1時間目~いきものがかり 1
桜の蕾がほころび始めた春休みのある日――圭吾さんがいきなり『出かけよう』と言い出した。
圭吾さんとわたしは、母方の従兄妹同士。
わたしの親父が海外赴任中なので、わたしは一年前から圭吾さんの家で暮らしている。
「どこに行くの?」
わたしが訊くと、圭吾さんはニッコリと笑って『秘密』って言った。
うーん……
こういう時って、必ずサプライズがあるんだよね。今回は何かな?
「ああ、志鶴。今日はジーンズの方がいいよ」
あら、珍しい。
いつもの圭吾さんは、わたしに、『いかにも女の子』って格好ばかりさせるのに。
ジーンズならいっぱいあるわ。この家に来る前は、ジーンズとTシャツと制服しか持ってなかったくらいだもの。
クローゼットからお気に入りのリーバイスを引っ張り出す。上には長めの丈のチュニックブラウスを組み合わせた。
「これでいい?」
着替えてから、圭吾さんの前でクルッと回ってみせた。
「うん。かわいいね」
また、"かわいい"なの?
六歳年上の圭吾さんが相手じゃ、わたしは"かわいい"が精一杯。
でも、わたし達は婚約してもうすぐ一年だし、今年のバレンタインデーには大人の恋人同士にもなった。
たまには『綺麗だよ』って言ってくれないかな。
拗ねた台詞が出そうになったけど、グッと飲み込んだ。
わたしが何か言えば、圭吾さんはこれから先、わたしに『綺麗だよ』って言ってくれるだろう。
でも、わたしが欲しいのは『言葉』じゃない。
圭吾さんに綺麗って思ってほしかったら、思ってもらえるように自分が頑張らなきゃ。
今日は、圭吾さんも黒のジーンズだ。スリムで長い脚によく似合う。それと、少し切れ長の目元が綺麗。羽竜家の人って、美形揃いなんだよね。
この圭吾さんに釣り合うためには、かなりの努力が必要かも。
「どうした?」
圭吾さんがわたしの顔を覗き込んだ。
「えーとね」
わたしは赤くなってうつむいた。
「圭吾さんに見とれちゃった」
ちょっとだけ間があった。
「僕は君の基準に達してる?」
「基準って、何の?」
「君の彼氏としての。合格点をくれるかい?」
わたしは頷いた。
わたしの彼は圭吾さん以外に考えられないもの。
圭吾さんはフッと笑うと、わたしの唇に掠めるような軽いキスをした。
わわわっ! 心臓に悪い!!
「行こうか?」
「うん……」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
ギュッと手を握られたら、わたしの胸もキュッと締め付けられた。
「ほら、リラックスして」
圭吾さんが、からかうように言う。
ドギマギして、リラックスなんてできないよ。
何度キスしたって、何度抱かれたって、ちっとも慣れない。圭吾さんがわたしに触れる度に、心臓が止まりそうになっちゃう。
「今日のところは、もう悪さをしないからさ」
うーん。ちょっとなら悪さもいいんだけどな――そんな軽口さえ、恥ずかしくてわたしには言えない
圭吾さんは、言葉通り『お兄さん』に徹しようと決めたらしい。
車に乗って家を出ると、優しい態度はいつも通りだったけれど、思わせぶりな仕草も、甘い言葉も引っ込めてしまった。
ホッとするのと同時に、それはそれで物足りなさを感じてしまう。
ダメじゃん、わたし
圭吾さんが恋人らしくする度に、自然な態度が取れなくなってしまう。
みんな、どうやって恋をしてるの? 恋の教科書があるなら見てみたい。
「ゆっくりでいいよ」
わたしの心を見透かしたように、圭吾さんが言った。
「君はもう僕のものだから、君が僕の愛情表現に馴れるまでいくらでも待てる
そうなの?
「わたしがオロオロしても気を悪くしない?」
「しないよ」
わたしは少し気が楽になって、シートの上でモゾモゾと座り直した。
「ね、ホントに今日はどこに行くの?」
「近くだよ。郊外に出て、坂道を上る」
「それで?」
「たぶん、君が見た事もないものが見られる」
「雲海とか?」
圭吾さんは笑った。
「それはまた次の機会に」
「あ……山登りがしたいわけじゃ……」
「雲海を見るのに山登りをする必要はないよ」
だって、雲海って山の上から見るものでしょ?
そう言いかけて、わたしは口をつぐんだ。
羽竜一族は龍神様の子孫で、不思議な力を持っている人が多い。一族の長である圭吾さんは、その中でも特別なんだという。
雲を呼び寄せるくらいできるのかも。
いや、まさか――ね?
「朝早い時間なら何とかなるんだけど」
はいっ?
「今はまだ寒いから、もう少し暖かくなってからね」
やっぱりできるんだ……でも、寒いと何がダメなんだろ。
「君に風邪をひかせたら大変だ」
そんな理由っ?!
圭吾さんはわたしに甘い。ついでに過保護。
人には兄貴扱いするなって言うくせに、これじゃ恋人っていうより保護者じゃない。
わたしって、やっぱり子供っぽいのかなぁ。
「ほら、見えてきたよ」
圭吾さんの言葉に顔を上げると、高い塀が見えた。金属製のゲートの横には大きな看板がある。
「ペットシェルター?」
わたしは看板の文字を読んで、首を傾げた。




