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母と僕

祈り

作者: 一一零

 季節は師走を迎え初雪が降った。世間は、クリスマスや年明けに向けて慌ただしく、賑やかになりつつある。

 しかし、僕は楽しいと思える状態にない。


 生まれて初めてかもしれない。

 仏壇を拝んでいるのは……。

 神棚に向かって二礼二拍手一礼したのは……。


 これらをしたのが生まれて初めてなのではなく、心の底から祈り願っていることがだ……。

 父から「神仏は良く拝みなさい」と教え育てられたけれど、僕は余りそれに対して思う事も気にすることもなかった。


 父は毎日、朝必ずお仏様のお茶を変え、手を合わせ祈っている。僕も幼い頃は、朝父の隣で拝んでいたものだけれど、中学生になった辺りから、やらなくなっていき、今では全くのご無沙汰をしている。

 特にこれと言って理由はないが、敢えて理由をつけるとするならば、面倒だったからに他ならない。

 

 そんな僕に対して、父は特に何も言わなかったし、僕も言われたからといって、それに従うほど素直な人間でもなかった。だから、父もそんな息子だから言わなかったんだと思う。

 いや、もしかすると、父も一々言うのが面倒だったのかもしれないし、自分は自分、息子は息子と割り切っていたのかもしれない。

 何せ、うちは五人家族だが、これを日課しているのは父だけだった。母は、気が向いた時だけといった感じだし、姉も弟も全くやらない。


 だから、僕をよく知る家族が今の僕を見たら、不思議に思うだろうか?

 いや、思わないだろう……。


 今の状況にあっては、きっと、姉も弟も同じように祈るかもしれない。


 今日の朝、僕は父と母を送り、家に帰ってきてネットをしたり、本を読んでみたり、テレビを見たりした。

 普通の事だが、今日の僕は違う。何故なら後に来るかもしれない恐ろしい話を考えないために、現実逃避を図っていたからだ。

 しかし、心ここに非ずとでも言うか、何をしていても全く頭に入って来ない。

 取るもの手につかず、心は不安に煽られて、どうしてもそれ以外の事が考えられなかった。


 だから、その来るかもしれない恐ろしい現実と僕は真っ向から向き合う準備とでもいうのか、仏壇に神棚に祈りを捧げている。

 そして、最も良い方向になるようにお願いをしている。


 神仏から言わせれば、困った時の何とやらと呆れているかもしれない。

 しかし、僕にはどうすることも出来ないのだ。

 ただ、今は祈るしかない。僕に出来る事はそれしかない。


 もしかしたら、父と共に毎日祈っていれば違かったのだろうか?

 今更それを言っても仕方がない。過去を変える事は出来ないのだから……。


 うちの家族は皆、痩せ型だけれど、その中でも母は特に痩せている。母は小食で、いつも僕の半分も食べない。僕も世間一般の成人男性に比べれば食べない方だから、母がどれだけ小食かは想像がつくと思う。

 母は、僕が幼い頃に胃癌を患い、手術で胃の三分の二を取ってしまったためだと、聞いている。

 だから、食べたくても食べられないのだそうだ。


 そんな母だけれど、外食が好きだ。特にスパゲッティが好きなようで、洋食が苦手な父とでは食べに行けないからと、僕や弟を誘ってはよく食べに行く。けれど、僕はその度に嫌ことが一つあった。


 母は、外食した時、自分が食べられない分を、僕に食べろとよこすのだ。僕だって小食な方だし、中には嫌いなものだってある。

 けれど、母は自分が残したように見られるのが嫌なようで、毎度こちらが食べるとも何とも言っていないのに、強引によこすのだ。

 「食べる?」と、最初に聞いて来る。いつもの事だが「いや、いい」と答えると「美味しいよ」と言う。

 そして、勝手に取り皿に分けると僕の前に押してよこす。しかも、それが半分以上の事が多いのだ。

 要するに自分の分と合わせて、いつも大盛りを食べる事になる。

 

