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十六章

それから数十分後。オレは葵の実家兼道場の、その最寄駅へと降り立った。葵と共に、オレにとっては見慣れない商店街や住宅地を抜け、一路、道場へと向かう。

「今頃お爺様は、道場の方で門下生の方々に稽古をつけていらっしゃるはずです」

「そうか……」

 聞けば、その爺さんとやらは、あの霧島先生をも軽く投げ倒すほどの実力の持ち主であるという。葵の話を聞くにつけ、そして、葵の家が間近に迫るにつれ、オレの中の恐怖心はいよいよ鎌首をもたげてきやがった。とはいえ、一度話をつけると言い出した手前、今更引き下がる訳にもいかない。

 誰より、葵のためとあらば、引くという選択肢は、そもそもありえない。

「お兄ちゃん、道場の人達にフルボッコにされたりして」

「あらー、それは困るわー。お料理におせんたく、お掃除にお買い物をこなしてくれる人が、いなくなっちゃうー」

「ちょっと待て」

「?」

 背後の勝手な言い分に足を止めたオレは、振り返るや、先程からずううっと喉元まで出掛かっていた言葉を背後の二人に投げつけた。

「何でお前らまでついて来てんだよ!?」

「決まってるじゃん! 葵ちゃんの応援だよ!」

「そうそう。桃太郎然り、西遊記然り、仲間は多い方がいいでしょー?」

 姉貴と綾菜は、あくまでもマジメに―――少なくとも、マジメに見える表情で頷いた。

 葵の爺さんに話をつける、と立ち上がったオレに、いの一番について行くと言い出したのは葵ではなく綾菜だった。おまけに奴は、すぐさまメールで母さんと姉貴にも声をかけた。

 今、メイド服姿の綾菜の横に婦警(ミニスカ)姿の姉貴が立っているのはそのためである。グラビア撮影の途中にメールを受け取った姉貴は、撮影を終えるなり、着替えもせずにこちらへ駆けつけて来たのだそうだ。その格好から察するに、今回もまともな雑誌のグラビアではあるまい。

「そういう問題じゃねーよ! いいか、これは男の戦いなんだ! 女子供が観光気分で来ていい場所じゃねーんだよ!」

「まぁ失礼ー。観光なんかじゃないわよぉー。私は本当に、葵ちゃんを応援するために来てるの。ついでに、シュウくんがボコボコになる姿を見て、庇護欲とか母性本能を適度に刺激してもらえると嬉しいなーって」

 何故か頬を上気させる姉貴の横で、綾菜がアホみたいに拳を振り上げる。

「早くおにーちゃんがボッコボコになるの見たいっ! いつもイジメられてる分の復讐を、代わりに道場の人にやってもらいたいっ!」

「お前ら、どっちも立派な観光気分じゃねーか! オレが税関だったら、お前らの能天気なバカ面を見るだけで、ああ観光ですね、ってすんなりチェック通しちまうぞコラァ!」

「いいじゃなーい。堅い事言わないでシュウくーん。動機はさておき、私達はいつでも葵ちゃんの味方なんだからー」

「綾菜は道場の人の味方だけどねっ!」

「あ、ありがとうございます……」

 時期外れのハロウィン、いや百鬼夜行に、ただでさえ爺さんへの反逆に物怖じしている葵は、さらにヘコまされ、今や気の毒なほど身を縮こめている。

「あーもう! おかげで雰囲気ブチ壊しじゃねーか! ちっとも男の出陣って感じが出ないじゃねーか! 本当はもっとクールにビシッと乗り込んでやりたかったのにさぁ!」

「あらー、無理よ、シュウくんそういうキャラじゃないものー」

「お兄ちゃん、バカだからねー」

「アホのくせに人をバカ呼ばわりするなっ!」



 やがて道場に辿り着くや、オレは、建物そのものが醸し出す異様な雰囲気に、すぐさま回れ右をして我が家に帰りたくなった。

入口に掲げられているのは、豪胆な筆にて“霧島流柔術道場”と書かれた古い看板である。随分と年季が入っているだろう、墨は剥げ、板の端は随分と朽ちかけている。そんな物々しい看板を掲げる建物の方も、負けず劣らずの年季の入りようである。広い瓦屋根を伴った純和風の建物は、一見すると、つい、禅寺か何かと勘違いさせてしまう。が、その建物が決して禅寺などでない事は、建物内から響く野太い掛け声と、びたんびたんと畳を叩く激しい稽古の音が、看板よりもなお雄弁に証明していた。オレがいつも授業で耳にする畳の音がまるでテクノポップに思えてしまう程に、その音は重く、そして激しかった。

