6時間目~困り事相談 4
「しづ姫、その式、間違ってるよ」
悟くんがシャープペンシルでわたしのノートを指した。
「どこ? どれ? この方程式じゃないの?」
「君がたぶん考えている方程式で合ってるけど、bの二乗が抜けている」
オーマイガッ! 初歩的なミスじゃん!
いつもの事だけれど、圭吾さんの『すぐに帰って来る』っていうのは、あまりあてにならない。結局、彩名さんが悟くんのお家に電話をかけて、悟くんはうちに泊まる事になった。
せっかくだから、母屋の居間で宿題を教えてもらってる。なんてったって、悟くんは特進のAクラスだもん。
「圭吾さん、遅いね」
わたしはノートを書き直しながら言った。
もう夜の十時半だ。彩名さんはアトリエに戻ったし、伯母様ももう休むからとお部屋に行った。
「何を手こずってるんだか」
悟くんが頬杖をつく。
「あの木、本当にもうダメなのかなぁ」
「たぶんね。うちの親父は切った方がいいと考えてたみたいだよ」
「でも、要さんは切らない方がいいと思ったんでしょ?」
「ちょっとちがう。『できることなら切りたくない』って思ったのさ。要兄貴は、生き物の言葉が分かるっていう『聴き耳』の持ち主なんだ」
「うん。前に美幸から聞いた」
「まあ、兄貴の気持ちは分かるよ。僕だって話し声が聞こえたら、切り倒すのはかわいそうだと思うだろう」
悟くんは、ちょっと悲しそうな顔になった。
「圭吾さんにも、生き物の声が聞こえる?」
だから切らない事に決めたの?
「その気になれば。でも、必要がなければ聞かないんじゃないかな。圭吾の場合は当主になってから得た力だから、能力の制御が自在にできる。要兄貴の聴き耳は生れつきで、嫌でも聞こえてくるんだ」
「どんなふうに聞こえるんだろう?」
「僕もそう聞いた事があるよ。鳥は鳥らしく、花は花らしく話すんだって」
悟くんは笑った。
「そう言われても僕にはピンとこなかったけど」
「要さんには当たり前の事なのね」
「きっとね」
わたしは、足元でのんびりと寝そべっているペロを見下ろした。
「ペロは何て話すのかなぁ」
「そいつは単純だから聴き耳じゃなくても分かるよ。ごはん、水、散歩、ボール、撫でて」
わたしはクスクスと笑った。
「うん。それくらいなら、わたしにも分かる」
「僕にはそいつが幸せそうに見えるよ。それでいいんじゃない?」
「そうね」
きっと単純な方が幸せなんだわ。わたしも、ただ黙って圭吾さんに愛されていられれば悩まなくてすむのに……
「ねえ、悟くんは将来どんなお仕事がしたいの?」
「僕?」
悟くんは頬杖を外してニッと笑った。
「ニート」
それ、職業じゃないし。
「あんまり縛られたくないんだよね。なのに親父は、医者だの教師になれって言うのさ。僕が教師だなんて信じられる?」
「向かないかも」
「でしょ? 大学は法学部を受けるつもりだけどね」
「じゃあ弁護士ってこと?」
それなら納得がいく。
「まさか。法の抜け道を知りたいだけさ」
「悟くんって、どこまでが本気なのか分かんない」
「だろうね。僕にも分かんないんだから」
悟くんは苦笑した。
「型にはめられたくない。自由でいたい。それっていけない事?」
「ううん。誰でもそう思ってるよ」
たぶん圭吾さんも。
「でも、みんな望んでも出来ない。生活していかなくちゃならないから」
或いは、責任を果たさなきゃいけないから。
「耳に痛い。うちの親父の説教よりよっぽど効くね」
「それ、叔父様に言わないでね。悟くんに説教してくれって頼まれたくない」
「僕が言わなくても、そのうち頼まれるよ」
悟くんは急に真面目な顔になった。
「みんなが君に頼み事をするようになる」
「わたしがみんなの頼み事を聞けば、圭吾さんの助けになる?」
「もちろん。でも、全部頼まれる必要はないよ。君ができると思った事と、正しいと思った事だけやればいい」
「それなら、わたしにもできるね」
わたしがニッコリと笑うと、悟くんは少し顔を曇らせた。
「どうしたの?」
「いや……後悔しないでくれるといいなと思って」
「後悔しない」
わたしはキッパリと言った。
「正直言って、わたし、羽竜のお仕事がどれくらい大変なのか分かってないとは思う」
それに圭吾さんが本気で怒った時、どれくらい怖いのかも。
「でもね、ここで、羽竜の一員として生きていく。圭吾さんが好きだから。悟くん達、みんなが好きだから」
「参ったな」
悟くんは頭を掻いた。
「今、その言葉で僕を縛ったの分かってる?」
へっ?
「これで僕はこの地から自由になれない。これからもずっと君を補佐していかなきゃ」
「待って。どうして?」
「君が言ったのは、この地に対する一種の誓いだ。僕の名前を口にした事で、僕も一緒に繋がれちゃったんだよ」
「でも……でも、わたしには特別な力はないのよね?」
「うん。だけど、元々言葉には力が宿ってるんだ。大和言葉って、呪術用語から派生してるものが多いからね。悪い言葉は呪いの力を、いい言葉は祝福の力を持ってる。そういう言葉は、誰が使っても少なからず効力がある」
「ゴメン! わたし、どうしたらいいの?」
慌てて謝ると、悟くんは首を横に振った。
「いいんだ。別に嫌じゃない。むしろ、やっとやるべき事が見つかったような、しっくりときた感じだよ」
両手を上げて、大きく伸びをひとつ。
「やっぱり僕たち、前世で双子だった――」
悟くんの言葉が途切れた。
ペロがムクッと起き上がる。
「どうかした?」
「ここの敷地に何か入り込んだみたい」
――って、マジですか?!