに、着地の衝撃を和らげる配慮をしなくちゃいけないんだよ! 芸術だ! 木々に彩られた空間の中で小さいながらも堂々とその存在を示す海なんだよ!」
「これが海って、無理あるでしょ。ただの砂地だよ」
「解釈は人それぞれだが、少なくともただの砂地ではない! お前にはこの趣深さがわからないのか!?」
真っ白い静かな海に浮かぶ無数の島々をお前は想像できないというのか! なんと情緒のない奴なんだ!
「ああ、はいはい。わかったわかった」
クレアは面倒くさそうに言った。本当にわかったのか?
「まあいい。枯山水は後で事務員さんに言って直してもらおう」
仕事を増やしてしまうのは忍びないが、仕方ない。
「で、説教の続きだ」
「えー、まだ続けるの?」
「うるさい。当たり前だ。部屋で大人しくしていろと言っただろ。もし親父に見つかったらどうするんだ」
「ずーっと部屋にいても暇なんだからしょうがないでしょ」
クレアは口をとがらせて言った。
「和歌集でも読んでいろよ。十分に暇をつぶせるだろ」
俺ならそれで半日はすごせるぞ。何度読み返しても飽きないから永遠に暇をつぶせる。
「だから和歌って何よ。何書いてあるか全然わかんなかった」
もはや絶句である。何ということだ。枯山水もわからなければ和歌もわからないのか。お前は普段何をしてすごしているんだよ。
「とにかくだ。暇でもなんでも、これからはあまり派手な行動はするな」
「えー、つまんないー」
クレアは子供のように間延びした声で言った。
「つまるつまらないの問題じゃない。親父に見つかったらお前らが追い出されるんだぞ」
後たぶん俺が殺される。
「それは確かに困るんだけど、じゃあ派手な行動をしなければいいんだね?」
「……何をするつもりだ」
「見つからないように密かに行動する。そう、まさに忍者のように」
クレアは両手で印を結び、若干声の音量を下げて言った。
「いや駄目だろ。お前は簡単にぼろを出しそうだ」
「そんなことないよ! 忍者だよ! ほら、忍者! にんにん!」
クレアは声量をもとに戻し、印をことさら強調してきた。まったく忍べていない。そういうところが忍者に向いていないのである。
「わかったわかった。とりあえずお前らはもう帰れ。そしてもうここには来るな。じゃ、俺は教室に戻るぞ」
言い終えると、俺は踵を返した。
「何でよ! 横暴だ!」
クレアはまだ突っかかって来るが、俺はそれ以上耳を貸さなかった。
「はいはい、わかりましたよ」
しばらく抗議が続いたが、やがてあきらめたのか小さな風の音とともに声は聞こえなくなった。おそらく吹き抜けから飛んでいったのだろう。
うむむ、少し言い過ぎただろうか。いや、俺は間違ったことは言っていないはずだ。だってあいつらが派手な行動を起こせば、あいつら自身が損をするのだから。うむ、間違ってない。
俺は少しだけ後悔しながら、早歩きで遠くに見える扉に向かった。
しばらく歩くと、柊並木の間に二つの人影が見えた。その影は少しずつ大きくなり、やがて鮮明に俺の瞳に映った。その瞬間、俺は息を飲んだ。
黒い服と帽子をかぶった男に、黒い覆面をかぶった男。
影勝から聞いた特徴と瓜二つだ。つまりこれが意味することは、大名学園に忍び込んだ本物の不審者ということである。
「しかしさすがアニキっすね! 大名学園に通ってる生徒たちはほぼ全員が金持ちだから、とりあえず誰かさらえば身代金がっぽりなんて誰も考え付きませんよ! これで借金ともおさらばっす!」
覆面の男が嬉々とした声で言った。確かにそんな穴だらけの誘拐は誰も思いつかないだろう。
「あたぼうよ! 俺様は天才だぜ!」
帽子の男は自分を親指で指しながら言った。その穴だらけの誘拐を実行できる行動力は天才的だと思う。
二人の会話を聞きながら、何となくこいつらは三下っぽいと感じた。
「ところでアニキ、ここはどこっすかね?」
「あー、よくわからんが、植物園っぽいな。たく、何だってこんな無駄に広いんだよ、この学校は。絶対余計な施設もあるだろ。そんなに金があるなら、ちったあ俺らにも分けろってんだ」
「あれ、アニキ、誰かいるっすよ?」
さっきまで帽子の男を見て会話していた覆面の男が正面を向き、俺に気づいた。
「んあ? おお、誰だか知らんが、この学園の生徒だぜ! つまり俺たちの被害者第一号だ!」
ああ、まずい。確実に照準を合わされた。逃げなくては。
「よっしゃ捕獲! 俺たちの伝説の始まりだぜ!」
俺は不審者から離れようと振り返ったが、この中庭は出入り口が一つしかないのでどこに逃げればいいのだろうか、などと思考を巡らしているうちに、帽子の男に後ろから羽交い絞めされてしまった。うむ、俺としたことが、こんな簡単に捕まってしまうとは。
「俺を捕まえてどうする気だ!? 金か? 残念だったな! 親父は俺を誘拐したくらいじゃ一円も出さないぞ!」
俺は男の腕の中でじたばたしながら、大声で言った。
「それならそれで構わんさ。俺の友人に臓器を売買してるやつがいてな」
「アニキさすがっす! 超悪っす! いかしてるっす!」
「臓器!?」