刺激的なのは音だけではない。鼻腔から脳天まで貫く血と汗の臭いは、空き巣でさえも迂闊な侵入を控えるであろう殺気じみた男のフレグランスである。

やばい。これは、迂闊に攻め込めば殺される、かも。

「大丈夫? 修司くん」

「う、うん。だいじょうぶ……」

 葵には申し訳ないが、今のオレは膝の震えを押さえるので精一杯だ。

 よし、ここはがっつり気持ちを奮い立たせて行こう。何故ならこちらには大義がある。名分がある。葵の心を守らなければならないという理由がある。それに、オレだって漢のはしくれだ。たとえ発育の悪いモヤシのような体格でも、一応は漢なのだ。毎日毎日、独裁主義者な母や変態露出狂の姉、デレのないツンデレな妹などの暴挙に耐えつつ、それでも雑草のように強く逞しく生きる、そう、オレは漢なのであるッッ!

 連中の様々な悪逆三昧を脳裏に思い浮かべつつ、オレは一人、腹の底に怒りのエネルギーを溜め込んでいった。よし、この調子で怒りを滾らせてゆけば、やがてオレも、千年に一人だけ現れるというあの金髪碧眼の伝説の戦士と化し――――

「あらーなぁに? この猛々しい匂い。何だか身体の芯がジンジンしちゃう」

「くっさ! なにこの臭いっ! ちゃんとデオドラントしなさいよっ!」

「すみません。うちの道場、臭いに無頓着な方が多くて……」

「お前らぁああっ! これから一人の男が一世一代の決闘に向かおうって時に、なに背中でべちゃべちゃシャべくってんだよぉおっ!」

 と、そこへ―――ギャギャギャギャ……キッ!

 道場前の駐車場に突如、派手なドリフトと共に一台の赤パッソがねじ込まれて来た。本来、女が好んで乗るような可愛らしいデザインの小型の軽を、これほど鮮やかに、そして雄雄しく噴かす女をオレは一人しか知らない。

 案の定、運転席から颯爽と姿を現したのは、白衣に聴診器まで装備した、どう見ても職場からそのまま駆けつけてきたと思しき母さんだった。

「あら修司、あんた、まだボコボコにされてないの?」

「それ、開口一番言うセリフじゃなくね? ってか、何しに来てんだよ母さん! まだ仕事中だろ!?」

「修司」

「?」

 途端、母さんは声と表情を鋭く改めた。

「自分の息子が男になる瞬間ぐらい、見守らせてちょうだいよ」

「……は?」

「懐かしいわ……。あんたのお父さんもね、お母さんを守るために、その頃私が付き合っていた男と、殴り合いのケンカまでしでかしてねぇ」

「はぁ……」

「その頃付き合っていた男が、そりゃもうヒドい男でね。ワガママで、ちっとも家事を手伝ってくれなくて、肉以外のおかずを出すとすぐに怒って、おまけにひどい酒乱で」

「それ全部、自分の事じゃ、」

「は? あんた今、何か言った?」

「いえ」

 なおも母さんは、懐かしげな遠い眼差しと共に続けた。

「やっぱりあんた、父さんの子ね。好きなコのために身体張って戦うなんて。ほんと、そういう向こう見ずで一途な所なんてそっくり」

「そう? ……けど、葵は男だぜ?」

「関係ないわよ。たとえ相手がノンケだろうと本職だろうと、好きになった人間のために戦うって、何だか素敵じゃない?」

好きになったら――――今一度、オレは葵を振り見た。

まっすぐな眼差しを放つ黒い瞳と、視線が鉢合う。

オレは、やっぱり葵の事が好きなのか? だから、戦おうとしているのか……?

「葵」

「修司、くん……」 

その深く澄んだ黒水晶の奥を、オレはじっと見つめた。そこは、黒という色合いからは俄かに連想し難いほどに、柔らかく、温かな光に満ちていた。二昔前のラブソング並に陳腐なフレーズだが……その瞳に、今すぐ飛び込んでみたいぃぃぃッ!

