一話
広大な敷地に堂々とたたずむ巨大な木造の屋敷。世間では一般に豪邸と呼ばれるこの今川家の屋敷は、基本的に中も外も静まり返っている。
そんな静かな屋敷の一室。この家の持ち主の一人息子たる俺に割り当てられている部屋も、例にもれず静まり返っていた。
しかしその静けさは、いつもの人の気配すら感じさせないような静けさではなく、突然の衝撃に部屋の中にいる者の誰もが、言葉を失っていたことによる静けさだった。
俺はふすまに手をかけたまま固まっていた。凝視するのは前方の開け放たれた硝子窓。俺が学校に行く前に閉めておいたはずの窓だ。ではなぜ学校から帰ってきたらすでに開いていたのか。
理由に関しては明白だ。
俺の視界に入る窓以外のもの。窓枠に手をかけ半分身を乗り出しているあいつ。
見たことのない黒い装束に、同じく見たことのない黒く先のとがった帽子。その全体的に黒くて面妖な出で立ちの妖女は綺麗な顔立ちをしているが、どこからどう見ても不審人物であった。
俺はゆっくりと振り向き、深く息を吸って、叫んだ。
「警備員さん! 不審者! ふしん……」
「ストップ! 待って! とりあえず落ち着こう」
しかし後ろから口を手で押えられた。くそ、おそらく今の一瞬では警備員に事態は伝わらなかっただろう。まさか強盗とかだろうか。だとすると俺の命が危険だ。
数秒して、俺の口を押える手が緩んだ。
「何が目的だ。金か? 残念だったな。親父は俺を誘拐したぐらいじゃ一円も出さないぞ。いや、本当に一円たりとも出さないと思うので勘弁してください」
俺はまた妖女に体を向け、犯人を刺激しないように小さな声で言った。近くで見ると妖女は想像以上に小さい。俺は背が高い方ではないが、その俺よりも頭一つ分小さい。それでいて出るところは出て……。やめろ俺、こいつは強盗だぞ。
「いやだから落ち着こうって。君、すっごい誤解してる」
妖女は俺の両肩に手を乗せた。何を誤解しているというのか。もし仮に強盗じゃなかったとしても、他人の家に勝手に侵入してきた時点で不審者であることは確かだからな。庭は厳重に警備しているはずだが、どうやって侵入してきたんだよ。
「私たちは泥棒でも強盗でもないの。目的はただ一つ。今からそれの説明をしたいんだけど……。おーい、アリス何やってんのー?」
妖女は振り返り、窓に向かって言った。まさか仲間がいるのか。
「クレア、ここ」
おそらく妖女の仲間と思しき声が聞こえた窓をよく見ると、橙色の何かがしきりに上下しているのが見える。そしてかすかにだが地面を踏み鳴らす音も聞こえる。
「ああ、うん、わかった。入れないのか」
そう言うと、妖女は俺の肩から手を放し、窓の方に歩いていく。そして窓の外に身を乗り出した。
……あれ? ていうかこれ、俺逃げられる? 逃げられるよな。逃げていいよな。
「まったく、アリスはほんとにちっちゃいな……。ところで君」
「あ」
俺が逃走を図ろうと廊下への一歩を踏み出した瞬間、妖女は仲間を部屋に引き入れていた。早い。
妖女は俺が固まっているうちに距離を詰める。
「君、逃げようとした?」
「そ、そんなわけないではありませんか」
「とりあえず部屋の中で話そうか」
「はい」
もはや言い逃れはできなかった。
俺はあきらめて部屋に戻り、畳の上に正座した。くそ、もっと早く行動に移していれば逃げられたかもしれないのに。
というか妖女の仲間も怪しすぎる。服装が風変わりなのは妖女も同じだが、なぜか頭に目と口らしき部分をくりぬいた橙色の大きな植物の実をかぶっている。窓から見えていた橙色の何かはあれのへただったらしい。
「ねえ、椅子ってないの?」
「そんなものはうちにはない。そこの座布団を貸してやるからそこに座れ」
俺はお茶を点てながら言った。妖女たちは座布団を俺の前に持ってきて、しばらく考え込んだ後、俺の真似をして正座した。
「何か変な座り方……」
まさか座布団に座ったことがないのだろうか。この世に正座したことがない人間がいるとは思わなかった。
しかし改めて見ると、こいつら土足ではないか。畳に土足で入るなど非常識にも程がある。というか何だ、あのとんがり帽子の妖女。服の裾が短すぎないか? これでは正座なんかしたら見えてしまう気が……。だからやめろって俺。
「それで、泥棒でも強盗でもないとしたら、あんたらは何なんだ?」
俺は薄茶を差し出してから顔を左にそらし、質問した。
「あ、そうそう。そろそろ本題に移らないとね! ところで君、名前は?」
「今川氏実だ」
て、俺はなんでこんな簡単に知らない人に個人情報を流出しているんだ。
「わかった、氏実だね。じゃ、さっそく行くよ、アリス。せーの!」
とんがり帽子の妖女は掛け声を上げ、そして今度は二人合わせて大げさな手振りをつけて叫んだ。とんがり帽子の方は明るい声で、仲間の方は平たんな声で。
「トリックオアトリート!」
「は?」
と……何だって?
