気に入らない奴
「土曜日なのに学校へ行くの?」
朝早く、制服に着替えている志鶴の背中に向かって僕は言った。
「うん、ちょっとね」
その『ちょっと』って、何?
危うく口にしそうになった大人気ない言葉を、僕は飲み込んだ。
今日は君を独り占めできると思ったのに。
「航太がね、陸上の遠征でうちの学校に来るんだって」
志鶴がスカートの襞を引っ張りながら言う。
「ふうん」
僕は気のない返事をしながら、内心焦っていた。
吉川航太は志鶴の実家のお隣りさん。同い年の幼なじみだ。
志鶴と仲良しなのは、彼の双子の姉、夏実ちゃんの方ではあるが。
実のところ、僕はこの少年が気に入らない。
悪い奴じゃないんだ。
むしろ良すぎる奴。スポーツ万能で、明るくて友達も多い。夏実ちゃんや志鶴には、お節介なほどの優しさを見せる。
ちょっと乱暴な口調が志鶴には不評だが、それは数年もすれば決断力のある男らしさに変わるだろう。
だからこそ気に入らない。
志鶴の心が動くかもしれないじゃないか。
それに、彼は僕と出会う前の志鶴を知っている。
さらに気に入らない。
できれば学校について行きたいくらいだ。
でも、僕の気持ちに気づかない志鶴は、『じゃ、行って来るね』って僕の唇に可愛らしいキスを残して出かけてしまった。
部屋は、火が消えたように寂しくなった。
昨日の夜は、そこで志鶴にキスをした。僕は一気に熱くなって、危うく暴走しそうになった。
でも、
志鶴の小さな手が僕の頬に触れて、小さな声が『大好き』って囁いて――僕は落ち着いた。
そう。志鶴は僕を愛してる。
僕も度を越した不安は、そろそろ乗り越えてもいい頃だ。志鶴の心を信じて、僕は愛されているという自信を持って。志鶴は僕を捨てたりしない。
ああ、君といたい。早く帰って来てくれ。
午後遅くに帰って来た志鶴は、客を連れて来た。
「ども」
ぶっきらぼうに僕に挨拶をしたのは、吉川航太だ。
「航太がね、わたしの住んでいるとこ見たいって」
志鶴が無邪気に言う。
そうだろうな。自分の目でしっかり確認したいはずさ。
だって、上目遣いに僕を見る、奴の目が言っている。
気に入らない奴――って
奴は批判的な視線で、志鶴の暮らしぶりをチェックしているようだった。
「気に入らないところはあったかい?」
志鶴に聞こえないところで、僕は訊いた。
「全部」
ぶっきらぼうな声が答える。
「でも、しーは大事にされてんだな」
「大事だからね」
「いいのか? あいつが喉から手が出るほど欲しがってるのは、あんたっていうより、あんたの家族じゃないのか?」
「鋭いな……」
僕はため息をついた。
「それでも僕には志鶴が必要なんだよ」
「馬鹿だな」
「男はみんなそうだろ?」
「まあな。俺だって、しーがあんなふうに笑わなかったら、あんたから取り返してる」
おい、それが本音か?
「何てったって、俺の後ろには夏実がついている」
奴はそう言ってニヤリと笑った。
こいつ――
「僕の後ろにも姉がいるよ」
自分でそう言ってから、僕は吹き出した。
「何だよ」
「いや、僕ら二人とも自力じゃないなと思って」
「そういやあそうだ」
「あら、二人で何の内緒話?」
志鶴が不思議そうに訊く。
「ちょっとした冗談さ」
僕がそう言うと、志鶴は小首を傾げて『似た者同士、話が合うのね』って言った。
似た者同士?
「過保護で口うるさいところ、そっくりよ」
僕と奴は顔を見合わせた。
「やっぱり、あんたは気に入らない奴だよ」
「お互い様だね」
僕らは作り笑いを浮かべながら、小声で言い合った。
僕らの天使は、こっちを見ながら嬉しそうな笑顔を浮かべていた。