「ってか、さっさと行きなさいよ。こちとら休憩時間削って来てやってんだから」

「はい」

道場のそれを軽く凌ぐ殺気にアテられたオレは、弾かれたように前へ向き直ると、年代モノの看板を掲げる道場の入口をそそくさと潜った。

 

葵の案内で道場に通されるや、オレは一瞬にして絶句した。

百畳以上はあろうかという広大な柔道場では、見渡す限り、オレの体重の倍はあろうかという巨漢達が、汗染みで黄ばんだ道着にさらに新たな汗を滲ませつつ、掴み合ったり、足を絡めあったり、組み敷いたり、組み敷かれたり、押し倒したり、押し倒されたりする、くんずほぐれつ四十八手、失礼、地獄絵図を繰り広げていた。

 と同時に、いよいよ肺を蹂躙する男の臭い……。

「はぁん。ニオイだけで孕んじゃいそうー」

「確かに濃いわね。臭いも景色も」

「なんかキタナイぃ」

 案の定、背後の女達がぐちゃぐちゃと文句を交し合う。今更思う事でもないんだろうが、こいつら、一体ここに何をしに来たんだ?

「すみません。今、お爺様を呼んで来ます」

 と、葵が道場脇の廊下を、奥の屋敷へ向けて駆け出そうとしたその時だった。

「何だ、小宮山か?」

「え?」

 いやに聞き覚えのある銅鑼声に、オレは思わず顔を上げた。すると、葵の行く手に立ちはだかるように、クマの爪痕を刻んだ分厚い胸板を堂々と晒す、道着姿の霧島先生が立っていた。

「お父様!」

 が、先生は葵の声には応じず、相も変わらず仁王のような眼差しでオレを見据えている。

「貴様、何をしにここへ来た」

「あ、葵の……お爺様って人と話をつけに来ました」

「父上と? どんな話だ」

「葵を……葵の正体を、学校で公表させて欲しいと、お願いに上がりました」

 すると先生は、見る間にその顔を赤らめ、ただでさえ険しい造りの顔に、ことさらに憤怒の気色を浮かべていった。どうやらオレの言葉に含まれる真意を察したものらしい。

ぎろり。鉄をも溶かすような鋭い視線を、実の子であるはずの葵に食らわせる。

「どういう事だ。お爺様との約束を忘れたのか」

 その厳しい声と眼差しに、葵はびくりと身じろぎし、萎れるようにうなだれた。

「約束?」

 そういえば、以前にも葵は、約束がどうとか言っていた気がするな。

すると葵は、うんと頷き、そして申し訳なさそうに続けた。

「もし、家族以外の人に私の正体がバレてしまったら……すぐに学校を辞めるようにと、編入前にお爺様と約束を交わしていたんです」

「辞める!? 何で、そんな大事な話を今まで黙っていたんだよ!?」

 オレは、ただでさえ脆く崩れかけていた膝が、いよいよ粉々に砕ける心地を覚えた。そのような重いペナルティが存在すると知ってさえいれば、オレも、こんな直線的な手段に訴える事なくもっと別の対処法を考えていたはずなのだ。

 しかし、見苦しく狼狽するオレとは対照的に、あくまで葵は、その黒い瞳から強い光を絶やす事はなかった。

「……いいの」

「は?」

 決然とした口調で、葵はさらに言い放った。

「ウソをついたまま学校に通っても、クラスのみんなと一緒にいても、お友達なんて出来っこない。結局、今までと何も……一人ぼっちだった今までと何も変わらない」

「……葵?」

「私、もうウソなんてつきたくない! 私の事を、本当の私の姿を、受け入れてくれるお友達が欲しいの!」

 そんな葵の声は、稽古に勤しむ男達の声をなお吹き飛ばす勢いで、道場中に響き渡った。

「葵、貴様……」

 先生が、喉から搾り出すように呟く。―――と。

「何じゃ、騒がしいのう」

のんびりとした声と共に、巨体の背後から、いやに小柄な爺さんがのそりと姿を現した。身長は、せいぜいが葵ほどしかないだろう。つるりとした電球頭に、仙人のような長い白髭を蓄えた作務衣姿のその爺さんは、一見すると、縁側でひなたぼっこを楽しみながら盆栽いじりを楽しんでいる、そんな好々爺に見えなくもない。

だが、よく目を凝らすと、そんな爺さんの体躯は、随分と歳を重ねているだろうにも関わらず未だ衰えぬ逞しい腱や筋肉、そして骨格をがっちりと備えていた。さらに、その穏やかな眼差しは、その奥に、何やら得体の知れない獣の光をも帯びているかのように見える。