 それに対して、僕が一言二言不平を述べると、母は怒るのだ。

 「お前が食べたいと思うから私はあげたんだ」と……。


 僕は、次第に仕方がないんだと自分に言い聞かせるように、母のその言動行動に諦めを覚えていた。


 そんな外食好きの母と、前はひと月に二、三回以上は行っていた。

 しかし、僕が母と外食したのは、半年くらい前を境になくなった。

 母が言い出さなくなった事もだが、それ以前に家ですらご飯をほとんど食べなくなってしまったのだ。

 いくら小食とは言っても、余りにも食べない。

 しかし、これは半年前から急に食べなくなったわけではなかった。


 一昨年くらいだろうか、ある日僕は両親と寿司を食べに行った。

 そして、母が会計をしている間に、父と車に戻って、どのネタが一番美味しかったかなど、他愛もない話をしていると、店先から出てきた母が、突然走り出した。

 そして、僕たちが乗る車の前まで来ると、中には入らず外で足踏みをしながら発声し始めた。


 「あっ! ああっ! あっあっあっ!!!」


 その母の奇行に僕は驚いた。そして、周りの目が気になってとても恥ずかしかった。一体何をしているんだろうと、やがて車に乗った母に質問した。

 母は「ちょっと食後の運動」とだけ言った。

 その時は、心から止めてほしいと思うだけだった。


 母の奇行はその後も、外食の度に起きた。人目も気にせずジャンプして叫ぶ。

 僕はある日、耐え切れず「また同じようなことをするなら、もう一緒に外食はしないからね」と、言った。

 母は、僕の言葉を受けて「食後の運動の何が悪いの」と不貞腐れた。

 

 運動が悪いとは言っていない。ただ、人が見ている前で、奇行に見えるような行動をしてほしくないだけだ。運動場でも公園でもない。人が行き交う店の駐車場で、発声練習のような事をしていれば、周りから何をしているのかと見られる。それが、僕には恥ずかしくて嫌だったのだ。


 しかし、母が何故そのようなことをしていたのか、その時の僕には気づくことが出来なかった。


 母は、その後一緒に暮らす僕たちの目にもわかるように、見る見るやせ細っていったのだ。

 元々、痩せていたにも関わらず、頬骨がくっきりと出て、目も飛び出したかのようになった。今では骨と皮しかないよう思える。


 一年前くらいから、母は食事が喉を通らないんだと言うようになった。


 僕は、それを聞いた時に、ようやく母の身体に異変がある事に気づいた。

 直ぐにでも医者に行くように言った。

 父も言った。


 けれど、母は頑として医者に行かないと言い張る。

 僕と父は、何度も何度も説得した。

 何かあってからでは遅いんだと……。


 結局、母は今日に至るまで病院に行ってはくれなかった。

 

 母はある宗教に没頭していた時期がある。

 そのせいも強かったからなのかもしれない。


 「人には無限の力が秘められている。心が正しければ病にかかる事はない。肉体は現世での入れ物に過ぎず、魂は永遠」と、まあ、こんな感じの教えである。


 僕はこの宗教に対して、特に悪いと思った事はない。

 ただ、母は僕たち家族の意見や心配より、宗教の教えを優先させたのだった。


 だから、僕は一計を案じた。

 その宗教の人に、母に病院に行くよう言ってくれと頼んだのである。

 

 元々、その宗教は、病院を否定していなかった。そして、皆優しい人たちである。

 僕の申し出を快く引き受けてくれたAさんは、母に僕がお願いしたことをそのままに伝えてくれた。


 すると母は、急に病院に行くと言い出したのだった。


 僕は心の中で、少し悔しい気持ちになった。

 僕たち家族の言葉よりも宗教の言葉を信じているのだと……。

 そして、寂しくも思った。

 僕たちが、どれだけ心配しているのかが伝わらないのかと……。


 それでも、病院に行ってくれることになって、少しほっとしていた。


 しかし、いざ病院に行くとなると、母は結局何かしらに理由を付けては先延ばしにし始めた。

 僕は、居てもたってもいられなくなった。


 「父さん! 母さんを縛ってでも連れていくべきだよ」


 けれど、父は言う。


 「それをして、母さんを無理やり連れて行っても、病院に入ろうとしないだろう? 本人に受診する気がないのだから、受付に引っ張って行ったって、他の人たちに迷惑がかかるだけだ。それに、逃げ出すかもしれない。俺達に出来る事は、根気強く母さんを説得することだけだよ」


