課外授業~命の声 2
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
悟くんがわたしに背を向けて、廊下の真ん中で足を踏ん張るように仁王立ちになった。
「どれでもいいから、うちの兄貴に電話して!」
いつも余裕しゃくしゃくな悟くんの声が、切羽詰まっている。
「承知いたしました――さっ、志鶴様」
和子さんは、お婆さんとは思えないくらい強い力でわたしの脇を抱えると、えっちらおっちらと走り出した。
まるで二人三脚みたい……
新しい遊びだと思ったのか、ペロが走ってついて来た。廊下の角を曲がって少し進むと、後ろの方から何かが爆発するような音がした。
「悟くん?!」
大きな声で呼んでみたけれど、何の返事もない。
「和子さん、悟くん怪我したかも」
「分家に電話するのが先でございます。私共ではお手伝いにもなりません」
和子さんの言う通りだ。わたしが無事であること、それが悟くんの助けになる。
泣きたい気持ちを抑えて、わたしは痛む足で歩こうとした
「志鶴? そこにいるのか?」
廊下の遠い先から、ずっと待っていた人の声がして、安心して、わたしは唇を震わせた。
泣いちゃダメ。グズグズ泣いたって、悟くんは助けられない。
「圭吾さん、早く! 悟くんを助けて!」
圭吾さんと、警官の制服を着た要さんが走って来る。圭吾さんが抱え込むようにわたしを抱きしめた。
助けて 助けて 助けて。友達なのよ。悟くんを助けて。
和子さんが素早く状況を説明すると、要さんが悟くんのいた方に走って行った。
わたしは両腕をグイッと伸ばして圭吾さんの体を押しやった。溢れる涙を手の甲で拭う。
「行って。悟くんを――わたしの親友を助けて」
圭吾さんは片手で、髪をクシャクシャにするようにわたしの頭を撫でた。
「ここで待っていなさい」
わたしはコクリと頷いた。
「お前もだ」
圭吾さんは、わたしの足元にいたペロにも言った。ペロは、おとなしく床に伏せた。
待ってる。
要さんの後を追って走る圭吾さんの背中が、角を曲がって見えなくなる。
待ってる。
だから帰って来て。三人で戻って来て。
お願い、龍神様。みんなを守って。わたしから大切な人達を取り上げないで。
「大丈夫ですよ、志鶴様。皆様、お強い方ですから」
「和子さん、わたし、なんにもできない……」
思わず泣言を言うと、和子さんはわたしを抱きしめた。
「戦われる必要はないのです。戦う殿方に力を与え、安らぎを与えるのが羽竜の女のお仕事でございます。皆様が戻られたら、笑顔でお迎え下さいませ」
和子さんのぬくもりは、おばあちゃんを思わせた。
「和子さん、家族はいるの?」
場違いな質問をすると、和子さんはホホホッと笑った。
「妹が二人。この年ですからね、親はもうおりません。結婚は一度しましたけれど、つまらぬ男でしたので三行半をつきつけてやりました」
『みくだりはん』って何?
「離縁状の事ですよ」
キョトンとしているわたしに、和子さんが微笑んだ。
「今で言う……ああそう、離婚届でございます。結局、子供も持てませんで、貴子様と志鶴様のお母様を自分の子供と思ってお育ていたしました」
あ……そっか。ママを亡くして辛かったのは、わたしと親父だけじゃない。貴子伯母様も、和子さんも、同じように悲しんだんだ。
みんな大切な人を失って、それでも生きていく。
生命を繋いで。
思いを繋いで。
愛を繋いで。
ママの命がわたしの中に流れているように、ママから受け継いだ和子さんの愛情もわたしの中にある。
「和子さん、ずっと元気でいてね。わたしの赤ちゃん、抱っこしてもらうんだから」
「それは楽しみな事でございますね」
和子さんは、またホホホッと笑った。
少し気持ちが落ち着いて、みんなを笑顔で迎えようと思っていたら、圭吾さんが足速に戻ってきた。一人で――
「圭吾さん? 悟くんは?」
「出せないんだ――ゴメン、説明している時間がない。君の力を借りたい」
わたしに何が出来るっていうの? 訝しく思いながらも頷く。
「ばあや、懐紙を持っているか?」
和子さんが帯に挟んだ懐紙を差し出した。
「よし。志鶴、僕の首に腕を回して。そう――走るからね。しっかり掴まって」
圭吾さんはわたしを抱き上げると、来た道を戻り始めた。
廊下の角を曲がると、さっきまでわたしがいた場所は様変わりしていた。天井に大きな穴が空いていて、星空が見える。辺りに散在してるのは、屋根の残骸だろうか。
何よりも驚いたのは、廊下のど真ん中にそびえ立つ大きな黒い岩だ。
要さんが、岩の裂け目に両手を突っ込んでいた。
裂け目からは、どろどろした緑色のモノが、溢れ出るように床へと流れている。むせ返るような桜の匂いが鼻をついた。
悟くんは、どこ?
圭吾さんが、わたしをそっと床に下ろす。
「要、どうだ?」
「しぶとい。空気穴を開けるのがやっとだ」
出せないんだ――圭吾さんはそう言っていたよね。嘘でしょ?
「圭吾さん? 悟くんは?」
わたしは恐る恐る訊いた。
「あの中だ」