「お爺様……」

 呆然と見つめる葵につられるように、オレも今一度、爺さんに目をやる。

「お爺様? あの人が?」

 すかさず、先生の巨体が恭しく腰を折る。

「ち、父上、申し訳ありません」

「構わん。―――で、葵。自分が男だという事を、学校で明るみにしたいと?」

 早々に話の続きを切り出す爺さん。どうやらオレ達の会話を耳にしていたものらしい。

「はい。ウソを貫きながら人と接するような後ろめたい真似は、私には出来ません」

「なるほど……しかし、約束は、覚えておるんじゃろうな?」

「……はい」

 穏やかでありつつも、動じる気配のない爺さんの声に、いよいよ葵は身を縮めてうなだれた。

 おい、どうした修司。今こそオレの出番じゃないのか? 家庭内の事情に囚われ、身動きの取れない葵を救うために、オレはここに来たんだ。

 任せろ、葵。後はオレが―――

「爺さん、オレは、」

「だったら、いっそ勝負でもして、ケリをつけちゃえばいいじゃない!」

「―――は?」

 振り返る。すると、そこには自信に満ちた笑みと共にふんぞり返る母さんの姿が。

 ちょっとぉおお母さぁぁん! 今、オレが一世一代の男を見せるはずだった所ぉぉぉおっ!

「言っておくけど、お爺さん。うちの修司は強いわよ。それなりに」

「そうそう。特に朝のシュウくんなんか、それはもう……」

「だから、ボッコボコにしちゃって!」

「お前ら、どういう立ち位置で応援してんだよ!? えぇ!?」

「あのご婦人達は……?」

 訝しげに訊ねる爺さんに、葵が答える。

「修司くんの、ご家族の皆さんです」

 びき。

 途端、爺さんの眼差しに、鋭い殺意が浮かんだ、ような気がした。

「貴様、修司君と言ったな」

「は……はい」

 なおも険を帯びた声と面持ちで、爺さんは続けた。

「いいだろう。その勝負、受けて立つとしよう。万が一、貴様がワシに勝つことがあれば、先程の件を許す」

「は、はい」

「ただし―――」

「ただし?」

「貴様が負けた暁には―――」

「オレが、負けた時は……?」

 ごく。オレは思わず息を吞んだ。ひょっとして、二度と葵に接するな、といった類の条件を提示されるのではなかろうか。いや、それどころか……。

 何せ相手は、自分の孫の存在を隠すために、わざわざ女装を強いるようなトチ狂った爺さんであるからして、常識の範疇を超える条件を出してくるのはむしろ当然であるからして。

 まさか、今度はオレにも女装をしろとか? あまつさえ、マイサンを切り落として宦官になれとか? いやいや止めておけ。葵はともかく、オレに女装は絶望的に似合わんぞ。せいぜい空騒ぎの最後列に陣取ってる、さんまさんにオチとして使われる面白フェイス系のおねーさんになるのが関の山だぞ?

 一体、どんな条件を―――

「そのご婦人方を、ワシの孫娘として譲ってもらうっっ!」

「……はい?」

 瞬間、オレはリアクション芸人ばりに前のめりにコケる心地がした。

 別に、いいけど。

 むしろ、こっちからお願いしたいぐらいですけどぉ!?

「いやぁっ! そんなのいやぁっ!」

 その時、やおら背後で、綾菜が悲壮な声を上げた。

「あんなピンポン頭の干物ジジイに『おじいちゃん、ダイスキ!』なんて、死んでも言いたくないっっ! でもお年玉は欲しいっっ!」

「さすがに夜の介護はつらいわねぇー。それに私は、どちらかと言うと年下派なのー」

「私は大歓迎よ。むしろ妻にして頂戴。そして遺産を全額よこしなさい」

「お前ら、もうマジで帰ってくれよぉ!」

「……うらやましい」

ぽつり。一瞬、そんな独り言が、聞こえたような気がした。

「え?」

すると、やにわに爺さんは、こっちの心臓が止まりそうな大音声で喚いた。

「よおおし、修司君とやら! とっとと道着に着替えて、いざ尋常に勝負ぢゃああっ!」

「えええっ!? 結局やんの?」


 ほどなくして、道場の真ん中にて、道着姿のオレと爺さんが向き合う事となった。

今回、オレが初心者という事もあり、爺さんはこんな条件をオレに提示してきた。

「ワシが三本を取る前に、貴様が一本でも取れば、それは貴様の勝ちという事にしよう」

「わ、わかりました」

 道場の隅では、相も変わらず珍妙な仮装行列が展開している。白衣姿の母さんに、ミニスカポリスの姉貴、そしてメイド服の綾菜。その並びに据えると、小脇にちょこんと座る制服姿の葵までもが、何らかのコスプレに見えてしまうから気の毒で仕方ない。

 今一度、オレは目の前に立つ爺さんの姿に向き直った。

 改めて向き合うと、その立ち姿には、先程まで散々与太言を吐き散らしていた爺さんと、本当に同一人物なのか、と疑わしくなるほどの気迫が満ちている。存在感だけを取って言えば、身体だけは二回り以上デカいはずの霧島先生でさえ比にはならない。熟練の武道家は、道着に着替えると共に纏う気をも変えてしまうのだという。紛れもなく、爺さんはそんな練達の武道家に属していた。

