ひとり、この夜3
それから二、三日して、圭吾さんは分家の巧さんと研究所の視察に出かけた。
お昼過ぎに出かけたって聞いていたのに、夜の八時になっても帰って来ない。
「圭吾さん、遅いなぁ……」
何度も時計を見ていると、伯母様が『いつもと反対ね』と、言った。
「いつもは、圭吾が家中歩き回って『志鶴の帰りが遅い』ってぼやいているのに」
そうなの?
圭吾さんは、そんな素振りをわたしには見せたことがない。
「志鶴ちゃんは、今までずっと一人暮らしのようなものだったから、あまり束縛したくないのでしょうね」
そっか…… 今度寄り道する時は、絶対連絡入れよう。
ん? 誰か玄関に行った?
「帰って来たっ!」
わたしは、バタバタと廊下を走って玄関まで行った。
「騒々しいですよ、志鶴様」
玄関で出迎えていた和子さんにお小言を言われたけど、わたしは圭吾さんに飛びついた。
「お帰りなさい!」
「ああ、ただいま」
圭吾さんがわたしをギュッと抱きしめた。
「いつもこんな熱いお出迎えなのか? うらやましいね」
圭吾さんの肩越しに見ると、巧さんが冷やかすように笑っていた。
うわっ! 見られた? 恥ずかしい。
「こんばんは、巧さん」
わたしは挨拶をしてから、圭吾さんの肩に顔を隠した。
「巧、晩飯食っていくか?」
圭吾さんが巧さんに尋ねた。
「お言葉に甘えて、ご馳走になろうかな。いささか腹が減ったよ」
「すぐにご用意いたします」
和子さんが言った。
「志鶴様、こちらへおいで下さいまし。お話の邪魔ですよ」
う……せっかく帰って来たのにぃ。
「大した話じゃないからいいよ。一緒においで」
圭吾さんが言った。
「和子ばあや、志鶴にアイスクリームでも出してやってくれ」
『すぐに甘やかされるんですから』と和子さんがぶつぶつ言った。
圭吾さんは、巧さんを連れて客間にしている和室に入って行った。
わたしもすぐ後ろから入って、お座布団をすすめ、二人の上着を受け取ってハンガーにかけた。
「すっかり奥様だね」
巧さんが言う。
「ばあやがしっかり躾けているようだからね。でも、まだまだ幼くて――ほら志鶴、むくれていないで座りなさい」
子供っぽいって言われたくらいで、むくれたりしないわよ――まぁ、ちょっとはムッとしたかな。
わたしが素直に圭吾さんの横に座ると、巧さんはうなった。
「どうやったら、こんな従順になるわけ?」
「可愛がって、大切にすればいいんじゃないか?」
「俺はダメだ。近寄らせてももらえない」
それって美幸のこと? そう思ったけど黙っていた。
「まあ、気長にやるんだね」
圭吾さんは同情するように言った。
「ところで、お前、今日のあの場所をどう思った?」
「見学させてもらった場所はごく普通のバイオ研究所だね。怪しいのは、ほら気圧調整ルームの向こうさ。一見、行き止まりのようだったけど、外から見た時はもっと建物に奥行きがある」
巧さんの言葉に圭吾さんがうなずく。
「ドアロックの解除はできそうだったな」
「無理にやれば警報がなるぞ。データ解析用のソフトは忍び込ませてきたから、あとはうちの悟にやらせよう」
「気が進まないがね」
圭吾さんは顔をしかめた。
「ああ。だが必要だろ? 圭吾だって、線を引いたじゃないか。侵入する事を考えてたんじゃないのか?」
「考えたよ。最終的には僕が決定を下さなければならない事も分かっている」
圭吾さんは何かを迷っている。
部屋の外から声がした。
襖を開けて、住み込みのお手伝いさんが顔を出した。
わたしが配膳のお手伝いをしようとすると、圭吾さんまで立ち上がりかけた。
「圭吾さんは座っていて」
わたしは思わずきつく言った。
「これくらいできる」
巧さんが『ふうん』と、言った。
「お姫様と思いきや、意外に手際いいね」
「志鶴はたいていのことは一人でこなすよ」
圭吾さんはそう言った。でも、何だかとても嫌そう。
「『幼い』なんて言って、本当は圭吾が幼いままにしておきたいんじゃないのか?」
「痛いところ突くなよ」
圭吾さんが苦笑いを浮かべた。
お手伝いさんは最後に、フルーツを添えて綺麗に盛りつけたアイスクリームのお皿を置いた。
「和子さんが志鶴様にと」
キャー 嬉しい! チョコレートソースかかってる!
「結局、うちは全員、志鶴に甘いんだよな」
それでも一番過保護なのは、圭吾さんに変わりないわ。
圭吾さんと巧さんがお箸をつけ始めたので、わたしもスプーンですくってアイスクリームを一口食べた。
うーん、おいしいっ!
「志鶴はどう思う?」
圭吾さんがいきなり言った。
「誰かが、長い年月をかけて研究した成果をぶち壊す事を」
「内容にもよるんじゃない? 細菌兵器とかの研究なら積極的にぶち壊してもらいたいわ」
「ただ、英知の限界を探究しただけだったら?」
「美月の龍の事を言っているの?」
圭吾さんはうなずいた。
「あれは、たぶんキメラだ」
「カメラ?」
「キメラだよ。一つの細胞に異なった遺伝子を組み込まれて生まれた命だ」
「それが何かの役に立つの?」
「今は何も。ただ、いつかはその技術を使って新しい世界が開けるかも知れない」
わたしはアイスクリームをもう一口食べた。
圭吾さんが迷っているのはこれ? だったら、わたしが決めてあげる。わたしのわがままにしてしまえばいい。
「生命を犠牲にして?」
わたしは挑むように圭吾さんを見た。
「人間以外の生命なら軽く扱っていいというのは納得できない。ぶち壊して」
巧さんが小さく拍手をした。
「姫君の裁定が下りたぞ、圭吾」
圭吾さんはため息をついた。
「お望みのままに。たぶん僕の気を楽にするのが一番の目的なんだろうが」
見え見えだったか。




