十一章
果たして、これはデートとして定義されるべきか否か。
霧島葵が男である、という客観的事実に則るならば、これは決してデートとは呼べない。
しかし、だ。霧島葵が男であるという事実が観測されない限り、すなわち、事実がブラックボックスに収められている限り、デートであるという可能性もまた、同時に残されるのである。
白と黒、〇と一、デートとデート以外の何か。
本来、並立しえない二つの可能性が、同等の存在確率をもって同時並行的に存在する量子力学的現象を、それ即ちシュレーディンガーの猫と呼んだかどうか―――そんな事は今のオレにとってはどうでもいい。
むしろ問題は―――
明日、何を着て行けばいいんだ。
今まさにオレは、ベッドの上に広げられた十数枚のシャツやらジーンズの海を眺めながら、ただただ、とほーに暮れていた。
とっておきの一張羅で上下を固めるか、あるいは、相手の気兼ねを避けるべくラフなシャツでハズシを入れるか―――いやいや、あまりにもだらしない格好だと、オレのみならず葵にも恥をかかせかねない。
どうするオレ。どうする……?
そんなオレの傍らには、葵と別れた後に駅前の本屋でこっそり購入したファッション雑誌がページを開いたままで放り出されている。普段であれば、こんな雑誌なんぞ手に取る事さえしないんだが、今回ばかりは致し方ないというか、緊急措置というか。
服選びに疲れたオレは、なんとはなしに雑誌を手に取り、他のページをめくってみた。
雑誌には、服の選び方だけではなく、女子にモテるための効果的な方法であるとか、捕らえた女子のメンテナンス方法、果ては、アレの時にナニにソレを被せるタイミングなんぞまで懇切丁寧に記されている。だが、丁寧なのは結構なんだが、オレのようなモテざる人間には、いずれも敷居の高い話ばかりでどうも感情移入が出来ない。まるでスピーカー越しに宇宙人同士の痴話ゲンカを聞かされているような気分だ。
服選びの参考にと初めて買った雑誌だが、恐らく、もう二度と手に取る事はあるまい―――などと、漫然と雑誌と眺めていた、その時だ。
とあるページにて、紙をめくるオレの手がぴたりと止まった。
「な……な、ん、ぢゃ、こ、りゃ」
「シュウくーん」
背後の声に、弾かれたようにオレは振り返った。そこには、毎度おなじみ下着姿も露わな姉貴が、ノックもせずにオレの六畳間の入口につっ立っていた。
雑誌の写真と、寸分違わない肢体を晒した姉貴が。
「あ、あ、姉貴いいっっ! これっっ!」
開いたページを突きつけるや姉貴は、にぱぁと笑みをほころばせながら言った。
「シュウくん、もう買ってくれてたんだぁー?」
「い、いや、確かに買ったけど、オレはあくまで、服装の参考のために、」
「正直に言っていいよぉー。おねーさんのカラダでコーフンしちゃったーって」
「し、しねーよぉっ! ってか、こういう雑誌に載るんなら、家族に一言ぐらい相談しろよ!」
「大丈夫だよー。ちゃんとお母さんには相談したからー」
そう。たまたま開いたページに載っていたもの、それは、水着姿の姉貴のグラビアに他ならなかった。
っていうか何故、うちの姉貴がこんな雑誌に?
言わずもがな、こういう雑誌のこういうグラビアである。当然、姉の着る水着も、スポーツクラブで奥様方がお召しになるような競泳用の水着などではない。その多くが紐ビキニやらVバック、プレゼントのリボンみたいなキワキワのチューブトップといった、上乳、横乳、ならびに下乳を過剰に強調する類のデザインである。
まぁ、百歩譲ってその格好までは許せたとしよう。何せ、こちとら毎日のように奴の全裸姿を拝まされているワケで、当然、そのテの耐性はとっくの昔に身についている。
――――だが。
そんなオレにも、解せない事がある。
何なんだ、このポージングは! 表情は! そして、正体不明のぬるぬるは!
何で女豹なんだ! どうしてM字開脚なんだ! 何が不満で、いちいち物欲しそうな目でこっちを見てやがんだ! 何がどうなって、こんなに全身がぬるぬるしてんだぁ!
挙句に何だ!? このキャッチフレーズは!?
“おねえさんは今夜も欲求不満”って!?
