もういくつ寝ると1
「気をつけて行っておいで。夏実ちゃん達によろしく」
圭吾さんが穏やかに言う。
夜明け頃にわたしを起こして、親元に帰すのが嫌だと、散々ごねた人と同一人物とは思えない。
六歳年上の圭吾さんは、母方の従兄だ。
親父の海外勤務でこの家に預けられたわたしは、圭吾さんと出会い、ただ今婚約中。
でも、年末に親父が一次帰国して、わたしは実家でお正月を過ごす事になったのだ。
「いってきます。電話するね」
圭吾さんに抱きついてわたしがそう言うと、
「本当は行かせたくないけど」
低い声が耳元で囁いた。
困った人。
圭吾さんは優しい恋人だけど、時々ズルをする。
今朝だって一週間分のキスをくれと、わたしが半分寝ぼけているのをいいことに、好きなだけわたしに触れて心の中まで読み取った。
今思い出しても顔から火が出そう。
「年越しと元日は忙しいのよね?」
わたしがそう訊くと、圭吾さんは顔をしかめた。
「神社の方で仕事があるから。帰って来ても年始挨拶の客が切れ間なく来るしね」
ここ羽竜家は、この辺り一番の旧家で、圭吾さんは本家の当主だ。
本当ならわたしもお手伝いしなきゃいけないはずなんだけど……
圭吾さんも、貴子伯母様も、そんな事は結婚してからでいいと言う。
「志鶴、行くぞ」
親父が言った。
この家に来た時と同じだ。
鞄ひとつ持ってこの家に来たのは、四月の初めだった。今では鞄に入り切らない荷物と、圭吾さんへの思いがここにある。
久しぶりに親に会えた喜びが半分、圭吾さんと離れる寂しさが半分――心の中はちょっと複雑。
伯母様と従姉の彩名さんと、家の事を取り仕切っている和子さんにも『いってきます』と言って振り返ると、少し俯き加減の圭吾さんが寂しそうで、本当に寂しそうで、わたしはもう一度圭吾さんに駆け寄った。
「すぐよ。本当にすぐ帰って来る」
「分かってるよ。もう行きなさい」
圭吾さんが親父の方へわたしの背中を押した。
初めはビビった武家屋敷のような門から外に出て、親父が運転してきたレンタカーの横に立つと、圭吾さんがドアを開けてくれた。
「シートベルトしめて。気をつけるんだよ」
気をつけなきゃならないのはわたしじゃなくて、運転する親父の方でしょ。
そう思いながらも頷いて笑顔を返すと、圭吾さんが微笑んだ。
ああ、心配。
わたしがいない間、圭吾さんはちゃんと眠れるかな? 不機嫌になって誰かとケンカしたりしない? お仕事でまた怪我をしたらどうしよう。
わたしの不安ををよそに、車は走り出した。
圭吾さんは、車が見えなくなるまでずっと見送っていた。
羽竜家に来てから圭吾さんと離れたのは、修学旅行の時だけ。それだって圭吾さんの従弟の悟くんや、他の親戚の子達と一緒だった。
この町で、わたしはいつだって羽竜の一員だった。
元の家に戻れば、わたしはまた一人ぼっち?
バカね。親父がいるじゃない。幼なじみの、お隣りのなっちゃんも。
それに、すぐに圭吾さんのところに戻れるわ。
車が竜城神社の横にさしかかった。
実家に戻ったまま竜宮には帰らなかった、龍神の花嫁――そんな伝説のある神社だ。
わたしを送り出す事は、龍神様の子孫である圭吾さんにとっては、とても大変な事だったのかもしれない。
わたしが思っているより、ずっと。
「家に帰りたくないか?」
窓の外を見るわたしに親父が言った。
「帰りたくないわけじゃない。ちょっと寂しいだけ。親父に会えて嬉しいよ」
少し間があって、親父がまた口を開いた。
「お前が嬉しいとか、寂しいとか言うのを初めて聞いた気がするよ」
そう?
「お前はあまり感情を口にしない子だから」
そうだったのかもしれない。
「それに、さっきは『お父さん』なんて呼ばれて驚いた」
「ああ、それ? それは和子さんがいたから。親父が躾をしてくれって頼んだんでしょ? 和子さんたら、すごく礼儀作法にうるさいんだから」
「普通の女の子のようになって欲しかっただけなんだがな。すっかりお嬢様みたいになったな」
本当に? だったら嬉しいな。
「よかった。だって、わたし、彩名さんみたいになりたいんだもん」
わたしはニッコリと笑った。
「彩名さんってママに似てるでしょ? それにとっても優しいのよ。いつも一緒にお買い物に行ったりするの――どうしたの?」
「いや」
親父はちょっと咳ばらいをした。
「お前が自分からママの事を口にするのも初めてだと思って」
「ああ、ごめんなさい。ママの話をするのはつらい?」
「そんな事はないよ。お前がつらいのかと思ってママの話は避けていたんだ」
実は、ママの事はそれほど覚えていない。今までは、それを認める事が嫌だった。
「圭吾君とはどうだ?」
どうだって言われても……
「圭吾さんのこと、大好きだよ。親父の方こそ、さっき圭吾さんと二人っきりで何を話してたの?」
「お前のことだ。相変わらず『もっと早く結婚させてくれ』の一点張りだった」
親父は笑った。
「お前のどこがいいのかさっぱり分からん」
失礼しちゃう。
でも、そうなのよね。圭吾さんは、わたしといると心が和むっていうだけだもんね。
あっ、そうでもないかな? いつも『かわいい』って言ってくれる。それに……何度も本物の恋人同士になろうって誘われてるし。
後は、わたしが『うん』って言うだけ。
十分じゃない?




