呪縛3
アロマキャンドルの甘ったるい匂いがした。むせ返るような、ローズ系の匂いだ。
「これはまた悪趣味だな」
圭吾さんが言った。
黒い暗幕で壁も窓も覆われた暗い部屋を、燭台のロウソクの火がユラユラと照らし出していた。
つやつやと赤みがかった色の木のフローリングも、灯を受けて光っている。部屋の奥の、黒い布で覆われた細長いテーブルには、深紅のバラ。
そして、
彼女がいた。
黒いレースのワンピースを身にまとい、婉然と微笑んで背もたれの高い椅子に腰掛けている。
あの日と全然違う顔。でも、あの人に間違いない。
「ようこそ。長いこと待っていたのよ、志鶴ちゃん」
この声だ。
「その男の手を離して、こちらへいらっしゃい」
圭吾さんの指に力がこもる。
「心を強く持って」
圭吾さんが言う。
「無駄よ」
彼女が嘲笑うように言う。
「その娘が、何年間わたくしの呪縛の中にいると思うの? 昨日今日愛をささやいた程度の男に、その呪詛が解けるとでも?」
「それなら、なぜ、今まで何年も志鶴を手に入れなかった?」
「お前には関係ないわ――さあ志鶴、こちらへいらっしゃい。隠れるのよ。人は怖いでしょう?」
怖い? うん、怖い。みんな、優しい顔で嘘をつく。
わたしは、圭吾さんの手を振り払おうとした。
「志鶴、君は誰のものだ?」
圭吾さんが、手を握りながら言う。
わたしは、誰のものでもない。
「僕を好きだと言っただろう?」
「だまされないで! その男は、お前を愛してなどいない。お前の魂が持つ光が欲しいだけ」
彼女の言葉が、耳に、頭に、響き渡る。
「ねえ、見たのよね? その娘の輝く魂を。あれだけの力を持ちながら、その娘は何の能力も持っていないのよ。なんてもったいない!」
「僕は、志鶴の心の中に入れてほしいだけだ」
「きれい事を! その男の言葉は嘘よ。誰もお前を愛したりしない。お前は邪魔な子よ。ひとりぼっちなのよ」
そうなの?
もう何も分からない。幼い日々がフラッシュバックする。
ママが逝ってしまった後の孤独な日々と、彼女が毎日耳元でささやく、優しく甘い、毒を含んだ言葉。
そして、あの日。彼女がわたしを手に入れようとしたあの日――
わたしは悲鳴をあげた。
嫌だ 嫌だ 嫌だ
誰かがわたしを抱きしめる。その手を逃れようと暴れた。
「志鶴! 暴れないで、僕だ。圭吾だ」
圭吾……さん?
「ハクが死んだの。わたしの代わりに死んだの」
泣きながら言い続けた。
「ママのトカゲなのに、死なせてしまったの。雷が落ちたの」
「思い出したのかしら?」
甘く邪悪な声がささやく。
「そうよ。お前のせいで死んだのよ」
「違う」
圭吾さんがきっぱりと言った。
「龍は自ら君のために戦ったんだ。お母さんから託された君を守るために」
わたしは、圭吾さんの顔を見上げた。
「彼女の言葉を信じるな。あんなふうになりたいのか?」
圭吾さんが指さす先には虚ろな目をした、老人のような村瀬さんがぼんやりと立っている。
「愛しているよ。僕を信じて」
圭吾さんが請うように言う。
わたしは頷いた。
ええ 信じるわ。
わたしに愛されたいと言った圭吾さんの言葉を。
孤独だったわたしを思って流した圭吾さんの涙を。
胸が痛くなるほど愛してるって言った時の圭吾さんの眼差しを。
あなたが好き。
大好き。
わたしはもう無力な子供じゃない。自分の目で見て、耳で聞いて、心に抱いたものを信じる。
「わたしは圭吾さんのものよ」
圭吾さんが、わたしのものであるように。
ささやくような声しか出なかったけれど、その瞬間、何かが変わった。
絡みつくように頭に響いていた彼女の声が消え、代わりに海の匂いのする風が頭から足まで吹き抜けた。