「ってか、これがどういう雑誌か、分かってて載ってんのか姉貴っ!?」
「んー。全国の脳みそおたまじゃくしの男のコが、夜な夜なハァハァするために見る雑誌?」
「ああそうだよ! いや、本当はそれだけじゃないけど……けど、少なくとも姉貴の写真は、そーゆー目的のために載せられてんだ! 分かってんのか!?」
「あれー? 妬いてくれてるのー? シュウ君」
「妬くとか妬かねーとか、そういう問題じゃ―――」
ぐに。
「!?」
それは突然の出来事だった。あまりにも唐突に、姉貴がオレの懐に飛び込んできたのだ。と共に、豊満な胸が、オレの胸元に惜しげもなく押しつけられる。
ババロア並みに柔らかな胸が、姉貴か、もしくはオレが身じろぎするたびに、ふに、ぷに、とその形を変え、そのたびごとに、えも言われない柔らかな感触がオレの胸元を包み込む。
この胸が……この贅沢な胸が、全国の血気盛んなアホ共の目の前に!?
「大丈夫よ。シュウくん」
甘い囁きと共に、微熱を帯びた吐息がオレの耳をくすぐる。
「本物のお姉さんは、シュウくん一人のものだから」
ごくり。
チョコレートのように甘美なその言葉に、オレはいよいよ―――
「姉貴……」
姉弟という禁忌の壁を―――
「またどーせ、綾菜と賭けでもしてんだろ?」
「あ、バレたぁー?」
すると姉貴は、ひょいと顔を上げ、ニヤ、と、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。
その背後では、小憎らしい笑みを浮かべた綾菜が、ドアの隙間からそっとオレの部屋を覗き込んでいやがった。もっともヤツは、オレと目が合った途端に慌ててドアを閉じ、そそくさとドアの向こうに隠れてしまったが。
「シュウくんが欲望に負けてお姉さんを押し倒したら、ミルクバー一箱オゴってくれるってー」
「安っ! オレの貞操が、アイス一箱分って!」
「ところでシュウくーん」
「ん?」
「こんなにたくさん服を広げて、何してたのー?」
部屋を見渡しながら、姉貴は何を今更な事を訊ねた。むしろ普通は、そちらを先に訊ねるべきじゃないのか?
「ひょっとして、アブない新興宗教にでもハマっちゃったのかなー?」
「いや、ちげーし」
「別に救済を求めるのは構わないんだけどー、でも、お金は一銭も入れ込んじゃダメよー?」
「だから、ちげーって言ってるだろ!? ……あ、明日、友達と買い物に行くから、その服装選びに、迷ってて……」
「なるほど、デートかぁー」
ぎくうううっ!
あぶねぇ。危うくオレの心臓が、あばら突き破って外に飛び出る所だったぜ。
普段は、牧場で草を食む牛よりボーッとしている姉貴は、しかし時折、いやに鋭いカンを働かせては、周囲の人間を戸惑わせたりする。特に、他人の色恋沙汰に関しては、家族の誰よりも鼻が効くときたもんだ。自身の恋愛にはちっとも興味がないくせして。
「違う! フツーに男友達と買い物に行くんだよ! そう、男友達と!」
「隠さなくてもいいのよー。どのみち隠しきれてないしー」
「つ、つか、たとえデートだとして、姉貴には関係ないだろ!?」
「あるよー」
むう、とむくれながら、姉貴はさらに言った。
「将来、シュウくんのお嫁さんになるかもしれないコだからぁー、ちゃんとチェックしなきゃダメなのー。お姉さんとして、当然の務めでしょー?」
「そもそも彼女でも嫁候補でもないし! ほんとにただの男友達だし!」
「でも、顔に書いてあるよー。ウソだって」
「ああもう、いいから早く出てってくれよ!」
「んもう、しょうがないなぁー」
むくれつつも、ようやく姉貴はドアへと踵を返す。
「そいや姉貴」
「なーにー?」
呼び止めるや、姉貴は鳶色の目を見開きつつ振り返った。
「今度、ああいう話が来たら……一応、事前にオレに相談してくれよな?」
「あらー、心配してくれてるのー?」
「まぁ、多少は。家族だし」
にこ。
答えの代わりに柔らかな微笑みで応じると、いよいよ姉貴は、軽やかなステップと共にドアの向こうへと姿を消した。
ドアが閉まるやオレは、足元で開いたままとなっていた姉貴のグラビアに目を落とした。
ガキの頃、オレは当たり前のように姉貴と同じ風呂に入り、そして毎日のように姉貴の裸を目にしていた。その頃のオレにとって、姉貴の裸は、言わば風景の一部みたいなもんだった。
