3時間目~理想と現実 1
4月――新学期
「お願いね、面倒見てね」
わたしはペロをサークルに入れた後、和子さんに何度も念を押した。
「お任せ下さい。お帰りになるまでちゃんと面倒をみますよ」
羽竜本家の使用人を束ねている和子さんの厳格な顔が、少し緩んだ。
新学期が始まって、わたしは自分がいない間、ペロの世話をどうするかを決めなくてはならなくなった。頼めば圭吾さんが見てくれるだろうけど、お仕事が忙しいだろうし、外出も多い。
「朝、母屋に連れてらっしゃい」
そう言ってくれたのは、貴子伯母様。
「清潔にして、少し遊んでやればいいのでしょう? 人がたくさんいるのですもの、大丈夫よ」
結果、ペロは保育園に通う子供よろしく母屋の居間でサークルに入れられる事になった。
「いい子にしてるのよ。すぐ帰って来るからね」
ペロはわたしを見上げてしっぽを振った。
「ほら、遅刻するよ」
圭吾さんがせき立てる。
ああ、もう行かなきゃ。親父もこんな気持ちで、わたしを置いて仕事に行ったのかな……
「僕には、いってきますの挨拶は無し?」
圭吾さんが、全然拗ねていない口調で、拗ねた台詞を言う。
もうっ!
「いってきます」
わたしは、わざと音を立てて圭吾さんの頬にキスをした。
「いってらっしゃい」
圭吾さんが微かな笑みを浮かべる。
「ニヤケていてよ」
圭吾さんの向かい側に座っていた、お姉さんの彩名さんが冷やかした。
「黙れ、彩名」
圭吾さんが唸るように言った。わたしがクスッと笑うと、圭吾さんがしかめっ面をした。
外はいいお天気だった。
門を出た途端、強い風がザアッと吹いた。風に乗って桜の匂いがする。桜湯とか桜餅の、あの匂い。桜の匂いはバスに乗り込むまで、ずっと続いていた。
桜の生花って、こんなに匂いするんだっけ?香りの高い品種とかあるのかな……
間もなく通学バスが来た。
バスは空いていた。午後から入学式だから、今朝は二、三年生しか乗っていないのだ。
「しづ姫」
悟くんが最後部の座席にどっかりと座って、手を振っていた。
「おはよう、悟くん」
近づくと、悟くんは座席を詰めて、わたしの座る場所を空けてくれた。
「ついに最上級生として、偉そうにできる日が来たよ」
いや、今までも十分、上級生を差し置いて幅をきかせてたよ?
「いよいよ大輔くん、入学だね」
「ああ、うん」
あれ?
「楽しみじゃないの?」
「どこの小学生?」
悟くんは、そう言った。
「しづ姫、男は大概において照れ屋だ。分かる?」
よく分かんない。
「思春期を迎えた途端、弟は可愛くなくなるし、父親は煙たく、母親はウザくなる」
「どうして?」
「本心からそう思っているわけじゃないよ。言わば『カッコつけ』だね」
「悟くんも?」
「僕も。それ以上に大輔も。兄貴にベタベタ可愛がられたい男の子なんていないよ」
そうなんだ。
「せっかくの兄弟なのに寂しくない?」
「僕らはオスだ。縄張りを守るのが習性で、大人になれば、兄弟といえど縄張りを争うライバルなんだよ。ただし、外敵には一致団結して立ち向かう――それが兄弟の利点で、その程度の距離感が丁度いいんだ」
ふうん。
「大輔くん、前にわたしの弟になってもいいって言ってくれたけど、あんまり親しげにしたら嫌かなぁ?」
「圭吾がね」
悟くんは笑った。
「大輔よりも圭吾の心配しなよ」
そうか。
「でも、学校でなら圭吾さんには分からないでしょ?」
「粘るね。そんなに兄弟が欲しい?」
「うん。悟くんにはいっぱいいるから、いいものだって気がつかないのよ」
「そうかも。うちの母は、子供の頃に弟を亡くしてるんだ。うちの兄弟が多いのはそのせいかな」
「きっとそうよ。わたしも赤ちゃん、いっぱい欲しいなぁ」
憧れを込めて言った途端、悟くんがむせ返ったように咳込んだ。
なぁに?
「圭吾にそれ、言ってみた?」
「ううん。ああ、でも似たような話はしたよ」
「け……圭吾は何て?」
ん? 何かおかしい?
「わたしをお母さんにしてくれるって」
悟くんはもう一度息を詰まらせた。
何なのよぉ。
よく分からないんで、学校に着いてから、親友の亜由美と美幸に聞いてみた。
「男の子のエロネタよ」
亜由美がクールに言った。
「『赤ん坊』って聞くと、作る作業が真っ先に思い浮かぶらしいわ。まあ、作るしか能がないわけだから仕方ないわね。小学生レベルの話よ。気にする事ないわ」
バッサリ 一刀両断。
亜由美、カッコよすぎる……