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十章

「わぁ」

オレの弁当を覗き込むや、葵は、歓声と共に黒水晶の瞳を大きく見開いた。 

「今日のお弁当も、すごくおいしそう」

六月も半ばに差しかかろうとしているというのに、未だ梅雨前線の足音どころか気配さえ感じ取れない良く晴れたある日。

この日もオレと葵は、校舎の屋上にて二人で弁当なんぞを広げていた。

「なぁ、葵」

「はい」

「いつも思うんだが……お前、足りるのか? そんなんで」

 オレの問いに葵は、質問の意図がわからない、とばかりに不思議そうに小首を傾げて見せた。

 そんな葵の膝に乗っかっているのは、普通の男であれば早弁にもなりはしない、握りこぶし大のこぢんまりしたお弁当、ただ一コのみである。その中身は、黄金色のタマゴ焼きにタコさんウインナー、プチトマトにブロッコリー、そして、ふりかけゴハンを一口大に丸めた、小さなちいさなおにぎりが数個。

 オレは思う。弁当とはすなわち、作る者、食う者の人間性の縮図であると。

そこには、ジイさんが盆栽に入れ込むのと同じ意味合いが存在する。すなわち弁当という、せいぜいが片手で収まるこの小さな箱に込められるのは、そいつの世界観であり宇宙観であり哲学である。例えば、手前味噌で申し訳ないが今日のオレの弁当には、豚バラの煮付けにおから炒め、ゴボウのキンピラに豆のサラダ、冷凍モノではない自家製肉団子にコロッケなどが詰められている。オレの弁当が織り成す宇宙は、かように豊かな多様性と、あふれんばかりの彩り、そして味わいに満ちている。ちなみに、あの暴君共の弁当をこさえた後の残り物を詰めただけ、という話は、ここではどうか触れずにおいて頂きたい。

一方で我が悪友・中島が毎日のように食する特盛カルビなんとか弁当には、牛と米、そして膨大な化学調味料が、彩りもクソもなくごっちゃに詰め込まれている。まさしくヤツの浅薄な人間性を表象していると言えよう。

 そこへくると葵の弁当は、栄養バランスを考えて作られたおかず達が、いずれも食べやすく一口大に揃えられ、彩り良くきれいに詰められている。奴の慎ましさと可憐さ、そして美的センスを表していると言えるだろう。また、小分けにされているという事は、友人とおかずの交換がしやすい、という事でもある。食事を共にする友人へも配慮した、まさにシンプルかつ気配りの行き届いた弁当なのだ―――というワケで、葵。良ければ、そのタコさんウインナーをオレに分けて頂きたいんだが……。

「どうしたの? 修司くん」

「え?」

「私のお弁当、やっぱり、ヘン……かな?」

「ど、どうして?」

「ずっと、その、私のお弁当を見てるから」

「あ、いや、そういうつもりじゃなくて、オレはただ……」

 ―――言えない。

 オレのおかずと、そのタコさんウインナーを交換してくれ、の一言が言えない。

 いや、そもそもオレと葵はただの友達同士であって、弁当の中身を突っつき合ったり、「はい、あーん」なんぞの行為が許される間柄ではない。まして男にとって、己の弁当は言わば領土である。縄張りである。むやみに他所の弁当勢力の侵入を許したり、自国の資源を譲り渡すような真似はしてはならん。それが男同士の食事のマナーでありルールである。互いの皿の物を平気でついばみ合うのは女の所業だ。男たるもの、無闇に女の真似事をしてはいかん。

 だから、たとえ葵の弁当にひしめくタコさんウインナーをおいしそうだなと思ったとしても、それは絶対に、口に出してはならない。

なぜならオレ達は、男の友情を契り合った仲なのだから。

「修司くん」

「え?」

振り返る―――と、そこには。

「これ……良かったら、食べて?」

差し出された葵の箸先にちょこんと挟まれた、一匹のタコさんウインナーの姿があぁぁぁ!

「え、ででででも、それ葵の……!」

「これは、修司くんの分」

「んのっ!?」

 修司くんの分って事はつまり、最初からオレの分を見越した上で、いつもより少し多めにタコさんウインナーを作りました―――と、そういう事なのか?

しかも、だ。タコさんウインナーに添えられたその左手は、どう見ても、「はい、あーん」にしか見えぬではないかっっ! いやむしろ、これは「はい、あーん」なのか? 「はい、あーん」と見なしてもいいのかっっ!?