まずい。これは本当にまずいぞ。それでは俺は殺されてしまうではないか。穴だらけの言動に油断していたが、まさかそんな強力な後ろ盾があるとは。ああ、頼む親父。身代金を出してくれ。
「お困りのようだな、少年」
俺が滅多にしない親父への祈りを捧げていると、どこからともなく声が響いた。そして俺の髪をそよ風がなでる。
「な、何だ!? 何の声だ!?」
不審者たちは俺を羽交い絞めにしたまま動揺している。しかし俺には、この声に心当たりがあった。そう、この声は。
「仕方ない。私が助けてあげよう」
そんな声が聞こえた瞬間、爆風とともに俺の体は空に舞い上がった。華奢な女の子に抱きかかえられて。
「クレア!」
俺は、俺を抱きかかえてくれている女の子の名前を、今日一番の大声で呼んだ。クレアの後ろにはアリスも乗っている。
「ま、家主がいないと私たちの住むところもなくなっちゃうからね」
クレアは悪戯っぽく笑った。そしてゆっくりと降下し、俺を地面に降ろした。
「あ、アニキやばいっすよ! あいつ何か飛んでたっすよ! エスパーっすよ!」
「ん、んなわけあるか! こういうのはだいたいプラズマで説明がつくんだよ! プラーズマー!」
「それ、怪奇現象とかじゃないっすか?」
「う、うるせえ! 俺様がプラズマっつったら怪奇現象もエスパーもプラズマなんだよ! そうじゃなきゃ怖えだろううが! 怖気づいてねえで、さっさと全員捕まえちまうぞ!」
そう言うと、帽子の男は猛然と突進してきた。それに釣られて覆面の男も突進してきた。
「まずい! また来たぞ!」
俺はまた後方に逃げようとする。しかしクレアは正面を見据えたまま動かなかった。
「逃げる必要なんてないよ。私が何とかする」
「何か手があるのか?」
「不思議な力を持つ美少女だって言ったでしょ」
一度、左目をつぶってそう言うと、クレアは右手の人差指を正面にまっすぐ突き出した。そして言う。
「行け、アリス!」
「かぼ」
「お前が何とかするんじゃないのかよ!」
さっきの意味深長な発言は何だったんだよ。お前がどうにかする流れだっただろ。お前の不思議な力を使えよ。
「私はあれよ。トレーナー? 指示を出す方」
「何だよそれ」
「え、嘘!? 氏実、あの世界的ゲームを知らないの!? ポケットの中のモンスターを!? 氏実ほんとに日本人!?」
「知らないよ。そんなさも常識のように言われても」
俺はそう言った類のものとは無縁の生活をさせられているのである。
「まあ、とにかくこんな三下っぽいやつらに私が手を下すまでもないってことだよ。アリスもやる気みたいだし」
「かぼ」
アリスはそう言いながら、俺たちの前に出てきた。あれはやる気になっているのか? 南瓜をかぶっているせいで表情が読めないし、声もいつもと変わらないのだが。
「じゃあアリス、先制攻撃だ! かぼちゃクラッシュ!」
「かぼ」
クレアが指示を出すと、アリスは頭を下げて前屈みになった。そして膝を思いきり曲げて力を蓄えた後、その力を一気に解き放つ。
アリスは矢のように跳んでいき、こちらに向かってくる二人の不審者に頭から突っ込んだ。命中である。
骨でも折れたような鈍い音がして、二人の不審者は悲鳴を上げることなく後方に吹き飛んだ。そして地面で何度も弾みながら、中庭の扉の前で止まった。
「ここから扉までってかなりの距離あるぞ……」
あいつら死んでしまったんじゃないか? すさまじい威力である。
「ふふ、これがアリスの一撃必殺技、かぼちゃクラッシュだ!」
「かぼ」
「必ず殺すって、あれ本当に死んでないか?」
「そこは大丈夫。アリスも手加減してるはずだから」
クレアは笑顔で説明した。
「あれ、手加減していたのか……」
あれで手加減しているのか。本気だったらどんな威力だったんだよ。
「な、何の音だ!?」
扉が開き、数人の警備員が中庭に入ってきた。
「これは不審者!? ……の遺体!?」
警備員たちは扉の前に転がる物体を見て叫んだ。俺たちは走って警備員に近づく。
「あ、いや、それはまだ遺体ではありません。……遺体じゃないんだよな?」
言いながら不安になってきたので、後ろから歩いてくるアリスに確認を取った。
「かぼ」
うむ、何を言っているのかわからない。肯定したという解釈でいいのだろうか。
「でもかなりよくない状態だと思うので、とりあえず救急車を呼んだ方がいいかと。それと本当に犯罪者なので警察にも」
「わ、わかりました。おい、病院と警察に連絡しておいてくれ」
警備員の一人がうなずき、中庭を出て行った。
「今川様、お怪我はありませんか?」
「ええ、俺は大丈夫です」
「ああ、よかった。今川様に何かあったら私の首が飛んでしまいますから。物理的に」
「それは、大変ですね……」
物理的って、学校側はいったいどんな制裁を加えるんだ。
「とにかく今川様が無事で本当によかった。今回のことを機により一層、警備体制の強化に努めてまいります。それでは、私はこれで」
「ええ、どうも……」
警備員たちは敬礼をした後、不審者たちを抱えて中庭を出て行った。怪我人を動かして大丈夫なのか?