「え、だから、トリックオアトリート……」
今度はとんがり帽子の方だけが言った。
「とり……?」
何だそれは。何かの呪文か? それとも新手の宗教の名前だろうか。とり何たらかんたら教。
「え、何その素で知らないみたいな反応……」
「素で知らん」
聞いたこともない。
「うーん、ハロウィンって日本じゃあんまり浸透してないのかな」
妖女は小さな声で仲間と相談し始めた。またよくわからない単語が出てきたな。はろ……何とか。
「さっきから何なんだよ。とり何とかだの、はろ何とかだの」
「ああ、ごめん。説明する。ハロウィンっていうのはヨーロッパで行われているお祭のこと」
「祭ってことは京都の賀茂祭みたいなやつか?」
「その賀茂祭を私は知らないんだけど……」
賀茂祭も知らないとは、世間知らずにも程があるだろ。妖女は気を取り直して説明を続ける。
「そのハロウィンでは、毎年十月三十一日に仮装した子供たちが町を練り歩き、近所の大人たちに『トリックオアトリート』って言ってお菓子なんかをもらう。そういうヨーロッパのお祭なんだ。ちなみに『トリックオアトリート』は『ご馳走くれなきゃイタズラするぞ』って意味」
「子供たちが近所の大人たちを恐喝して食糧をもらうのか……?」
何て野蛮なんだ。悪戯とは悪い戯れである。たとえ戯れであっても悪いことに変わりはないのだ。
「なんでそんな言い方なの!? 普通の慣例的な行事だよ!」
「そんな恐ろしいことが慣例的に行われているのか!? やはり外国は怖いところだな……」
「だから恐ろしくないんだって! 恐喝とかじゃなくて極一般的なことなの!」
「うむ、よくわからんが。わかった」
仕方ないのでわかったことにしよう。しかしやはり外国は恐ろしい。
「ところで何でお前らはうちに不法侵入して、そのはろ何とかを実行しようとしたんだ?」
「うん。ハロウィンね。いい加減覚えようね」
妖女はそう言ってから、突然その場で立ち上がった。まずい。高低差で中がちょうど見えそうだぞ。
「実はハロウィンは子供たちがお菓子をもらうってだけの行事じゃないの。実は十月三十一日のハロウィンでは、なんと一日だけ魔界の扉が開き、たくさんの魔物が地上に現れるのです!」
「いきなりおとぎ話の世界に入ったな」
俺は下を向いて言った。
「信じられないかもしれないけど、これは本当の話なんだよ。そして、申し遅れました。私の名前はクレア・ウィッチ。友達はみんなクレアって呼ぶよ! 隣のこの娘は」
「アリス・ジャコランタン。アリス」
「ああ、やっと名乗ったか。いつ名乗るのかと思っていたぞ」
「え、あれ? 私たちの名前聞いて何も思わないの?」
「何だろう。変わった名前だな」
くれあ、などという苗字は聞いたことがない。
「もしかして氏実、日本以外のこと知らない?」
「舐めるな。中華のことも朝鮮のことも知っているぞ」
「ヨーロッパのことは?」
「西洋のことなど知らなくていいと親父が……」
「ああ、わかったよアリス。日本にハロウィンが浸透してないんじゃなくて、氏実が世間知らずなんだ」
「む……」
確かに西洋のことは知らないが、賀茂祭も知らないお前らに世間知らずだとか言われたくないぞ。だいたいここは日本で、俺は日本人だ。はろうぃんなどという西洋の行事は知らなくて当然である。
「えーと、詳しく説明するとね。私の名前のウィッチっていうのは、魔女って意味なの」
「まじょって何だよ」
「そこからか。魔女ってのは、簡単に説明すると不思議な力を使って空を飛んだりする美少女のこと」
「よくわからんが、とりあえず空を飛ぶ人のことだな」
「美少女の部分を削らないでよ」
たしかに容姿は美しいかもしれないが、俺は自分で美少女とかいう女を本当に美しい女性だとは認めない。大和撫子たる者、お淑やかでしおらしくなくてはならない。