 力量の差は戦わずして明らか―――とはいえオレは勝たなきゃならない。

 だとすれば、弱者が取りうる手段は一つ。

「あっ! 宇宙人!」

「なにっ!?」

 くる。と、爺さんが背後を振り返るや――――

 オレは、がら空きとなった爺さんの胸倉へと一気に掴みかかった。  

それは、自分でも呆れるほど見事な、そして卑怯な奇襲攻撃だった。いくら熟練の武道家も、この攻撃にはさすがに対応しきれまい……

「―――え?」

 次の瞬間、オレの足は宙に浮いていた。そして―――ダーンンッッ!!

「かは……」

耳を劈く畳の音と共に、内臓という内臓がいちどきに破裂する心地を覚えた。いつしかオレは爺さんの背負い投げを食らい、畳の上に四肢を投げうっていた。

「ほう、受け身はなかなかのものじゃな」

爺さんが賛辞を終えるや、遅効性の激痛が全身をくまなく襲う。気が遠くなるほど痛ぇ……これ、骨までイッちまってんじゃないか?

「だが、奇襲とはまるで感心ならん。武道とは礼に始まり礼に終わるもの。とはいえ、今のはきっちり一本に数えさせてもらうぞ」

 爺さんの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ、と思うや、オレの身体は、まるでワラ人形のように軽々と掴み上げられ、そして、いとも軽やかに宙を舞った。

 ちょっと待て爺さん、あんた、今いくつなんだよ―――

 バタァァンン!

「うぎっ!」

 そして再び、オレの全身を走る激痛。もし、霧島先生のシゴきを受けてでもいなければ、今頃オレは頚椎でも折って、マジであの世に旅立っていたかもしれない。

「ううむ、なかなかしぶといのう」

 痛みに霞む視界の隅に、ふと、葵の姿が映った。不安げな面持ちを浮かべ、しきりにオレと爺さんを見比べている。

ちょっと待てよ。オレは、お前にそんな顔をさせるために、ここに来たんじゃねぇ。

「とはいえ、これで二本じゃ。あと一本、それで貴様の負けじゃ」

「くそぉ……」

 やっぱり、無理だったのか。

オレごときの力で葵を救おうなどという考え自体、そもそもが無謀だったのか。

 ただのネクラのコミュ力ゼロの童貞が、誰かのために戦おうなんて、柄にもないコトを思い立つ事それ自体が寒かったのだろうか。

 そうとも、オレなんか……。

「負けないでぇ! 修司くん!」

 え?

「おにーちゃん! 負けたらマジで綾菜の足をおそうじさせるからね!」

「シュウくーん。勝ったらお姉さんがスゴくイイ事してあげるー」

「負けたら、お前も葵ちゃんと一緒に学校やめろ!」

 道場に響く、声援と言って良いのか分からない声援に、オレは、半ば折れかけた闘志が再びむくむくと起き上がる心地を覚えた。

 激痛を堪えつつ、身体を起こす。

脳内に無限ループで鳴り響くロッキーのテーマソング。

 そういや、良く考えたらロッキーの映画ってまだ一本も見てないや。けど、エクスペンダブルズはマジで面白かった―――って、今はスタローンの話はどうでもよくて!

「お、オレは、負けないっっ!」

 そう、オレは負けないんだ! 

何故ならオレには、応援してくれる、背中を後押ししてくれる奴らがいるから!

――――って。

立ち上がった途端、オレは唖然とした。

何だ、あの連中の格好は。

「あつぅい、この道場、すごく蒸れるわぁ」

 言いながら、シャツのボタンを胸元まで開く姉。

「うにゃー、あっついよぉ」

 呻きつつ、スカートでバッサバサと太ももを扇ぐ綾菜。

「ねぇちょっと、そこのお兄さん。コンビニでビール買ってきてくれない?」

 スカートがはだけるのも構わず、畳の上に堂々とあぐらをかく母さん。

「ってかお前らぁ! ここは自宅じゃねーんだよ! 所構わずくつろぐなぁ!」

 そんな不届きな来訪者共を、しかし、道場の連中は特に注意するでもなく、むしろイチローのバックホームにも似た眼差しでじいいっと見据えている。そして、それは道場長である爺さんも例外ではなかった。

 あの、超スキだらけなんですけど。

 オレはそっと爺さんに歩み寄ると、その腕を掴み、えい、と投げた。

 べち。

 そして、勝負は決まった。



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