どんなに上手に隠しても1
「いい? これからわたしはお台所に篭ります」
バレンタインデー前日の夜、わたしは圭吾さんに宣言した。
「何があっても絶対覗かないでね」
圭吾さんはパチパチと瞬きした後、『鶴の恩返し?』と、言った。
「志鶴の恩返しよ」
「何、作るの?」
バレンタインデー用っていうのはバレバレなんだけど、それでもわたしは小さな抵抗を試みた。
「もちろん布よ」
「台所で?」
「ええ。だって機織り機はあそこにしかないんだもの」
「機織り機ね……えーと、確かその話は禁を破って覗いてしまうんだよね?」
「そうよ。そして娘は鶴に戻って去ってしまうの」
圭吾さんはブルッと身震いした。
「僕にとっては、どんな怪談より怖いね。絶対に覗かない」
よしっ!
「布は後で見せてくれるのかい?」
「明日ね。一晩寝かせなきゃダメなの」
わたしは、できるだけ真面目な顔をして言った。
「それが終わったら、僕のことも寝かしつけてくれるんだろうね」
今度はわたしの方が瞬きする番だった。
「ちゃんと僕の部屋に来てくれるんだろうね、って言っているんだよ」
今更? ここ何ヶ月もずっと一緒に寝てるじゃない。
「最近、君はずっと上の空だよ。僕の事も後回しだし」
そうかなぁ? ひょっとしたらそうかも。
「終わったら必ず行く」
わたしは、圭吾さんをギュッと抱きしめた。
明日は圭吾さんが最優先よ。まあ、今日だって圭吾さんのためなんだけど。
圭吾さんは何となく面白くなさそう。
どうして? バレンタインデーのプレゼントを作るんだって分かってるでしょう?
それとも、特別な事はしてほしくないのかな……
自信がない。
でも、クラスの男の子達は『何もなかったらガッカリする』って言ってたよね
圭吾さんは、わたしに何を望んでいるんだろう?
いつもはもう帰る時間なのに、通いのお手伝いさんが二人、残ってくれていた。
それと、住み込みの和子さん。
みんなニコニコしている。
わたしは、最初に渡されたレシピにザッと目を通した。
今までお菓子と言えるものを作ったのは、ホットケーキくらいのものだ。
――えーと、クルミを刻む。チョコを湯煎で溶かす。
「湯煎って何?」
どうやらお湯の入ったボウルの熱で、上に乗せたボウルのチョコを溶かすらしい。
なるほど。
小麦粉とお砂糖の分量を量って……と。
「これでいいの?」
「お上手ですよ」
励ましのお言葉、ありがとう。、
わたしの危なっかしい手つきにみんなハラハラしてただろうけど、手は出さなかった。
失敗しても成功してもいい。
大切なのは、わたしが圭吾さんのためにどれだけ頑張ったかなんだから。
成功した方がいいに決まってるけどね。
天板にオーブンペーパーを敷いて、その上にケーキ生地を流し込む。
おっ 案外簡単。いけるかも。
オーブンから甘い匂いがする。
膨らんでる? ねぇ、膨らんでる?
ガラスの向こうを何度も覗き込むわたしを見て、お手伝いさん達が笑う。
「志鶴様、見張っていなくても膨らみますよ」
「何だかいい匂いね」
そう言いながら、彩名さんがふらりとお台所に入って来た。
「あら志鶴ちゃん、お料理?」
「バレンタインデー用です」
彩名さんは、『ああ』って顔をした。
「圭吾に? あの子って運がいいのね。家にいるだけで、志鶴ちゃんみたいな子が飛び込んで来るのですもの」
圭吾さんもそう思ってくれているかな?
思っていてほしい。
オーブンがチンと鳴った。
焼き上がった天板を出さなきゃならないのに、そこだけはさせてもらえなかった。
わたしが火傷でもしたら、全員の首が飛ぶと言われた。
おおげさすぎない?
いくら過保護な圭吾さんでも――いや、有り得るか
「そんなんじゃ、わたし気軽にお料理できない」
ブツブツ言うと、
「する必要はないでしょう?」
彩名さんが言った。
「彩名様は、少しばかり練習された方がようございますよ」
和子さんが皮肉っぽく言った。
「わたしはお料理の才能がないのよ」
彩名さんは苦笑した。
「でも、圭吾のお嫁さんが志鶴ちゃんだから、わたしもずっとこの家にいられるわけだし」
和子さんは、やれやれと頭を振った。
「わたしがいた方がいいのよ、ばあや。どうせ圭吾のことだから、この家でずっと暮らせる事とか、わたしや従兄弟たちがいる事をちらつかせて志鶴ちゃんにプロポーズしたはずよ」
その通りだわ。
「あの子は自分に自信がないのよ」
彩名さんは優しいけれど、少し悲しげな顔をした。
「だからいつも、志鶴ちゃんが喜びそうなものを取り揃えて完全武装しているの。でも、それでもまだ不安。本当に難しい子だわ」
いつも、わたしが物を欲しがらないと嫌な顔をするのはそのせい?
何でわたしをつなぎ止めればいいのか、分からないから?
わたしが一番欲しいのは圭吾さんの愛情で、圭吾さんさえ側にいてくれればそれでいいのに。
気持ちって、なかなか伝わらないんだな……