「でもまあその解釈でもいいや。で、アリスのジャコランタンってのは、お化けかぼちゃって意味。ほら、かぼちゃかぶってるでしょ?」
クレアは座ったままのアリスの頭を軽く叩いた。
「それ南瓜だったのか」
「そ、それすらも気づかなかったとは……」
「いやだって南瓜ってもっとひょうたんみたいな形のやつだろ」
「かぼちゃってこれが一番、一般的な形でしょ。ペポカボチャとか」
「最も一般的な南瓜といえば鹿ケ谷南瓜だろ。有名な京野菜」
「ああ、お互いの常識が違いすぎて本題が一向に進まない……」
クレアは南瓜に抱き付いたままため息をついた。
「要するにお前たちは魔界からやってきた西洋の魔物であり、一年に一度、十月三十一日に開く扉より地上に舞い降りた。そういう設定だな。ただ」
「設定じゃないんだけど、まあだいたいそういうことだね。それじゃあ気を取り直して、トリックオアトリート! ご馳走くれなきゃイタズラするぞ!」
クレアは南瓜の上でまた大げさな手振りをした。俺は彼女が言い終わるのを待たず、言った。
「ただ、今日は十一月一日だぞ」
「……え?」
「今日は十一月の一日。ほら、そこの壁にかかっている暦表。十一月になっているだろ」
俺は視線でクレアたちの後ろの壁にかかる暦表を指した。クレアはその場で顔だけ振り返り、数秒暦を眺める。アリスは動かない。
「え!?」
クレアは素早く顔を戻し、素っ頓狂な声を上げた。
「だって、私たちまだ夜越してないよ!? わざわざ三十日から待機して〇時ちょうどに扉くぐったもん! それにもし十一月一日だったとしても扉は閉まってるし」
「日にちを勘違いして十月三十一日の二十三時五十九分に通った」
アリスは微動だにせず、落ち着いた口調で言った。
「そ、そんな勘違いと絶妙な間違いをしてたとは……。ていうかアリス、知ってたなら事前に教えてよ!」
「クレアが今日行くって言ってたから」
「いや、日にち勘違いしてるって教えるだけでしょ! そしたら予定変えるだけじゃない!」
「……あ、そうか」
アリスは今さら気づいたのか納得の声を上げた。
「アリス何でそんな冷静なの……? いや、まあいつものことだけど。でも、どうしよう。十一月一日じゃ魔界の扉ももう閉まっちゃってるよ。来年まで帰れない……」
クレアは肩を落とした。そして上目づかいで俺を見上げる。何を期待しているのかはだいたいわかった。
「言っておくが、うちには泊めないからな」
「何でよ! 一人や二人泊めてくれたっていいでしょ!」
やっぱり。居候を期待していたようだ。
「いや一人や二人を一年間、家に泊めるのは大変なことだと思うぞ」
「いいじゃん! 氏実の家お金持ちそうだし。私たちくらい余裕で養えるでしょ!」
「親父に野良猫とか拾ってくるなって言われているんだよ!」
「あ、酷い! 野良猫扱いは酷いよ!」
「ある意味、野良猫より質悪いだろ!」
「野良猫以下!?」
「ところでお茶漬けいるか?」
「あ、食べます」
「いや、額面通りに受け取るなよ……」
帰れよ。無粋だぞ。
「何でよ! 泊めてくれたっていいじゃない! それとお茶漬けまだ?」
「何が何でも無理だ! 他を当たれ! そしてもうお茶漬けのことは忘れろ!」
「氏実くん」
俺とクレアが争っていると、ふすまの先から俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
「み、美雪さん!?」
その声は親父の秘書、大原美雪さんのものだった。
「な、何か用ですか!? お前らはとりあえず押入れに隠れていろ」
「え、ちょ、何さ、いきなり!」
俺は抵抗するクレアたちを何とか押入れに押し込んだ。
