四章
翌朝。
一応は従順かつ真面目な高校二年生を自負するオレは、あくまで時間通りに、いつもの教室のいつもの机へと腰掛けた。
いつもの事とはいえ、この椅子に座ると、何故か吐き気がする。
教室のそこかしこでは、今日も今日とて自我を持たない連中が適当に吹き溜まり、中身のないトークと浅薄な笑いと共に、泡のように空虚な輪を作っている。一体何が楽しくて、あんなアホみたいな笑みを浮かべているんだろう。オレにはさっぱり理解できない。
そんな空気人形みたいな連中の合間を、まるでエアホッケーの円盤よろしく、あっちに弾かれこっちに拒まれを繰り返す一人の男子生徒がいる。
やがて男子生徒は、誰にも相手にされないと見るや、何かを諦めたような顔でオレの方へよろよろと歩み寄って来た。しかも、その表情の底には“仕方ない、お前と話してやるか”なる卑しい憐憫まで漂っているのだから始末におけない。よっぽど、もよおしてもいないのにトイレに立ってやろうかとも思ったが、椅子から腰を浮かす前に奴の方から先に、「よう」などと声をかけてきたものだから、オレはとうとう席を立つ機会を逸してしまった。
「はぁ、何か用?」
用がなければ話しかけるな、といった意を暗に込めつつオレは返す。
奴の名を、中島と言う。ちなみに、奴ほど付き合うだに非生産的かつ非創造的な人間を、オレは他に知らない。こうして言葉を交わしている間も、時給を請求したくなるほどの手合いである。
見栄えは、まぁ中の中の中。極端に良くもなければ、極端に悪いわけでもない。先生に呼び出されない程度に髪を染め、コワい先輩に目を付けられない程度に服装を崩す。中肉中背、成績も中の中。よっぽど中が好きなのか、名前にまで中がついていると来ている。
「そういや知ってるか?」
「知らない」
「なんでも、今日から新しい転校生が来るらしいんだ」
「ああそう」
オレは早々に、奴との会話にウンザリした。かつて、コイツの「なぁ知ってるか」から火蓋を切られた会話で、建設的だったものは今まで一つとしてない。コイツが口にする事と言えば、どこぞのクラスの誰それが誰と付き合ったの別れたのといった、迂闊に耳を貸していると脳ミソまで溶かされてしまう代物ばかりだ。
転校生が来た? だから何だ? よっぽど、このぬるま湯みたいなクラスの空気をブチ壊しにしてくれるような、気骨のある変人なら大歓迎だが、モブにモブが一人追加されたところで、オレにとってはむしろどうでもいい。
「さっき職員室で、松岡と一緒にいる所をちらっと見かけたんだけどよ、もうマジ可愛くて!」
「ああそう」
可愛い? それがどうした。外面は可愛くとも、中身が鬼畜だったり露出狂だったり腹黒であるというケースは往々にしてありうるワケで。
―――けど。
オレの脳裏に、ふと、昨日の光景が蘇る。
もし、昨日のアイツみたいな奴だったら、そりゃ……。
「なぁ中島、―――もし」
「何だよ」
「もし仮に、だ。顔も体格も、ケチのつけどころがないぐらいに可愛くて、その上、性格も良くて優しくて、おまけに上品で……何から何まで自分好みの女子がいるとする」
「はぁ」
「けどな、そいつは実は男なんだよ」
「は? ……男?」
オレの言葉がよっぽど予想外だったのか、埴輪のような表情で中島は復唱した。
「ああ。女に扮した男だ。そんな時……お前なら、どうする?」
「どうする、って? 何をどうするんだよ」
「決まってるだろ? ……つ、付き合うか、付き合わないか」
すると中島は、毒霧のような濃い深い溜息をついた。―――ああ、お前が言わんとする所はよくわかる。あまりにも低脳な話題に絶句したんだろ? オレも、お前との会話でいつも同じ気分を抱かされているから良く分かるとも。
「何言ってんだよ、修司」
「ああ……確かに、何言ってんだろうなオレ」
「そんなもん、付き合うに決まってるだろ!?」
「―――は?」
「付き合うに決まってるだろ! んなもん、貧乳女子だと思えば全然問題ねぇって!」
「あぁ……なるほど」
改めて、オレは思い知らされた。
コイツの残念ぶりは、もはやオレの理解の範疇を超えている。
やがて、教室にホームルームの鐘が鳴り響くや、中島を含めた空気人形達はぞろぞろと席へ戻っていった。
ほどなくして、我らが熱血(だけが取り得の)担任・松岡が、騒々しく教室に飛びこんで来た。
「おはようううっ! 諸君っっ!」
教壇に上がるや松岡は、水球で鍛えた逞しい腕を教卓にドンと叩きつけて喚いた。
「今日はお前達にぃぃ、新しいクラスメイトを紹介するゥゥっ!」
どうやら中島の情報は本物であったらしい。なんとはなしに中島の座る斜め後ろを振り返ると、ほれ見ろとばかりに得意気な笑みを浮かべている。軽くイラっときたオレは黙って前へ向き直る。
「霧島、入れ!」
いよいよ松岡は、その転校生とやらをドア越しに呼びつけた。と共に、ガラ、と慎ましげな音を立てて教室の引き戸が開かれる。
そこに、転入生の白い顔がちらりと覗くや―――
がたっ。
オレは、日曜の三枝ばりに思わず椅子から転げ落ちた。
「どうした、小宮山」
「い、いえ……」
オレは慌てて椅子を立て直すと、何事もなかったように席に座り直した。だが、一度乱れた心拍数は、なかなか収まる様子を見せない。
迂闊だった。転校生と聞いた時点で、オレは勘付いておくべきだったのだ。
その転校生とやらが、昨日街で出くわしたあの女男であるという事を!
今のやりとりで、どうやらあちらの方もオレの存在に気付いたらしく、オレと目を合わせるなり、その白い額にみるみる青い縦縞を走らせた。
ところで、今更ながら突っ込ませてもらおう。
なんで、女子の制服を着てやがんだ、お前!
そう、奴が纏っていたのは、優駿館高校の女子生徒が身につける白いブラウスとライトブルーのリボン、瑠璃色のプリーツスカート、そして黒いニーソックスだった。
どういう事だ? 書類には確かに、男にマルが記されていたはずなのに。
いよいよカオスへと迷い込むオレの感情など知りもせず、“彼”は先生に促されるまま、黒板に自分の名前を記し始める。もちろん、それらの文字も読みやすく品があり、書道の嗜みを思わせる美しい字体である。
そんな“彼”の背中に、周囲の男共は揃いも揃って、むさ苦しい熱視線を教壇に投げつけている。中には、汚い顔を突き合わせつつ密談を交わし合っている奴らもいる。瞳に星を浮かべ、不気味な溜息を漏らす者さえいる。
もちろん先日の事さえなければ、オレも今頃は、あのイカ臭い獣達と共にババ色の溜息を吐き散らしていたハズなのだ。しかし、知るという事は、時に人間に、残酷な運命を強いるのである。知恵を得たアダムとイヴが、もはや二度と、楽園へと戻る事が許されないのに似て。
やがて名前を記し終えた“彼”は、絹の黒髪をなびかせつつ再び教室に向き直ると、はにかんだような笑みを、ちょこんと俯かせて見せた。
「き……霧島葵です、よろしくお願いします……」
教室がふたたびの溜息の嵐に見舞われる中、ただ一人オレだけは、奴の笑顔と、奴の記した名前とをひたすら見比べていた。
霧島葵―――一体、お前は何者なんだ?
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