卒業
あたし、雨が嫌い。
たいせつなものを、奪ってしまった雨…。
「ちょっと、聞いてんのぉー?」
「えっ?」
あたしは、肩をたたかれてようやく振り向く。
そんなあたしに向かって。
「卒業しても、友だちだよね? …ね?」
梨花(桜梨花子)だ。
あたしの手をぎゅっと握りしめて、そんなことを口にした。
……は?
「なーに急にぃ。あたりまえじゃんかっっ!」
あたしたちは、今中学“卒業”を目の前にしている。大きな迷いも、いっぱいある。でも、はばたかなきゃならない。
「奈々〜っ」
そう言って梨花はもう一度あたしの手を握りしめた。
「もう、梨花やめてよそんなん。もう二度と会えないみたいなさーあ」
「だってだってーっ」
分かってるよ、みんな不安だってこと。だけど、なんか自分一人だけつらい気がしちゃう。何でだろう…。
「だけどさ」
切り出したのは梨花。
「あたし正直いうとクラス替えあって初めてみんなと顔合わせたとき、うわやってけんのかなぁーって…不安だったんだぁ」
「あー、それあたしも」
そう言って突然会話に入ってきたのが、紺野雪ちゃん。
あたしも、その気持ちすごくよく分かる。だって、あたしこのクラスやだぁ、って感じたくらいだからね。ちょっと落ち着かなくて。
「俺なんてさぁ」
横から口を挟んで、友希。
「このクラスはブスばっ…うわ、うわわわ、ちょっ…冗談だよ。美しい梨花さまあ!!!」
頬を力いっぱいつねる梨花(傍目にも痛そうだわ)。
「分かればいいのよ、分かれば」
「…ふはっ」
あたしは思わず吹き出してしまった。
でも、なーんかこうしてると…幸せだなぁ、なんてね。ずっとこうしていられないかなあ、なんて無理なこと祈ってみたり。だけどさ、あたし、このクラスで、
「みんなと出会えてよかった」
「え?何か言った?」
梨花が振り返る。
「…ううん、なーんでも…ないっ」
男のコだって負けちゃうくらい強気の、でも本当はすごく優しい梨花。とっても明るい雪ちゃん。それに、いっつも梨花に苦しめられてる(でも楽しんでるような…)友希。
…そんな人たちに出会えたことが何よりもうれしい、って感じることで。桂木奈々は、ここでこうして過ごしてきた日々を愛おしく思います!
本当にさ。今気づけば、いっつも周りにはみんながいてくれて、支えてもらってた。一人じゃどうにもならないことも、みんながいてくれれば乗り越えられた。きっと…どんなにつらいことだって。今はそう、信じて疑わなかった。そう、今は―。
実際に“卒業”という文字が脳裏に焼き付いて離れなくなっていくと、みんなの不安気な様子が目に見えて分かった。にぎやかだったクラスが少し…ほんの少しだけ、変わっていった気がした。あたしも…? いつだって笑顔の耐えないクラスだった……ううん、初めのころはみんながばらばらだったね。あたしたちは、あの頃に後戻りしようとしてるんだろうか…?
「卒業しても友だち」
あの日の約束を、何だか随分過去に感じる。忘れていくのかな、そんな日常も。
この日も、空がこわいくらいのグレーで。
全部―、
「雨のせいだ」
ぽつんとつぶやくあたしの声に気づく人はいなかったけれど。雨は、何もかも…何もかも……奪っていくんだ。
雨なんて、大嫌いだ。
「奈々そーとー雨キライって言うよね。まー確かに、梅雨なんかもー憂鬱だもんねえ」
そう、いつか梨花が言ったよね。あのときあたしは何も言わなかったけど。
そんなんじゃないんだよ。
―5年前のあたしにとってかけがえのない、たいせつな人を奪った。フツウの小学4年生だったあたしが経験すべきものじゃなかったはずなのに。
「お姉ちゃん、今日は遅いね」
あたしはお母さんにそう言って。その日は1日中、強い雨が叩きつけていた。それからどれだけか時間が過ぎていって…家中に電話がなり響いた。
「はい」
受話器を手にしたお母さんの顔色がみるみるうちに変わっていくのが、よく分かった。呆然とした横顔。何かを、必死に押し殺すような、そんな横顔。
「…うそ……はい。そうなんですか…はい…分かりまし…」
―ガチャ
「お母さん!何?どうしたの?」
あたしは、そんなお母さんの顔を見たのは生まれて初めてだった。
受話器を手から離すと、お母さんはその場にドサッと座り込んだ。急に。まるで、糸であやつられている人形の糸を、はさみでプツンと切ったように。その人形は、瞳にいっぱい涙をためて…それが一気に頬を伝っていた。あたしはその横でずっと、震え出す自分の体に怯えていた。
その涙のわけを知ることになって、あたしは一瞬、どういうことなのか、理解できなかった。そうしたら、もう一度、つぶやくように言った。
「お姉ちゃんね、今……事故で死んじゃったの……分かる? ねえ分かる? ねえ奈々……」
低い声であたしの名前を呼び続けるお母さんは、いつものお母さんじゃなく、別人だった。