「会長に休憩をいただいたので、氏実くんのお勉強を見て差し上げようかと。入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、いいですよ、はい」
俺は大急ぎでお茶を片付け、クレアたちがいた痕跡を隠した。
「失礼します」
ふすまが開くと、黒縁の眼鏡をかけ、紺色の背広を着込んだ優艶な女性が正座して頭を下げてきた。美雪さんである。
美雪さんは一度立ち上がり、畳の淵を踏まずに入室する。また座り、きびきびとした動作でふすまを閉める。そして俺の前に小さな歩幅で近づき、正座した。美雪さんのすべての動きが洗練されていた。
「ところで氏実くん、ずいぶんと騒がれていたようですが、何かあったのですか?」
まずい。声が大きすぎたか。
「そうですかね? 僕はそんなに騒いでいるつもりはなかったのですが。ええと、て、天気もよかったので、和歌でも詠もうかと。それより美雪さんもせっかくお父様から休憩をもらったのですから、僕の勉強をみるより自分の体を休めてください」
「いえ、私にとっては氏実くんといることが一番の癒しでして……」
「え?」
「あ、いえ、何でもありません。ほら、氏実くんは将来、会社を継がなくてはいけないですから、会長の秘書としてお力になれればと思いまして」
美雪さんはまっすぐ俺を見ていた視線を斜め上に移した。
「あ、ああ、そうですね……」
俺は作り笑顔で答えた。後ろの押入れからこそこそと話し声が聞こえる。頼むからお前らしばらく大人しくしていてくれ。
「あら、氏実くんの後ろから何か聞こえませんか?」
美雪さんが何かに気づいた。
「そ、そうですかね? き、気のせいかと……」
「いえ、絶対に何かいますよ。ちょっと失礼しますね」
そう言って美雪さんは立ち上がり、押入れに歩いて行く。
「き、きっと鼠か何かですよ!」
美雪さんを視線で追うと、押入れが少しだけ開いているのが見えた。お前ら、しっかり閉めておけよ。見つかるだろ。
「油断してはいけません。もしかしたら氏実くんの命を狙う者かもしれません。総資産日本一の今川組の御曹司なのですから、その可能性は十分にあります」
美雪さんが押入れに近づくと、押入れが小さな音を立てて閉まった。お前ら馬鹿なの? 何でそんな不自然に動くんだよ。
「ほら、今、閉まりましたよ! きっと暗殺者かスパイですよ!」
「いや、その中の人たちは暗殺者とか、すぱいって知らないけど……そういうのではなくて!」
「曲者めえ!」
美雪さんは押入れを勢いよく開け放った。中にはひきつった表情の曲者がいた。
「……は、ハーイ!」
一瞬の静寂の後、押入れの中の曲者、とんがり帽子の妖女が発音のおかしい返事をした。そして部屋はまた静寂に包まれる。
「とりあえず部屋の中で話しましょう」
「はい」
今度はしっかりとした発音で返事をした。
「なるほど、クレアさんにアリスさんですか。それで、あなたたちはどこのスパイなのですか? 武田グループですか? それとも上杉製菓?」
美雪さんは、向かい側で正座をして小さくなっているクレアたちに尋ねた。俺は美雪さんの横に座り、もう一度お茶を点てている。
「いや、その、私たちはスパイとかそういうのではなくてですね……」
「では暗殺者ですか。依頼人は誰ですか? 答えてください」
美雪さんは差し出されたお茶を一気に飲み干して言った。今日の美雪さんは何だかいつもより怖い。
「いえ、暗殺者とかでもなくてですね。その、何と説明しますか、私は魔界から来た魔女でして……」
「……は?」
まあ当然の反応だろう。魔界なんてありえないし、だいたいまじょなどという言葉だって聞いたことがないのだから。
