六章
しかし、時効前の殺人犯を追う刑事並みに深いオレの執念とは裏腹に、霧島葵の正体を明らかにするための確たる証拠は、なかなかオレの前に姿を現してはくれなかった。
この頃になるともう、クラスにおけるオレの立場も、地の底どころかマントルの底まで沈みきっていた。どうやらオレの調査活動が、クラスの女子共の不興を呼んでいるらしい―――との話を聞かせてくれたのは、言うまでもなく中島である。
そんなオレにある日、千載一遇のチャンスが訪れる。
「お前らあぁ! いよいよお前らの待ちに待った身体測定の日がやってきたああっ! きちんと勝負下着を穿いてきたかぁ? お前らあっ!」
その日、担任の松岡は教壇にて、朝一から薬でもキメてきたのかと疑わしくなるほどのテンションで喚いた。いや、こいつのハイテンションは今に始まった事じゃない。確実に毎朝何かをキメて来ている。きっとヤツは毎朝、アパートのベランダに茂った大麻をサラダに食い、小麦粉じゃない白い粉で焼いたパンでも食って出勤して来ているに違いない。麻薬Gメンは今すぐヤツの腕を後ろに回すべきである。でなければ、とりあえずはこの無遠慮で下品な大声をどーにかして頂きたい―――と、ヤツの社会的害悪についての話はここまでで済ますとして、問題は、ヤツが放った言葉の内容だ。
そう。身体測定、である。
言うまでもなく身体測定とは、我々青少年に、自身の真の姿と向き合わせるために設けられた、オトナ達による教育プロジェクトの一環だ。己が重みを悟り、己が足の短さを悟る。とかく肥大になりがちな自己を持て余す思春期のオレ達に、己というものををわきまえさせる残酷なイベントである。
そんなオトナ達の計略に抵抗を計るべく、女子共は朝からずうっとラマダンを決め込んでいる。喉が渇いているのか、あるいはお菓子を絶って糖分不足で苛立っているのか、皆、揃いも揃って鬼神の表情を浮かべている。面白いのでオレは、わざと連中に見せ付けるようにペットボトルの茶をぐびぐびと飲む。まぁ、これでまた小宮山修司はクソヤローだ、なる悪名も高まるだろうが、知った事か。悔しかったら前もって運動でもして痩せておけ。
が、そうして順調に自分の体重を五〇〇グラムほど増やしている間も、当然ながらオレは、ヤツの事を考えていた。
霧島葵。
そう。今日こそ、貴様の正体を暴く絶好の機会となるはずなのだ。
何故ならこの日ばかりは、普段、体調を理由に体育の授業を切り抜ける霧島も、他の女子と同様、否が応にも体操服に着替えねばならないからだ。つまり、化けの皮を剥がすには、これほど最適な機会もないと言える。
ホームルームが終わるや早速、女子達は更衣室へ向けてぞろぞろと移動を開始した。一方、オレ達Y染色体を持つ獣共は、教室に残り、ここで着替えを行う。
だが、クラスの男達が着替えという名の体毛ショーを始める一方で、オレは早々に汗むさい教室を抜け出すと、すかさず先程の女子の群れを追い始めた。群れの中に紛れているはずの、霧島の小さな背中を捕捉するためである。
ところが。
つい今し方教室を出たばかりの群れの中に、すでに霧島の姿はなかった。どんなに目を凝らして見ても、あの艶やかな黒髪はどこにも見当たらない。
「あれ……?」
おかしい。奴らが移動を開始してよりオレが教室を出るまでの間、さしたる時間はかかっていないはず。―――にも関わらず、もう霧島は消えている。
では一体、霧島はどこへ……?