 仕方ない。男同士の流儀には反するが、ここは遠慮なく、貴様の好意に甘えるとしよう。

一人合点したオレは、早速、葵の差し出したタコさんウインナーにかぶりつい―――

「じゃあ、ここに置いておくね」

「え?」

すると葵は、早々にそのタコさんをオレの弁当箱に移し、その後は何事もなかったかのように、再びちまちまと自分の弁当を突っつき始めた。

「あ……ありがと」

 手元の弁当に佇む小さな火星人を見下ろしながら、オレは今一度、己にきつく言い聞かせた。

だからさぁ、男の友情だっつてんだろ! オレっっ!



男の友情を結んでください。

オレにとっては死刑宣告にも似たその言葉が言い渡されてより、早くも一週間が過ぎようとしている。

体育倉庫の一件以降、葵は―――霧島の事を、近頃はこう呼ばせてもらっている―――事あるごとにオレとつるむようになっていた。曰く、生まれて初めて男友達というものが出来た事が、嬉しくてしょうがないのだという。

 生まれながらに身体が弱く、中学を卒業するまでろくに学校にも通えなかったという葵は、これまでは、男友達どころか友人そのものを作る事さえままならなかったのだそうだ。そのため葵は、部屋で一人寂しく過ごしながら、友達、それも男同士の友情というものに憧れていたのだという。

そんな葵の求めに応じ、オレ達は男の友情を結ぶに至った訳だ、が、事情を知らない人間にしてみれば、その様子は、どう眺めすかしてもデキているようにしか見えなかったろう。

「なぁ、修司」

午後の体育の授業にて、葵の父親でもある霧島先生による柔道の指導を受けていた時のこと。

柔道場の隅にて大人しく正座を決め込んでいたオレに、ふと、中島が膝と共に卑しい笑みを寄せながら言った。

「お前、いつの間に霧島さんとあんなに仲良くなってんだよ」

「話しかけるな。先生に目ぇつけられたら大変だぞ」

 かつて北海道の原野に籠もり、ヒグマと格闘しつつ生き延びるという荒行をこなしたと言われる霧島先生は、身長一九〇以上、体重は一〇〇キロを超えるガチムチの巨漢である。骨張った顔や分厚い胸板には、当時の修行の名残であるヒグマのひっかき傷が幾筋も走り、道着の胸元から、その異様を惜しげもなく露わにしている。また、霧島先生は指導の厳しい事でも有名で、顧問を務める柔道部はもちろん、半ばお試し気分のオレ達授業組にさえも、容赦のないご指導ご鞭撻をくれやがるのだった。

そんな霧島先生に、ひとたび不真面目な態度と見なされるや最後、もれなく地獄の受け身百連発がオレ達を待っている。にも関わらず中島は、バカなのか怖いもの知らずなのか、あるいはその両方なのか、オレの制止を聞かずになおも続けた。

「答えろよ。どんなテを使ったんだよ、お前」

「さーな。オレと友達になれたのが、嬉しくてしょうがないんだとよ」

「嬉しいだぁあ!? だって相手は、ついこの間までストーカーだった奴だぜ!?」

 絞め殺される直前の鶏のような悲鳴が、さして広くもない道場にこだまする。ただでさえ私語厳禁だってのに、さらにストーカーなどという不穏当な言葉を無遠慮に喚きやがって。

 案の定、道場の向こうから霧島先生の鋭い一瞥が寄越される。まずい、これはイエローカードだ。が、一方の中島は、そんな事には気付きもせずにさらに続ける。

「お前知ってるか? 霧島さんつったらもう、クラスの男子でも狙ってないヤツがいねぇってぐらい、今期最注目株の女子なんだぜ?」

「へぇ」

 ちなみに中島は、葵が男だという事を知らない。もちろん、クラスの男連中も。

「そんな奴と毎日一緒に昼飯を食えるなんて、どれだけ贅沢なんだよチクショウ! 他の連中もみんな言ってるぜ。小宮山のクセに生意気だって。気付いてたか?」

「いや」

 オレに言わせれば、連中の方がよっぽど贅沢だ。真実も知らず、サルのように無邪気にリビドーを滾らせておれば良いのだから。

「くそっ、霧島さんと毎日毎日、一緒に弁当……羨ましすぎるっ!」

「しらねーよ。あっちが勝手にツルんで来るんだから」

「しらねぇ、じゃねーよ! つか、そもそもテメーは恵まれすぎなんだよ!」

「オレが? 何で」

「だってよぉ。美人で巨乳なお姉さんに、メチャクチャかわいい妹もいてよ。おまけに、お袋さんもすげぇキレイで……美人にばっか囲まれて暮らしてるもんだから、感覚がマヒしちまってんだよ!」