「ふざけないでください。そんな非現実的なこと、魔女のコスプレをすれば騙せると思ったのですか? ハロウィンだってエイプリルフールだってとっくにすぎていますよ?」
が、しかし、美雪さんは当然のようにそれらの言葉を使いこなしていた。
「え、美雪さん知っているんですか? まじょとかはろうぃんとか。そしてえい、何とかっていうのは……?」
さすがは美雪さん。博学だ。
「はい? 氏実くん、何を言っているのですか?」
「も、もしかしてそれって常識なんですか?」
「ええ、おそらく今やほとんどの日本人が知っているかと」
「僕、今日初めて聞いたんですが……」
知らなかった。そんなよくわからないものが日本にもあったとは。
「あ、そうそう。そう言えばさ」
と、俺が美雪さんと話していると、クレアはお茶をすすりながら、話しかけてきた。
「なんで氏実の一人称『僕』になってるの? さっきまで『俺』だったのに。それとお父さんのことも『親父』って呼んでたのが『お父様』って。はっきり言って気持ち悪いよ」
「お、お前! じゃなくて、君! いきなり何を言っているんですか!」
「いや、ごまかせてないよ。今、確実に『お前』って言ったよ」
「あ、あのですね美雪さん。こいつが、じゃなくて彼女が言っているのは戯言であって事実ではないと言いますか……」
俺は慌てながら横の美雪さんに弁明する。なんでお前、馬鹿なのにそんな痛いところ突いてくるんだよ。
「一言で言うとお父様には黙っておいてください!」
結局、弁明は不可能と判断した。
「あ、やっぱり猫かぶってたんだ。思わず押入れの中で笑っちゃった」
あのとき聞こえたこそこそ話は笑い声だったのかよ。
「俺は家では礼儀正しいってことになっているんだよ」
俺はクレアを横目でにらんだ。しかし困った。これは、美雪さんを幻滅させてしまっただろうか。
「いい」
と、俺が肩を落としていると、横から謎の声が聞こえた。
「……は?」
謎の声がした方を向くと、美雪さんが真顔で俺の顔を見ていた。なぜか無表情なので少し怖い。
「いつもの丁寧な言葉づかいの氏実くんもいいですが、『俺』ってちょっと乱暴な言葉づかいの氏実くんも新鮮でなかなか……」
「み、美雪さん、何を言っているんですか?」
「はっ、私としたことが! すいません、取り乱してしまいました……」
美雪さんは慌てて頭を下げた。そして一度咳ばらいをして、改めてクレアたちに向き直る。
「えっと、では気を取り直して、クレアさんにアリスさん。あなたたちは結局、何者ですか? もう冗談は通じませんよ」
「困ったなあ。魔女ってのは事実なんだけど……」
クレアは両手で頭を抱えた。
「クレア、飛べる」
アリスが顔を動かさずに言った。
「おお! ナイスアイデア!」
言いながらクレアは立ち上がった。そして未だ開けっ放しになっている窓に向かって走り出し、そこから外に出る。
「今から私が魔女だって証明するために飛んでみせるから、しっかり見ててね!」
クレアは壁に立てかけてあった細長いあずき色の棒を持ち、それを俺たちに見えるよう空に掲げた。
「待て! そこで飛ぶ気か!?」
「そのつもりだけど、何か問題があるの?」
「目立つだろ! 頭のおかしい人だと思われて警備員に捕まるぞ!」
「頭のおかしい人って何!? 実際に飛ぶよ! 庭先で飛ぼうとする変な人じゃないよ!」
「もし仮に本当に飛んだとしても、警備員には取り押さえられると思うぞ!」
「あ、それは大変だね。じゃあちょっと狭いけど部屋の中で飛ぼう」
クレアは窓枠に手をかけた。
「あ、それと靴は脱げ。西洋ではどうか知らないが、家の中では靴を脱ぐのが常識だ」
「はーい」
クレアは間延びした返事をして靴を脱ぎ、また窓枠をよじ登って俺と美雪さんの前に立った。結構素直だ。