しばしオレは周囲を見回し、例の艶やかな黒髪を注意深く探した。
なめるなよ霧島。この数週間というもの、オレがどれだけ貴様の尾行に手間と暇を費やしたと思っている。その間に磨かれた探査能力、貴様に対するアンテナの精度を、侮ってもらっては困る―――
「小宮山、くん?」
「うほぉああっ!?」
背後からの思わぬ声に、オレは弾かれたように振り返った。
そう、そこに立っていたのは、眉をハの字に曲げ、潤んだ瞳でオレを見上げる霧島葵に他ならなかった。
「き、霧島?」
オレと目が合うや、霧島は、その強張った頬に微かな安堵の笑みを浮かべた。
「よかった……」
「良かった? 何が?」
なおも合点のいかないオレに、霧島はなおも遠慮がちに続けた。
「実は小宮山くんに、是非お願いしたい事が……」
約十分後、オレは霧島と共に、体育館の体育倉庫へと潜り込んでいた。
「こ、ここなら多分、誰にも見られずに済むと思う」
「ありがとう、小宮山くん」
丁寧なお辞儀と共に礼を述べると、霧島は、春先の陽光のような笑みをオレに振り向けた。
ああ、あの時と同じ笑みだ。
遠赤外線のように、見る者の心をじんわりと温めてくれるような……。
奥の小窓から差し込む光が舞い散る埃をキラキラと輝かせる以外は、これという光源のない薄暗い体育倉庫の中で、オレは今、何故か霧島と二人きりで立て篭もっている。
ぐるぐるに丸められた埃臭いマットに、汗の匂いが染みた跳び箱、ゴム臭いバスケットボールが積まれていると思えば、こっちには革臭いバレーボールが山積みとなり―――きっと数多のエロマンガで、そういうプレイの舞台として体育倉庫が選ばれているのは、単に人気が少ないからだけでなく、この汗と埃とゴムの臭いが、野郎の性欲を否応なく掻き立ててしまうせいに違いない―――などと、今更ながらオレはそんなくだらない仮説を立ててみた。
「あの時、小宮山君に会えて本当に良かった」
長い睫毛を伏せ、慎ましげに頬を紅潮させながらぽつりと呟く霧島。ちなみにオレのよく知るエロマンガの筋書きでは、この後、二人はマットの上で当然のようにソレに及ぶ。
しかし残念な事にオレは、そのようなエロマンガの主人公などではなかった。さらに、今こうして面と向かっている相手は、女ですらないのである。
―――男の子だってバレないように、人目につかない場所で着替えたいんです―――
転校して間もなくという事もあり、学校の地理にあかるくない霧島は、先住民であり、かつ、この学校で先生を除けば唯一人自分の正体を知るオレに、更衣場所の選定、つまり、優駿館高校の生徒としての命運を託したのである。
それはすなわち、自動的に自分は男ですと宣告しているも同義であって……。
なぜだらう。せっかく答えに辿り着いたってのに、ちーっとも嬉しくない。
「すみません、まだ着替えも済ませていないところに、無茶な事をお願いしてしまって」
「いや、いいんだよ、これぐらい」
自分でもそれとわかる、気の抜けた返事をオレはよこした。かく答えるオレの手にも、己のジャージがしっかりと抱えられている。
見張りも兼ねて一緒に着替えてくれると助かります、との霧島の要望を聞き入れたオレは、すぐさま教室に取って返すと、自身のジャージを回収して再び霧島と合流した。
どのみち相手は男なんだ。一緒に着替えるのに、何ら不都合はあるまい。
「そんじゃ、ちゃっちゃと着替えを済ますぞ。チンタラしてると、いつ準備のために人が入って来ないとも限らないからな」
「は、はい」
頷くや霧島は、早速、胸元のリボンをスルスルと解き始めた。
白く輝く白いブラウスから、するりと解かれるライトブルーのリボン。他に音という音もなく、しんと静まった体育倉庫に、そのささやかな衣擦れの音は思いがけず大きく響いた。
頭一つ小さな霧島の黒髪が、オレの目の前でさらさらと揺れるたび、あの日と同様、清潔な石鹸の匂いがオレの鼻をくすぐる。俯いた前髪越しに、長い睫毛が、白く形の良い鼻が、薄桃の唇が、微かに覗く。
つくづく思うのだが……キレイな顔してやがんな、こいつ。
肌のきめ細かさはもちろん、その顔立ちも、まるで熟練の彫刻師が丹念にバランスを取りつつ彫り込んだかのような仕上がりである。この分だと、あと数年も待たずして恐ろしい美人に成長するに違いない。もっとも、今でも充分過ぎるほどキレイなんだが。
続けて霧島は、首元にあるブラウスのボタンに手を掛けた。
白く繊細な指先が、上から下へと一つずつ、おもむろにボタンを外してゆく。
プチ……プチ。
―――あれ、何だ? この奇妙な感じは。
奴の指がボタンを外すたび、その胸元から白い肌が露わになるたび、オレの鼓動が速くなるのは、一体どういうワケだろう。……相手は、男なのに。
「どうしたの? 小宮山くん」
ふと霧島は、何の前触れもなく顔を上げた。怪訝そうな眼差しが、オレの視線とかち合う。
「え?」
「着替え……小宮山くんは、しないの?」
「あ、す、するよ、そりゃするとも!」
弾かれるように霧島から目を逸らすと、オレは飛びつくように自分のジャージを手に取った。シャツを頭からかぶって……って、まだカッターシャツが脱げてねぇ! ええと、ボタン、ボタン……!