でも、それでもあたしたちは何とか現場に駆けつけた。それから、お姉ちゃんの手を、握りしめた。もう二度と笑ってはくれない、お姉ちゃんの手を。
幼いあたしでも、もう理解した。だって、あたしが力いっぱい握りしめたその手は…すごく……すごく冷たかったから。
傘もささずにあたしたちはずぶ濡れになりながら、お姉ちゃんを見てた。雨で視界が悪い中、滑りやすい道路でスリップした車が事故を起こしたらしかった。
どうしたって…雨なんか好きになれるわけ、ない。不安なの。雨が降るたびに、あたしにとってかけがえのないものが奪われるようで。
強くなれないだけ…。
―雨なんて大嫌い。
「卒業、か…」
あたしはつぶやいた。
やっぱり何だかつらいな。みんなと出会って、毎日楽しかったし。たまには悩んだり、壁にぶち当たることもあったけど。それを乗り越えてきたのが、今のあたしたちなんだもん。みんなと別れるの、すごくつらい。
「何、この雨!」
外に降る雨は、あたしのこのをバカにして笑っているみたいだった。
「だからキライなのよ。サイテー」
「まーだ言ってんの?」
梨花に聞こえていたらしい。
「だって―…」
「でもさーあ、奈々。何か都合悪いのを雨が降ってるせいなのよ〜、なんてガキみたいなこと言ってないでさぁ…」
…どうせガキだもん。
「梨花には分からないよ」
あたしの気持ちは誰にも分からない。
ただ一つ分かっていることといえば、“逢うは別れのはじめ”ってことだろう。きっと、誰もが知ってる。認めざるを得ない。出会ってしまえば、いつか別れがやってくる。全部分かっていてここまできてる。
だけど、そんなの雨のせいじゃなくたって、あたしは雨を好きにはなれない。優しい雨なんか、存在しない。
一度考え出すと、何も見えなくなる。自分の夢すら見えない。怖いよ。怖くてしかたないよ、夢を持つことが。いくらがむしゃらに追いかけたって、叶わなければ何もならない。自分が傷つくだけ……だから。
「全部雨に流れちゃうんだ」
「こらっ!」
黙り込んでいた梨花が、ようやく口を開いた。
「また何か考えてる〜」
「梨花…」
「まったくー」
「だって…」
あたし、本当にこのまま卒業しちゃうのかな。みんな違う道を歩んで行くのに。考えちゃうよ、このまま卒業して、ばらばらになっていく中で、自分らしくいられるのかなあって。
自信、ない。何だか、どこかでつまずいて、立ち止まって…そのままそこで立ちすくんで……。
自分らしくいる、なんて口で言うのは簡単で、実際にそうあるのは何より難しいに違いない。もう少し、強くありたい…。
それからあたしは、ちらっと梨花の方に目をやった。さっきまで横にいたと思ったら、今度は友希たちの男子グループに混じって何か話している。
(梨花っていっつもああだよね…)
強くて、迷いだなんて、悩みだなんて、一生関係ないんじゃないかって。そう思えるくらい。うらやましいよ。あたしも、梨花みたいな人間だったら、迷わずまっすぐ行ける気がする。
「奈々ちゃん」
「え?」
声をかけてきたのは雪ちゃんだった。
「何か考えてるの?」
「…ん、ちょっとしたこと」
そう言って、あたしは笑った(引きつってないよね、あたしの笑顔)。
「奈々ちゃんでも真剣な顔するんだぁ…」
「……まあね」
「不安?」
「何が?」
「卒業」
あたしは、何も言えなくなった。「別に」って、笑えなかった。
「あたしもだよ」
え?
雪ちゃん…も?
「そんなのさ、誰だってそうなんじゃないのかな?」
…誰だって?みんなも?
梨花も、友希も…―? みんな…?
「そうかな」
何だか、素直にそう思えない。あたしだけヘンに悩んでる気さえする。言い訳がましいけど、雨のせいかも。
もう二度と、あの日の雨は降らないで…。
「あたしさぁ、今のクラスの人みんな大好きで、だから―…」
「奈々ちゃん?」
雪ちゃんが心配そうにあたしの顔をのぞき込んだ。自分でも気づいた。視界がぼやける。何でだろ、悲しいわけでもないのに。
「あ、ごめんね。ちょっと…なんか“今”が楽しいのになぁって……」
涙が止まらない。
でも、クラスのざわめきで、あたしの涙は雪ちゃんにしか知られずにすんだ。
―こんなことならさ、幸せよりも不幸せ背負って生きてたほうがよかったかもしれない。だって、今をこんなに“楽しい”“幸せ”って感じるから、卒業するのがつらかったり苦しかったりするんだよ。大好きになっちみんなと別れるなんて、絶対に涙しちゃうもん。
「楽しい…か」
「……うん」
「ほーら、みんな席に着いて」
そんないつもの光景すら、あたしの目には違って映る。
それは、どこか不安気な空気…?
それから2月に入り、卒業式まであとわずか、というとき。あたしの周りで一つの事件が起きようとしていることを、あたしはまだ、知らなかった。
〈つづく〉
続きをなんとか早く投稿致します…φ(.. )