 それは見解の相違というものだ。そんなもん、望みとあれば今すぐ梱包して宅急便で送りつけてやっても良いぐらい、有難くも何ともない。無論、商品到着後の返品及びクレームは一切受け付けない。

「なぁ修司、一つ確認していいか?」

「だが断る」

「お前と霧島さん、ぶっちゃけ付き合ってんの?」

「は?」

「は、じゃねーよ。付き合ってんのか、って訊いてんだよ」

「……やっぱ、そう見えるのか。オレ達」

「どー見ても、そうとしか見えねぇよ!」

「―――誰が、うちの葵と付き合っているだと?」

「え」

 やおら頭上から響いた銅鑼声に、オレと中島は一瞬にして身を凍らせた。

 油の切れたロボットよろしく、ぎちぎちと顔を上げる……と、そこには案の定、ぶっとい眉の間に深い皺を寄せ、憤然とオレ達を見下ろす霧島先生の姿があった。

「お前達、私語は厳禁だと言っているだろう」

 再び先生が唸るや、すかさず中島は額を畳にこすり付け、調子の外れた縦笛のような声で赦しを請うた。

「しゅ、しゅみましぇん先生! ボクはただ小宮山に、先生の娘さんにちょっかいを出すなと注意をさせて頂いていただけで……」

「はぁ!? 中島、てめぇまさかオレを、」

「そうか……貴様が葵の……」

 ぎろり。鋭い双眸から、重量のある殺気が叩きつけられる。やばい、この流れは―――

「小宮山」

「はい」

「来い。友人の父親として、貴様の緩んだ心のネジをぎっちりと締め直してやる」

 こうして、まんまと中島の策謀にハメられたオレは、奴の思惑通り、霧島先生による背負い投げ百連発をきっちりと食らう羽目になったのだった。授業終了後、なぜかクラスの男連中が揃いも揃って清々した笑みを浮かべていたのは、ボロ雑巾と化したオレの姿に、日頃の溜飲を下げたためであろう。



「ごめんね、修司くん。父のせいで……」

 放課後、葵と共に、最寄り駅へと続く商店街を歩いていた時の事だ。ふと葵が、すまなそうにオレに切り出した。

 ちなみにオレはこの時、先程の受け身百連発によるダメージのせいで、見事な全身シップ人間と化していた。よほど臭うのだろう、すれ違う犬共がことごとくオレを避けて通っている。

「い、いや……いいんだよ。どうせ悪いのは中島だし」

 そう。全てはあの憎き中島に起因している。

 奴はハナから計算の上で、オレに近付き、そして会話を吹っかけたのである。それが証拠に奴はあの後、してやったりのドヤ顔でクラスの連中に擦り寄っては、自分の手柄をアピールして回っていた。人の輪に取り入るために、貴重な友人をも平気で敵に売り渡す。その浅はかさこそ、他者にソッポを向かれる主な原因だという事を、奴はまるで気付いていない。

 中島の話はこの際どうでもいいとして、この時のオレには、一つだけ解せない事があった。

「ちなみに先生……いや、葵のお父さんは、もちろん葵が男だって事を知ってるんだよな?」

「え、ええ。もちろん」

「じゃあどうして先生は、オレを投げ飛ばしてた時、『この悪い虫めっ! 悪い虫めっ!』って、やたら連呼してたんだ? ただの男友達に悪い虫はないだろ、普通」

 すると葵は、やにわに顔を赤く染めて俯いた。

「た、多分、それは、私が女だって事をクラスのみんなに印象付けるための、父なりの演技だったんだと思う」

「演技、ねぇ」

 その割には、殺気がハンパなかったんですけど。

「実は……修司くんが私の正体を知っている事を、父はまだ知らないの」

「へ?」

「だから父は、余計に修司くんを私から遠ざけようとしているんだと思う。事態が複雑化するのを防ぐために」

「今でも充分すぎる程複雑なんだけど……つか、だったら話せばいいだろ? 小宮山は私の正体を知ってますってさ。そうすりゃお父さんも安心するし、オレも投げ飛ばされずに、」