クレアが右手に持っている細い棒の先には薄茶色の植物の枝が無数に生えている。おそらく箒だろう。
「それでは、これから魔女の実力をお見せしましょう!」
クレアは自信たっぷりにそう言うと、箒の柄を両足でまたいだ。一秒程待つと、クレアの帽子が微妙に動き出した。次第にその動きは大きくなっていく。
そして次の瞬間、クレアの足がすっと畳を離れた。
「うおお、本当に飛んだ……」
俺は思わずつぶやいた。
「すごいだろ!」
「すごいな! どんなからくりだ!?」
「だから、不思議な力を持つ美少女だって言ったでしょ!」
クレアは箒にまたがり浮遊したまま胸を張った。
「うむむ、箒で空を飛ぶなど現在の技術ではありえませんからね。でもこうして実際に目の前で飛んでいる姿を見せられれば、あなたが魔女だということを信じるしかありませんね」
美雪さんは一応納得した。美雪さんが信じるくらいなのだから、不思議な力を持っているというのは本当なのだろう。
「クレアさんが魔女だったとして、ではあなたはなぜ氏実くんのお部屋の押入れに潜んでいたのですか?」
美雪さんがそう聞くと、クレアは箒から降りてその場で正座した。
「順を追って説明すると、実は魔界ではハロウィン、つまり毎年十月三十一日の夜に盛大なパーティをすることになってて、そこで出す料理は人間界で人間からもらったものを持ち寄ることになってるの。それで私たちも人間界に来たんだけど、ちょっとした勘違いでかみ合わないはずの歯車が見事にかみ合ってしまい、十一月一日にこうして氏実の家に侵入したと、そういうわけ。あ、押入れに入ってたのは美雪さん、だっけ? が突然来たから、氏実が押し込んだ」
「なるほど。では氏実くんの暗殺が目的とかではないのですね」
「そんな物騒なものじゃないよお!」
クレアは両手を前で何度も振りながら否定した。人間を恐喝して食糧を奪うのは物騒なことではないのか。
美雪さんはクレアの瞳を見つめると、しばらくして溜息を吐いた。
「……わかりました。信じましょう」
「ふう、やっと疑いが晴れた」
クレアはほっと胸をなでおろした。が、一転してすぐに態度を戻す。
「何か説明してたらお腹すいてきたな。氏実、ごはん!」
「お前、失礼とか思ったりしないのか?」
「仕方ないでしょ! お腹すいちゃったの!」
クレアはふてくされた表情で食事を要求し続ける。
「わかったよ。俺が作ってくる」
俺は仕方なく立ち上がり、ふすまに手をかけた。
「氏実くんの手料理ですか!? わ、私の分もお願いします!」
「え、ああ、いいですけど、そんなに長く休憩していて大丈夫なんですか?」
「平気です! 毎日真面目に働いているのですから、少しくらい遅れても会長は許してくれます!」
「まあ、それならいいですけど……」
親父はそんなに心の広い人ではないですよ。美雪さんどれだけお腹すいているんですか。
「アリスもいるか?」
「食べる」
「わかった。じゃあちょっと待っていろ。三人分作ってくる。美雪さんは運ぶのを手伝ってください」
「はい、わかりました」
俺と美雪さんは部屋を出て、近くにある台所へ向かった。
料理を手早く済ませ、俺は一つ、美雪さんは二つお盆を持って部屋に戻った。
料理と言っても、米は炊いてあったので味噌汁を作り、鮭を焼いた程度だが。それと西洋では箸を使わないと聞いたことがあるので、俺が持つクレアに配膳するお盆と、美雪さんが持つアリスに配膳するお盆には箸の他に蓮華を置いておいた。
「あ、やっときた! 遅いぞ、氏実!」
クレアは足を伸ばして座っていた。何で他人の家でそんなにくつろげるんだ。そうじゃなくても女性がそんなはしたない格好を人前ですべきではないだろう。今も静かに正座しているアリスを見習うべきだ。
