4時間目~恋の教科書 1
痛っ! あ痛たたた。
「また派手に擦りむいたわね」
彩名さんが、わたしの膝を確認しながら言った。
「どこでやったの?」
「バスから降りる時に。ステップを踏み外したみたいで、歩道に転がり落ちたの。近くにいた人がすぐに助け起こしてくれたけど、すっごく恥ずかしかった」
「危ないわね。気をつけなきゃダメよ。じゃあ、手の平も見せて」
手の方は赤くなっている程度だったけど、彩名さんは顔をしかめた。
「消毒するより、傷口を洗った方がいいわ」
「洗うんですか?」
「流水をかけて傷口についてる土を落とすのよ。いらっしゃい」
彩名さんは浴室でわたしの膝を洗ってくれた。
うっ うぎゃー
そっと洗ってもらったけど、思いの外痛い。
「圭吾さんがいなくてよかった」
わたしは涙目で言った。
圭吾さんは神社の寄り合いで外出中だ。
「どちらにしろ、帰って来たら大騒ぎしてよ」
「気がつかないかも」
「そんな訳ないでしょう?」
彩名さんは笑った。
そうだよね……
浴室から出ると、彩名さんは膝にガーゼをあてて上からテープを貼った。傷にくっつかないガーゼとかで、剥がす時に痛くないらしい。
「ガーゼとか、大袈裟じゃありません? すごい怪我みたい」
「この方がいいのよ。傷口を見たら、あの子、卒倒しかねないわ」
そう?
「圭吾さんって、血がダメなタイプ?」
「いいえ、人の傷口に塩を擦り込むタイプよ。圭吾にとって、志鶴ちゃんは宝物なの。大事な大事な宝物――はい、いいわよ」
「ありがとう、彩名さん」
「どういたしまして」
「少し丈の長いお召し物の方がようございますね」
和子さんがそう言って、膝下丈のサンドレスとカーディガンを持って来てくれた。
みんな、気にしすぎだよ。ただの擦り傷じゃん。
そう高をくくっていた――圭吾さんが帰って来るまでは。
十時頃に帰って来た圭吾さんは、わたしの顔を見るなり、『怪我したって? どこ?』と訊いた。
「お帰りなさい」
母屋の居間でペロと遊んでいたわたしは、のんびりと言った。
「あ? ああ……ただいま」
「怪我って言っても転んで膝を擦りむいただけよ」
「どれ」
ちょっと! いきなりスカートの裾、めくらないでよ!
圭吾さんは、ガーゼに覆われた膝を見て顔をしかめた。
「痛い?」
「もう痛くないよ」
膝をつかなきゃね。
その後、圭吾さんは私を質問責めにした。どこでやった、何があった、どんな手当てをしてもらった……エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ
もう! しつこい!
「いい加減になさい。志鶴ちゃんが飽き飽きしているじゃない」
見兼ねた伯母様が圭吾さんをたしなめた。
「ああ……ゴメン。つい」
圭吾さんはため息をついて、わたしの足元の床に座った。
「今日は遅かったのね」
彩名さんが小さなコーヒーカップを圭吾さんに手渡して言った。
コーヒーなんて飲んだら眠れなくならない?
「桜で揉めてね」
「桜?」
「松子さんの所の一本桜」
「ああ。子供の頃よくあそこでお花見をしたわね」
「ここ数年花のつきが悪くて、今年は一つも蕾がついていない。専門家に見てもらったら、もうダメらしい」
圭吾さんはコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。
「僕は切るべきだと思う。ほぼ立ち枯れの状態では物理的にも危険だし、良からぬモノが巣くいやすい」
「あなたがそう言えば、それで決まりでしょ?」
「珍しく要が渋って、言えなかった」
「言わなかったの?」
彩名さんが驚いたように言った。
「正確には『もう一年待とう』と言ってしまった」
圭吾さんはわたしの脚に頭を預けて、ポツリと言った。
「僕は間違っただろうか?」
圭吾さんは疲れていた。責任という名の重圧に押し潰されそうに見えた。
わたしは圭吾さんの髪に指を滑らせた。
圭吾さんが気持ちよさそうに、目を閉じてため息をつく。
「正解なんてあるの? 数学の問題みたいに?」
わたしがそう言うと、圭吾さんは目を閉じたまま、乾いた笑い声をたてた。
「そんなモノがあるなら、知りたいね」
「じゃあ、間違ってるかどうかなんて分かんないじゃない」
「そうだね」
圭吾さんはムクッと起き上がって、コーヒーカップの中身を飲み干した。
「サンキュー、彩名。相変わらず酷い味だね、これ」
「コーヒーじゃないの?」
わたしは思わず訊いた。
「薬草茶よ」
彩名さんは、圭吾さんから空のカップを受け取りながら答えた。
「心を落ち着かせる効果があるの」
「効き目は抜群だよ。志鶴も飲んでみる?」
圭吾さんがわたしを見上げて言った。
「酷い味って言わなかった?」
「すごく苦い」
「じゃあ、いらない」
圭吾さんは優しく微笑んで、細長い箱をわたしの膝の上にポンと乗せた。
「志鶴にはこっちの方が効くかな?」
えっ? 今、どこから出したの? っていうか、チョコレート?
キャーッ! 嬉しい!
「圭吾さん、大好き!」
後ろから抱きつくと、『すごい効き目』と、圭吾さんがおかしそうに言った。