見苦しく汗マークを散らすオレの背後では、なおも粛々と衣擦れの音が響いている。
あいつも脱いでるんだよな……。ブラウスを……。
体育倉庫の埃っぽい壁を睨みながら、オレは背後で着替えを続ける霧島の姿を想像した。
恐らく今頃、霧島は全てのボタンを外し終え、そっとブラウスを脱ぎ去っている所だろう。
襟元をまくるや細い首筋が、そして白く慎ましげな胸元が露わになる。ブラウスを脱ぎ終えた霧島は、続けてスカートのホックに手をかける。ホックを外すと共に、まるで咲き終えた椿の花弁のように、パサリとスカートは足元に落ちる。
そこで霧島は、オレの方を振り返り、こう言う。
「本当は……男の子だって言うのは、ウソなの」
オレは背を向けたまま訊ねる。「どういう事だよ」
すると霧島は、上擦った涙声で囁く。
「本当は、小宮山君と二人きりになりたくて、それでウソを……ごめんね」
「って事は、お前、やっぱり女だった、のか?」
「うん……確かめて、みる?」
恐る恐る、オレは振り返る。すると、そこには白いブラジャーと白パンツを残すのみとなった、無防備な姿の霧島が―――。
胸こそ無いに等しいものの、たおやかな曲線を描くボディラインは間違いなく女のそれである。オレは視線を落とし、三角の白布に包まれたソコをさりげなくチェックする。
―――やはり、ない。
いよいよ霧島は、恥じらいで真っ赤に染まった顔を俯かせる。
「ご、ごめんね。私、ウソついちゃった……でも、初めて会った時から、小宮山くんの事が好きで、好きすぎて、もう、どうして良いか分からなくて……」
やがて霧島は、感極まったとばかりに、その長い睫毛の奥からぽろぽろと涙をこぼし始める。
そんな彼女の震える肩を、オレはそっと抱きすくめる。
「霧島……いや、葵」
「え?」
「実はオレも、初めて会った時から、お前の事が……」
「小宮山、くん?」
「オレの事は、修司、って呼んでくれ」
「修司くん……」
やがてオレ達は、どちらともなく唇を寄せる。霧島の吐息がオレの鼻先をくすぐる。
早まる鼓動、止まる時間。
そして、ついにオレは、霧島の艶やかで柔らかな唇を……唇を――――!!
ガタタッ!
「きゃっ!」
「葵っっ!?」
背後の物音と鋭い悲鳴に、オレは咄嗟に振り返った。と同時に、微かな期待と背徳感がオレの胸をかすめる。
純白のブラジャーと、純白のおぱんつ、おぱんつ、おぱんつ……
「……あれ」
そこには、崩れかけた跳び箱に背中を預ける霧島の姿があった。そして、その姿は―――
スカートの下に、当たり前のように重ね穿きされたジャージパンツ。
そう。多くのアホ男子が想像するような、スカートを脱ぎ、一旦パンツをむき出しにした上でジャージを穿くという二段階右折的なファンタジーは、そこには存在しなかった。
まぁ、普通はそーやって着替えるよね、うん。
「すみません、少し、よろけてしまって」
「ああ、そう……」
「あれ? 小宮山君は……まだ着替えていないんですか?」
「あ」
そう。いつしかオレは、背後で霧島が立てる衣擦れの音に注意を向けるあまり、己の着替えをも失念していたのであった。そんなオレの今の格好は、というと、体操着のシャツを首にかけ、かつカッターシャツのボタンを中途半端に外したままという、自分でも何をしたいのか分からない様相である。恐らくオレ自身も気付かぬ間に、謎の怪電波にでも脳みそがジャックされたのだろう。そうに違いない、いや、そういう事にしておこう。
「も、もちろん着替えるよ!」
オレは再び、胸元のボタンに手を掛けた。が、どういう訳か、いつもはテレビを眺めながらでも出来るボタンの着脱が、この時に限っては、実験用チンパンジーにでも頼んだ方が早いのではと思うほどに上手く行かない。
一方の霧島は、早々にスカートを脱ぎ終え、脱いだ制服を丁寧に畳み始めている。
冗談じゃねぇ! こんな中途半端な格好で、体育倉庫に取り残されてたまるかぁ!
ようやくシャツを脱ぎ終え、今度はベルトに手をかける。その様子は、自分で評するのも情けないが、散々大を我慢した男がトイレで見せる挙動そのものであった。
カチャカチャ、カチャカチャ……
頼む、頼むから早く外れてくれぇぇぇ!
と、その時だった。
ガラッ。
「え」
背後で、引き戸の開け放たれる無遠慮な音が響いた。と共に、薄暗い体育倉庫に、水銀灯特有の青みがかったオレンジ色の光が差し込む。
まさか……。
恐る恐る、振り返る。そこには―――
「何、してるの、あんた」
酷寒の眼差しをオレに投げつける、体操服を着た女子共の姿があった。
「いや、着替えを」
「せんせー、なんかぁー、男子が女子を襲ってまーす」
女子の一人が、フロアへ向けて声を張り上げる。
そこで、オレは初めて自分の姿を省みた。
今まさに目の前の美少女に対し、己が醜き凶器を突き出さんとする自分自身の姿を。
「あ、いや、オレはただ、着替えを」
「せんせー、男子がぁー」
「いや、違うって。ちょ、誰か話を聞いて……」
ご意見ご感想等お待ちしております。
何でもこいやぁああっていうか来てぇぇぇ!