俺は座卓を二人の前に用意し、お盆をクレアの前に置いた。美雪さんは一つを自分が座る場所に置き、もう一つを両手でアリスの前に置いた。
「いただきます」
美雪さんは手を合わせ、目をつぶって言った。クレアとアリスは配膳されたと同時に蓮華を手に持ったが、すぐに戻して美雪さんの真似をした。もしかして西洋では食前に挨拶をする習慣がないのだろうか。
「いただきます、氏実くん」
「どうぞ」
美雪さんがまず味噌汁を一口すする。クレアとアリスもそれに倣い、蓮華で味噌汁を掬って飲んだ。
「んー、おいしい!」
クレアが嬉しそうに言った。表情からお世辞ではなさそうだ。
「素材がいいからな」
うちにある食材はどれも日本の各名産地から取り寄せた高級なものである。味噌も京都から取り寄せた特注品なのである。
「いえ、氏実くんの調理もすごく巧かったですよ。味噌汁はその人の腕前が出ますからね」
今度は美雪さんが褒めてくれた。
「でも氏実くん、料理しているのとか初めて見ましたけど、何でそんなに上手なのですか?」
「まあ、これでも食品を扱う今川組の御曹司ですからね。それに毎日やることもないので、勝手に台所に忍び込んで練習をしていたんですよ。近いですし」
「そうだったのですか。すごいですね、氏実くん。本当においしいです!」
「うん、これ本当においしいよ! すぐ完食しちゃいそう! アリス、どう?」
「おいしい」
うむ、料理を褒められたのは初めてだ。なんだか照れくさい。
「ああ、ありがとう」
俺はそっぽを向いて感謝の言葉を言った。
クレアの言った通り、三人はすぐに完食した。アリスは二人よりも少しだけ時間がかかったが。おいしいおいしいと言いながら米一粒も残さずに完食してくれたので、こちらとしても清々しい気分である。ごちそうさま、という言葉があそこまで嬉しいとは思わなかった。
現在は食事の片付けを終え、また四人で俺の部屋に集まっている。
「いやあ、まさか氏実があんなに料理が巧いとは、これならいつでもお嫁さんにいけるんじゃない?」
クレアは食後のお茶を飲みながら足を伸ばしてくつろいでいた。だからそういうはしたない格好はやめろよ。
「何で俺が嫁なんだよ」
「氏実くん、お嫁さん……」
美雪さんは正座で姿勢よく湯呑を持ったまま静止していた。
「美雪さん、本気にしないでください」
「でも氏実くん、白無垢似合いそうじゃないですか?」
「何を言っているんですか、美雪さん……?」
「あ、いえ、すいません。ですがあれだけのご馳走が作れれば未来のお婿さん……いや失礼、お嫁さんは幸せだと思いますよ」
「今お婿さんっていいましたね。俺はお嫁さんにはなりませんよ。て、あれ? ご馳走?」
俺はご馳走という言葉で、あることを思い出した。クレアたちに目線を向ける。
「そういえばお前ら、ご馳走出したら帰るんじゃないのか? 『とりっくおあとりーと』、だっけ?」
「……あ!」
クレアはまた素っ頓狂な声を上げた。
「そ、それはそうだけど、今は状況が違うから帰ろうにも帰れないんだって!」
「帰れないって、何があったのですか?」
美雪さんは心配そうな声でクレアに尋ねた。
「うん。魔界と人間界をつなぐ扉は十月三十一日しか開いてないから、翌日になってしまった今、私たちは家に帰ることができなくなっちゃったの……」
クレアはまた肩を落とした。
「それは災難でしたね……」
美雪さんはそう言った後、俺に顔を向けた。
「氏実くん、もしよろしければ、しばらくここに置いてあげてもいいのでは?」
「駄目ですよ。帰れないのは俺も災難だと思いますけど、もしお父様に見つかったら大変なことになります」
「まあ、確かにそうですね……」
美雪さんは小さく溜息を吐いた。俺だって別に鬼ではないのだから、しばらく泊めてやってもいいとは思うのだが、やはり一番の問題は親父なのである。