ところが中学に入り、姉貴の背丈を追い抜いた頃だったろうか、突然、姉貴の裸を見るのがためらわれるようになってしまった。
今だから思う。
無邪気にあの胸に埋もれていた頃の自分は、何と贅沢で、そして無知だった事か。
改めて見ると、いずれの姉貴も、まるでどこかの知らないお姉さんのようにキレイで、そしてエロかった。本当に知らない人なのか、それとも、弟のオレでさえ知らない姉貴の側面が写し取られているせいなのか。もし後者だとすれば、なんかちょっと、悔しい。
「やっぱ……妬いてたのかな、オレ」
翌日。オレはいつもの駅の改札口にて、葵が来るのを今かと待ちわびていた。
結局あの後、一晩に渡るファッション誌との格闘の末にオレが手にした真理、それは、顔とスタイルさえ良ければ、結局は何を着ても似合う、という、ミもフタもない真理だった。
たとえボロキレみたいなシャツだろうと、マジシャンみたいに派手な帽子だろうと、魔法使いかとツッコミたくなる尖った革靴だろうと、連中が身に付ければそれはもうオシャレなのである。そして、その逆も然り。
その真理を悟るや、途端、服選びにマトモな神経を働かす事がどーでもよくなったオレは、結果的に、とりあえず清潔感第一、という無難な選定基準を選び取った。オレが今、フツーのシャツとジーンズとスニーカーという、いかにも通行人Aな成りで改札前に立っているのは、ひとえにそのためである。
ところで昨日、ここで別れる間際に、葵はこんな事を言っていた。
「私、明日は男の子の服を着てくるね」
この言葉に、オレは軽く戦慄した。何せ、奴にとって男らしさとは、すなわち床のぬめった油臭い牛丼屋にて、頭がおかしくなるほど巨大な牛丼をかき込む事に他ならないのだ。そんなズレた世界観の人間が思い描く男の子の服とやらが、真っ当な服であるはずはない。下手をすると、ラーメン屋の本棚に置かれてるような古いマンガに登場する、昔の番長みたいなボロボロの学ランと学帽で身を包んで来ないとも限らない。
川べりで摘んだ草を咥え、安い焼酎瓶(恐らくは大二郎)を片手に、カランコロンと高下駄を鳴らしながら現れる。想像するだに頭痛をもよおしそうな光景である。もっとも、葵が着るのであれば、ある意味そういうプレイとしてなくはない……いや、ねーよ! つか、どんなにコアなコスプレマニアでも、さすがに番長には萌えね――――
「修司くーん!」
「んあ?」
不意に改札から響いた声に、オレは出しかけたあくびを慌てて噛み殺した。「おう」などと応えつつ、声の方を見ると、案の定、改札の向こうからこちらに手を振る葵の姿がある。
その姿を見るなり、オレは思った。
これのどこが、男の格好なんだ?
ノースリーブのカッターシャツに、チェック柄の細ネクタイ、そして、白いシャツの裾からちょこんと覗くのは、ホットパンツか、と言いたくなるほど丈の短いショートジーンズ。
今まではスカートに覆われていて気付かなかったんだが……あいつ足長ぇ。そして細ぇ。
で、その白くて長くて細い足先には、可愛らしいチェック柄のスニーカー。
あの、番長どころか、超絶可愛いんですけど。
駅前を行き交う男という男が、揃いも揃って葵の姿に振り返る。確かに、ヤツを男だと知らなければ、オレだって今頃は、うっかりヤツの姿に心奪われていたかもしれん。
そんな超絶可愛い葵が駆け寄るなり、オレは早速、奴に訊ねた。
「お前……昨日、男の服を着て来るとかそんな事を言ってなかったか?」
すると葵は、頭に乗せたチェックのハンチング帽をちょこんと傾げながら、照れ臭そうに顔を赤らめた。
「うん。だから……初めてパンツルックに挑戦してみたんだけど……」
こいつ、勘違いしてる……ものっすごい勢いで勘違いしてる!
パンツさえ穿けば……スカートでさえなければ男に見える、だとぅ!?
いや、違うぞ修司。これは、言葉のあやを巧みに利用した思考のトラップだ。そう、こいつの言った“男の服”とは、最初からボーイッシュファッションの事を指してたのだ。ああ良かった。謎が解けた。いやむしろ、これで解けた事にしておこう。
「似合う、かな?」
不安げにオレを見上げる葵の潤んだ瞳に、もはやオレは―――
「ああ……似合うよ、すごく」
と、答えるより他はなかった。
まぁ実際、身悶えするほど似合ってはいたんだが。
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