 僕は、心が締め付けられるほど、苦しくて苦しくて仕方がなかった。


 一刻も早く病院に行くべきなのに、何故なんだと。父さんは、そう言うけれど、手遅れになったらどうするのかと……。


 けれど、父の言ってることは正しいのかもしれない。

 その人の気持ちを無視して、半ば乱暴なことをしてまで連れていくというのは、正しいやり方ではないと理解できるからだ。

 人権などと言う気はない。けれど、母が嫌だと言ってる以上は、父の言う通り根気強く説得するほかないのだ。


 何度も何度も繰り返し、病院に行くよう言った。

 その度に、母は不機嫌になった。

 けれど、こちらとしては、母の機嫌よりも身体が心配で仕方がない。

 

 日々衰弱していく母の様子を見ている僕の気持ちは言葉で伝えるのは難しい……。 


 「母さん。死にたいの?」

 「そんなに死んでほしいのか?」

 「どうしてそうなるの? 死んでほしくないから病院に行ってと言ってるの」

 「医者が何してくれるって言うんだ。行って病気だと宣言されて嫌な気持ちになるだけだ」

 「誰だって、病気だと言われることを良いと思う人はいないよ。それでも、皆治すために病院に行くんだよ」

 「お前は何も分かってない。命ってのは無限なんだ。肉体は言わば借りものなの。わかるか?」

 「その教えはよくわかったよ。けれど、その借りものを蔑ろにするのはどうかなって思うよ」

 「蔑ろになんてしてない。ただ、その時が来たらさよならするだけだろ」

 「それは、そうかもしれないけれど、最後の最後まで気を使ってあげてもいいじゃない?」

 「もうっ! お前はうるさいんだよっ!」


 こんなやり取りを、幾度となく繰り返した。

 この一年。僕は母と同じように食がさらに細くなった。

 母に、今のあなたはこんな感じだと見せつけようとしたからではない。

 ただ、母を見ていると心配で食事が喉を通らなかったのだ。

 

 先月の末頃。僕は、これが最後だと決心した。これで駄目なら、後はただ見守ろうと。

 母が苦しいと言うなら背中をさすり、足が痛いと言うなら揉んであげよう。

 ただただ、母の望むようにしてあげよう。

 だから、その前に僕の気持ちを伝える。そんな思いで朝起きてきた母に正面から自分の気持ちをぶつけた。

 

 「母さん。お願いだから病院に行ってください。僕の為に、家族の為に病院に行ってください」

 「あんた、心配し過ぎなんだよ」

 「心配になるのは当たり前だよ。母さんが見るからにやせ細っていってるんだから。これ以上、家族に心配かけないでよ」

 「お前が勝手に心配してるだけだろ」

 「勝手にって、おかしな言い分だよ」

 「どうせ心配したいだけなんだろ」

 「心配したいだけって……。心配ってのはしようと思ってするものじゃないでしょ?」

 「うるさいな。お前はそんなに私を病気にしたいのか?」

 「なんでそうなるのさ? 誰が母親を病気にしたい息子がいるんだよ!」


 僕はついつい声を張り上げてしまった。お願いし説得するつもりで臨んだのに、母に対して心の中にあった、ある意味怒りにも似た感情が表に出てきてしまったのだ。


 しかし、こうなると逆効果だ。母は、僕の態度に比例するように怒り出した。

 