「では、会長には見つからないように、私の部屋に泊めましょう」
「いや、それは無理だと思います。だってあの部屋、足の踏み場ないでしょ」
美雪さんは親父が自宅で仕事をするので、うちに住み込みで働いている。そのため今川家の一室を分け与えられているのだが、一度だけ美雪さんの部屋をのぞいたときは目を疑った。そこら中に酒瓶や衣類が散乱している光景は地獄絵図だった。
つまり仕事はできるし礼儀作法も完璧にこなせる才女でありながら、私生活が非常にだらしないのである。二十八歳で独身なのはこれが理由ではないだろうか。
「そ、それじゃあ私が片付けのできない女みたいじゃないですか! 人ひとり寝る場所くらい確保できます!」
「いや、一人じゃ駄目ですからね」
最低でも三人分は必要である。というか寝る場所だけあればいいという問題ではない。
「じゃあ、氏実の部屋じゃ駄目かな?」
クレアは正座を崩し、しきりに膝をさすりながら涙目で言った。
「駄目だろ。それは」
「何で?」
「何で、ってお前、確かにお父様が俺の部屋に来ることはないだろうが、夫婦でもない男女が同じ部屋に泊まるなど……」
「うわあ、すっごいウブ」
「う、初心って、大事なことだろ! じゃあ何だ!? 西洋では夫婦でも兄妹でもない男女が一緒の部屋に住むのは普通なのか!?」
不純異性交遊ここに極まれりだな。やはり外国は怖いところだ。
「そうですよ! 絶対駄目です! 若い男女が一つ屋根の下で共同生活など、言語道断です!」
俺に続いて美雪さんも反対した。美雪さんが反対するということは、やはり普通なことではないのだろう。
「私たち本当に来年まで住むところもないの! 氏実に迷惑をかけたりしないから、ここに泊めてください!」
クレアはまた正座をただし、小さくだが頭を下げた。そして切実そうな表情で俺を見上げる。その表情はいじらしく、しおらしく、一瞬だけ美しいと感じた。そしてそんな乙女の切実な願いを一蹴することを、俺の良心は許さなかった。
俺は一度ため息を吐いてから口を開く。
「本当に迷惑かけるなよ……」
「え、それってつまり……」
クレアは不安そうな顔をのぞき込ませた。
「しばらくは泊めてやる」
「ほんと!? やった!」
クレアはその場で飛び上がり、隣で正座したまま動かないアリスの頭に抱き付いた。
「い、いいのですか、氏実くん!?」
「仕方ないですよ。放っておくわけにもいきませんし。まあ、お父様に初めて反抗することになってしまいますが」
俺はアリスに抱き付いて、一人ではしゃぐクレアを眺めながら言った。
「そういえばこの部屋ってテレビとかないの? それかゲーム」
「おいおい、さっきまでの切実な表情はどうした?」
「ああ、あれ? あの変な座り方ってすごく足が痛くなるんだね。思わず泣きそうになっちゃった。ていうかアリスは何でずっとその座り方できるの?」
「なっ、そんなことだったのか!?」
一瞬だけでも美しいと思ったのは気のせいだったのか!?
「それよりテレビどこ?」
「それが居候の取る態度か! 普通はもっと謙虚にするものだろ!」
「ここに泊まるなら何かしら暇つぶしできるものが必要でしょ! テレビどこ!」
「そんなものはない! そっちの棚に和歌集とかたくさん入っているから、それでも読んでいろ!」
「何、和歌って。うわ、字ばっか。しかも筆文字って」
こいつらは騒がしい。お淑やかでしおらしい大和撫子とは正反対だ。非常識で世間知らずだし、こいつらと同じ部屋にいれば、きっと時間も早くすぎてしまうだろう。
これは、しばらく料理の練習はできないかもしれないな。
俺はクレアと漫才のような会話をしながら、そんな忙しい未来を予想した。