3時間目~理想と現実 3
ペロ、待ってるかなぁ。
授業時間自体が短かったので、寄り道はしたけれど、帰宅時間としては早い方だ。人にしろペットにしろ、誰かが帰りを待っていると思うと、胸がほっこりと温かくなる。
愛される方が幸せ? そうね、そうかも。
バスを降りると、朝と違って柔らかな風が吹いていた。バス停から家へと向かう途中に交差点がある。和服姿の人影が信号待ちをしていた。
だけど、一向に渡らない。
ひょっとして手押し信号だって気付いてない?
わたしは近付いてスイッチを確かめた。『押して下さい』の電光のメッセージ――やっぱり手押しだって分からなかったんだ。ボタンを押すと、文字が『お待ち下さい』に変わった。
その人はわたしを見て、軽く会釈をした。
上品そうなお婆さんで、淡いグレーの着物にくすんだピンク色のショールを身に纏っている。
問題はこの会釈の意味だ。
わたしがボタンを押した事に対する礼なのか、単に目が合っただけの挨拶なのか、はたまた向こうはこっちを知っているのか……
羽竜本家にいると、一方的に知られているというのもよくある事なのだ。
曖昧な笑みを浮かべて、わたしも会釈を返した。
まもなく信号が青に変わり、わたしは一歩踏み出した。すると、お婆さんが何かにつまずいたようによろめいた。
危ない!
思わず手を差し出した。お婆さんは、ギュッとわたしの手を握るように掴まった。
指先がピリッと痛む。さっき切った所かな……
お婆さんがわたしの手を離さないので、わたしは仕方なく、お婆さんの手を取ったまま横断歩道を渡った。
ふわっと桜の匂いがした。
ほのかないい匂い――お婆さんの香水だろうか? 和服だから、匂い袋かもしれない。
道路を渡り切ると、お婆さんはわたしに深々と頭を下げた。わたしも慌ててペコッと頭を下げた。
カッコ悪っ。
彩名さんとか、優月さんなら、もっと優雅に振る舞えるんだろうな。わたしは去って行くお婆さんの背中を見送って、そう思った。
『お気をつけて』って言えばよかった。あーあ……お嬢様への道は遠いなぁ。
ため息をついて家に帰ると、ペロがキャンキャン鳴いていた。
「さっきまでおとなしかったのよ」
伯母様が言った。
「志鶴ちゃんが帰って来たって分かったのね」
圭吾さんが帰って来た時のわたしみたい。
「みんなにチヤホヤされて嬉しそうでしたけれど、やはりご主人様が一番なのですね」
和子さんが言った。
「ペロ、いい子ね」
わたしが撫でてやると、ペロは頭をこすりつけるようにしてわたしに身を寄せた。
ああ、かわいい。
「圭吾さんは?」
「お部屋にいらっしゃいますよ」
今日はわたしの帰るのを、待っててくれなかったんだ……
別に不満ってほどの事じゃなかったんだけど、気持ちが顔に出たのか、和子さんがジロッとわたしを見た。
「圭吾様はお忙しい方ですよ」
うう……分かってるわよ。
「ご帰宅の挨拶をされて、コーヒーでも入れて差し上げては?」
「そうする」
「結構。好きな方に喜んでいただくのが、女性の幸せというものでございますよ」
そうなの? 愛する方が幸せって事? ……まっ いいか。圭吾さんに聞いてみよ。
「おいで、ペロ」
わたしが立ち上がると、ペロはテッテッと後をついて来た。
渡り廊下を通って、離れの建物まで来ると、わたしは足を止めた。ニ、三歩先まで行ってから、ペロが不思議そうに振り返る。
母屋と違って、こっちは午後になると人気がない。
わたしは廊下の片隅にしゃがみ込んで、鞄のファスナーを開いた。ペロが物珍しそうに鞄の中に鼻を突っ込む。
「ペロ、ダメよ。ちょっと待って。えーと、おすわり」
ペロはちょこんと座った。
シェルターでしつけられていたのか、ペロは『おすわり』と『待て』だけは最初からできた。
「えーっと、ね。ちょっと手伝ってね」
わたしは鞄から大学のパンフレットを取り出し、床に並べた。
「ペロはこの中でどれが一番好き?」
最初、パンフレットの匂いを嗅いだ後、ペロはお気に入りの一冊を見つけてじゃれついた。
「第一志望決まり――っと」
ペロがよだれだらけにする前に、パンフレットを取り上げる。
「次は? そこ?」
うーん、そうきたかぁ……
「じゃあ、ここ第二志望ね――でね?」
わたしは鞄の中から、現国と英語の教科書を取り出した。
「さあ、どっちがいいでしょう!」
「志鶴?」
へっ?
顔を上げると、圭吾さんが訝しげにわたしを見下ろしていた。
「何をしているの?」
「えーと」
わたしはヘラッと笑ってごまかそうとしてみた。
「……英才教育?」
圭吾さんは腕を組んだ。
「ふーん、で?」
「ほ……本当は、進路相談です」
ペロが現国の教科書に向かって、ワンッ!と吠えた。
あ、やっぱり? わたしもそっちかなぁって思っていたんだ。




