6時間目~困り事相談 1
『さっき、変なことがあったの』
わたしは、その一言をどうしても口にできないでいた。
病院から家に帰る途中、いつにも増して圭吾さんは無口で、何か考え事をしているようだった。
病院では圭吾さんの言うことを聞いて、診察室に行くまで車椅子にもちゃんと乗ったし、レントゲンも撮ってもらった。
骨には異常なく、やっぱり捻挫だった。
お医者様がそう言うと、圭吾さんは『よかった』と、肩の力を抜いた。
心配してもらうのは嬉しいことだけど、どこか落ち着かない気持ちにもなる。
お仕事の事、考えてるのかな……
圭吾さんの事だもの、きっと、全部の用事を投げ出してわたしを迎えに来てくれたんだろう。
――優月さんの事を考えてるかもよ?
心の声には耳を塞いだ。
圭吾さんを好きって気持ちは、わたしをどんどん欲張りにさせる。最初はただ、わたしを必要だって言ってくれるだけでよかった。甘えて、抱き留めてくれる腕があれば、それでよかったのに……
わたしは心の中でため息をついて、圭吾さんの邪魔をしないように黙って窓の外を眺めた。
都会と違って人通りは多くない。まだ昼間だから学生の姿も見えない。
歩いているのは、お年寄り、女の人、小さな子供――待って……最初に桜の匂いがして、お婆さんに会ったよね。
バスから降りようとして転んだ時も、桜の匂いがしてた。助け起こしてくれたのは中年の女性だった。
あの時、女の人は、わたしの膝の血をハンカチで押さえてくれたっけ。
綺麗な桜色のハンカチ。ほのかな桜の香り。
そして、今日――
体が震えそうになって、膝の上でギュッと両手を握りしめた。
大丈夫。怖くない。圭吾さんの近くに『あれ』は来ない。だって、家では匂いがしないもの。
しっかりしなきゃ。
羽竜家にいれば、不思議な事が身の回りで起こるのは日常茶飯事なんだから、いちいち怖がっちゃダメ。
「志鶴?」
圭吾さんの声に、わたしは目を上げた。
「家に着いたよ」
「もう?」
圭吾さんはふふっと笑った。
「ぼんやりしてたね。どうした?」
わたしは頑張って笑顔を見せた。
「何かちょっと眠いみたい」
「痛み止めが効いてきたのかな……お昼、食べ損ねただろう? お腹はすいてない?」
わたしは首を横に振った。
「そう? ちょっと待ってて」
圭吾さんはわたしのシートベルトを外した。それから車を降りて、いつものように助手席側に回って来た。
「歩ける? 抱いて行こうか?」
抱っこして――甘えた言葉はグッと飲み込んだ。
「歩ける」
病院で借りた松葉杖をついて、わたしはゆっくりと歩いた。痛みはあるけど、一人で歩けるようだ。
「これなら学校に行けるね」
明るく言うと、圭吾さんは顔をしかめた。
「しばらく車で送り迎えするよ。でも、明日は休みなさい」
「明日の状態見てから決めない?」
「ダメだよ」
仕方ないか。
「分かった。明日は休むね」
わたしがそう言った途端、圭吾さんは足を止めた。
何だろう?
わたしも立ち止まり、圭吾さんを見上げた。圭吾さんがスッと目を逸らした。
「ゴメン。君の言う通りだ。明日の様子を見てから決めよう」
「圭吾さん?」
「行こうか」
「待って! こっちを向いて」
思ったより、きつい口調になった。
圭吾さんはわたしの方を見た。表情は読めない。
「どうして急に考えを変えたの?」
「君こそ、やけに聞き分けがよくなったのは何故?」
「聞いてるのはわたしよ」
圭吾さんはキュッと口元を引き締めた。
「君はさっきから、僕の言う通りにしてる」
その通りだったので、わたしはコクンと頷いた。
「どうして? 僕のどこがいけない?」
へっ? どうしてそういう話になるの?
「いけなくなんかない。圭吾さんが正しいから言う通りにしてるだけ。間違ってたら、そう言うわ」
圭吾さんは疑わしげにわたしを見た。
「本当に? 病院で受付するまではそうじゃなかったよね?」
「あの後、あんまり子供っぽい態度だったから反省したの」
「反省なんてしなくていいよ」
圭吾さんは不満そうに言った。
「やっと心を開いてくれるようになったと思ってたのに」
えーと……
「圭吾さんだって、さっきは困ってたでしょ?」
「うん。でも君は普段、誰に対してもあんな態度はとらない。僕が相手だからごねたんだ」
「たぶんそうね――えっ?! じゃあ圭吾さんは、わたしがぐずった方がいいの?」
呆れた事に、圭吾さんはニッコリと笑った。
「だって、僕に気を許してるって事だろ? 頼むから普通にしてて。僕は、また何かをやらかしたのかと気が気じゃなかった」
「ホント、変な人!」
わたしはブツブツ言いながら、また歩き出した。圭吾さんがゆっくりと後をついて来る。
「せっかく大人らしくしようと頑張ったのに、損した」
「僕は子供っぽい君が好きだよ」
それなら、優月さんのどこが好きだったのよ。間違っても子供っぽくないじゃない。
「どうせ、わたしは『お子様』よ!」
ムッとして言い返すと、後ろで圭吾さんがクスクス笑っているのが分かった。わたしは足を止めて、肩越しに後ろを見た。
こうなりゃ自棄よ。
「圭吾さん、やっぱり抱っこして!」
「了解、お姫様」
うわっ! 待って、松葉杖!
「後で取りに来るから放っておけばいい」
圭吾さんはそう言うと、わたしを抱いてスタスタと玄関へと向かった。
「いつかきっと、ステキな大人の女性になるんだから」
わたしは、圭吾さんの肩に向かって呟いた。
「分かってる。だから僕は、こうして君を捕まえてるんだよ」
圭吾さんは、笑いを含んだ声で言った。
「ステキな大人の女性になった時に、誰にも君を盗られないようにね」
「そう? 分かってるなら、子供扱いしても許してあげる」
おもいっきり生意気に言ってみたけれど、圭吾さんはただ微笑むだけだった。