 「人を病気にさせて何が楽しいんだ? そんなに早く死んでほしいのか? 病院病院って、病院に行けば何だっていうんだ。病院に行けば治るのか?」

 「少なくても、今の状態よりは良いと思う……」

 「なら、お前が信用できる医者を見つけて来いよ!」


 駄目だと思った。ただ、素直に母に気持ちを打ち明けて、頭を下げて病院に行くようお願いしようと思っていたのに、怒らせてしまった。


 母は、こうなると全く話を聞かなくなってしまう。生来頑固というか、意地っ張りというか、自分の信じること以外は、他者の意見を受け入れない。


 まるで一昔前の頑固一徹な職人の様だ。


 対面する僕と母の間で父はただ黙っていた。

 父に目を移しても、父は何も言ってくれない。

 わかっているからだ。

 こうなってしまっては、何を言っても無理なことは。

 

 辛そうにしている母を見たくなかった。だから、早く治してほしかった。ただ、その気持ちだけだったのに……。母がどういう性格か分かっているのに……。


 僕は後悔した。

 これが最後と思って臨んだのに、必死な思いを伝える前に、失敗してしまった。

 何故喧嘩腰になるような言い方をしてしまったんだろう……。


 僕の言葉は母には届かないのかと思うと、急に涙が出始めた。

 一粒一粒零れ落ちた。


 母は、そんな僕を見て驚いていた。

 僕からしても泣くつもりなどなかった。

 ただ、わかってほしかった。

 それが伝わらない事が悔しくて、寂しくて仕方なかった。

 そんな気持ちが、僕に涙を流させた。

 大人になってから、初めてだと思う。母の前で本当の涙を見せたのは……。

 母は、しばし僕の顔を眺めていた。

 

 やがて、一言「わかった」と言った。


 

 さすがの母も折れてくれたようだ。

 僕は泣きながら「ありがとう」と言った。


 師走に入った上旬。病院に行く日を決めた。

 

 そして、今日、僕は母と付き添う父を病院に送り届けて、祈っている。

 心の底から祈っている。

 

 母はきっと大したことはない……。

 

 大丈夫……大丈夫……。


 神様、仏様。どうか、母が何でもありませんように……。



 ひたすら祈っていると携帯のメ―ル音が鳴った。

 僕の心臓は飛び跳ねた。

 携帯を手に取るが、中々開けない。


 お茶を一口多めに飲み。

 他にしなきゃいけない事はなかったかなどと考える。


 そんな無駄なあがきをしながら、しばし右往左往とした。


 ようやく決心をつけてメ―ルを見る。



 僕の時は止まっていた。

 どれほどの時間、呆然としていたのだろう……。


 そして、気が付いた時には涙が溢れて止まらなかった。


 これからどうすればいいんだ!

 母に会ったらどんな顔をすればいい?

 やっぱり一年前の時に無理やりでも連れていくべきだったんだ!

 何で! 何でもっと早く気付いてあげられなかったんだ!!

 くそっ! くそくそくそぉおお!!


 

 僕はそこらのものに当たり散らしたい衝動を、懸命に抑えている。

 それをしても仕方がないからではない。

 父が、今現在母と共に病院に居る。

 そんな父が、今の僕よりもどれだけ辛く苦しい気持ちでいるかを考えたからだ。


 何もない顔で、母に接しているであろう父を思えば、僕がここで暴れて気持ちを発散することなどできはしない。


 僕は、発狂しそうになるのを懸命に抑えて、意識をしっかり持つんだと言い聞かせた。


 この後、迎えに行けば母に会うのだ。

 笑顔で何もない振りをしなければならないんだ。


 寒々とした外とは違い、家は暖かいはずなのに……。


 僕の身体は冷え冷えとして、手先は震えている。

 スト―ブの前に座っても、何故か温かさを感じない。


 僕は、昔の事を思い出す。

 喧嘩ばかりしてきたけれど、それも母との掛け替えのないの思い出……。

 僕は、その思い出を一つ一つ噛み締めるように止まらぬ涙を流しいてる。

 また、仏壇の前に来て座り、手を合わせて祈る。

 それしか、僕に出来る事はない……。


 そして――


 またメ―ルの音が鳴った。

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