「まあ、一件落着か。助かったぞ、クレア。感謝する」
俺はクレアに向き直り、感謝の言葉を述べた。
「お、氏実、ずいぶん素直だね。助けてほしいなんて頼んでねえ、とか言うかと思ったのに」
「助けられたら感謝するのは当然だ」
素直に感謝できない程ひねくれた人間じゃない。
「アリスもありがとう。助かったぞ」
俺は後ろを振り返った。しかしそこには見たことのない小柄な子供がこちらに背を向けて地面に座り込んでいた。
「……誰だ?」
俺は回り込んで、その子供の正面に立った。やる気のなさそうな目をしているが、可愛らしい顔立ちの女の子だ。手には橙色の何かのかけらを持っている。……この橙色、もしかして南瓜か?
「ま、まさかと思うがお前、アリスか?」
目の前の子供は小さくうなずくと、「かぼ」と小さな声で言った。つまりこの可愛らしい幼女はアリスということである。
「て、お前、アリスなのか!? 何だこれ、脱皮!?」
うおお、お面の下にこんなものを隠し持っていたのか。
「あちゃー、やっちゃったか……」
クレアが俺の横に立った。
「かぼちゃクラッシュを使うと、一定確率でかぼちゃが割れちゃうんだよ」
「それって大丈夫なのか?」
「まあ、特に問題はないんだけど」
クレアがそう言った直後、アリスが手に持っていたかけらを俺たちに差し出してきた。
「顔取れた」
「顔って、お面が外れただけだろ?」
なんでそんな怪談みたいな表現なんだよ。
「ジャコランタン族にとってはかぼちゃが顔なんだよ」
クレアはかけらを受け取りながら説明した。
「そうなのか。家のしきたりってやつか?」
しかしこの顔に常にお面をかぶせておくというのは、すごくもったいない気がする。いや、別に俺は女性を外見で判断するような男ではないけれど。
「何にせよ、かぼちゃを直すには少し時間がかかるから、もうちょっとこのままかな」
「かぼ……」
アリスは少し寂しそうに返事した。
「ところでさ……」
俺は落ち込むアリスを眺めたまま、クレアの顔を見ずに切り出した。
「さっきは悪かったな。ちょっと言い過ぎた」
「おお、また素直になった。ちょっとこそばゆいな」
「うるさい。あのままじゃ後味が悪いってだけだ」
しばらくは同じ家で暮らすのだから、喧嘩をしたままではやはり気まずい。だから深い意味などない。
「言っておくが、目立つ行動を認めるわけじゃないからな」
「まあ、見つかったら大変だからね」
「おお、ようやくわかってくれたか」
俺は胸をなでおろした。これで親父に見つからずに済みそうだ。
「だから、これからは誰にも怪しまれないように行動します」
「……は?」
おい、わかったんじゃなかったのか。また忍者とか言い出したら怒るぞ。
「一応聞くが、何をするつもりだ?」
「秘密だよ。ひ、み、つ」
クレアはわざとらしく単語を区切った。何か腹立つ。
「いやー、しかし学校は楽しそうだったねえ」
「お前、まさかまたここに来る気か?」
「さあ、どうだろうね」
そう言うと、クレアはふふふ、と笑った。ああ、本当に腹立つ。童顔だからこういった悪戯っ子のような表情が似合うのが余計苛つく。
「ところで氏実、時間やばいんじゃない?」
「え、って、あ!?」
左手首に巻かれた銀の腕時計を確認した。昼休みはとっくに終わっていて、授業開始からすでに五分以上すぎている。
「大変だ! 早くいかないと!」
俺は慌てて硝子の扉を開いた。
「今から授業に出るの?」
「当たり前だろ! それと何をするつもりか知らないが、とりあえず迷惑だけはかけないでくれよ」
俺はそれだけ言うと、大急ぎで教室に向かった。級友たちの注目を集めながら席に戻ってぼんやりと窓を眺めると、木の上で箒にまたがった烏が、笑顔でこちらを見つめていた。