「それは、ムリ」

 やおら、葵は鋭い声で言い切った。

「え? ……どうして?」

「もし家族に知られたら、私……」

 その時、ふと葵は、とある店の前で足を止めた。

「ん? どした?」

 葵につられるように、オレも葵の視線を追う。すると―――

「漢の、花道?」

 そこには、大仰なかぶき文字で『漢の花道』と記された、野趣溢れる看板が掲げられていた。

男気牛丼屋『漢の花道』。

 そのワイルド(雑)かつストイック(低予算)な外観は、一見すると、どこぞの格闘漫画の主人公が山篭りのためにこしらえたかのような、即席の山小屋を髣髴とさせた。なんとかウォーカーよりもむしろ、プロレス雑誌のレスラー一押しグルメ欄で取り上げられる事が多いとさえ言われるこの『漢の花道』は、客の五割が運送業や土建業の従事者、残りの五割がラグビー部やら柔道部などのパワー系運動部に属する大学生という、いつ何時、隣り合う客同士で仁義なき抗争が勃発してもおかしくない(実際、かなりの頻度で勃発する)、非常に男気あふれる店である。

言うまでもなく、その客の一〇割は、男だ。

「一度、行ってみたいと思っていたの。ここ……」

「え、ここ!?」

 オレの問いに、黒水晶の瞳にキラキラと星を散らしながら、葵はうっとりと頷いた。

「はい。男友達が出来たら、ぜひ一緒にって……」

「そ、そう」

 葵の突然の申し出に、オレは完全に困惑していた。なぜならこの店のメニューには、そこいらの飯屋にはありえない、ある決定的な特徴があったからだ。

「けど、い……言っとくが、量が半端じゃないぜ、ここの牛丼」

 そう。この店は、そもそも女子供が客として訪れる事を全く想定に入れていない。その顕著な例が、ここの看板メニューである牛丼(並)だ。 

ざっと説明すると、バレーボールほどの径のどんぶりに、同じくバレーボール程度の容積の白飯と牛肉炒めがぎっちり盛られているとイメージすれば良い。ちなみに以前、中島と連れ立ってここに食いに来た時などは、食べ盛りの男子高校生であるオレ達でさえ、半分ほど白飯を残したところでギブアップを強いられた事がある。ちなみに、ハーフサイズなどという胃にやさしいメニューなど、ここにはない。

ところが、そんな事を知ってか知らずか、葵は平然と言った。

「大丈夫。私一人ではムリだけど、修司くんと一緒に食べれば」

「は? って事は、二人で、一杯?」

「はい。ひょっとして、二人で一杯じゃ足りない?」

「いや……むしろ余るぐらい……」

 この時、オレの脳裏に非常にイヤな悪寒が走った。二人で一杯を食すという案自体にはオレは賛成だ。むしろ、葵と同じ皿をついばむシチュエーションには興奮すら覚え―――いや、食物のロスが減り、エコの観点からも良案と言えるだろう。

 だが―――問題は、場所である。

店の空気が、果たしてそんな甘酸っぱい所業をオレ達に許すかどうか、なのだが。

 早速のれんを潜る―――や否や、

「ぃいるぅあぁっしぇあいぃますぇええぃっ!」

 ここどこの剣道場? と思わしむる程の奇声、いや掛け声が、オレの出鼻を挫いた。

「いちぃめぇええさまっすかぁぁあぁああ!?」

「あ、いえ二名で」

「にむぇいいいさまはいるぃやしたぁあああ!」

「ど、ども……」

 さりげなく身を縮めつつ、オレは店内を見渡した。と、そこには案の定、LAの麻薬取引現場にも似た殺伐とした空気が漂っていた。一〇席ほどのL字型のカウンターと、五卓ほどのテーブル席は、いずれも、どこの有明コロシアムからお越しですかと問いたくなる程のガタイの男達によって、みっちりと埋め尽くされている。

 つか、室温高ぇ……あと湿度も。

「わぁ、いい匂い!」

オレに続いてのれんを潜った葵が、鈴のように華やかな声を響かせた。

―――と、その刹那。

ぴきいいいいっ。

 店内の空気が、一瞬、それとわかるほどに硬直した。と共に、それまで黙々とドンブリに顔を埋めていた男達が、ぎろ、とこちらを一瞥する。 

覚悟してはいたけど……やっぱ、そうなるよね。

 重火器のような視線を脇目に、オレは早々に食券を買うと、葵を引き連れ、たまたま空いていた手前のテーブル席へそそくさと座った。

 水を運んで来たお兄さんに、食券を差し出したその時だ。

「一杯だけすか」

 いかにも、昔はやんちゃしてました系の金髪お兄さんが、薄い眉毛をぐいと寄せ、軽くメンチを切りながら訊ねて来た。客商売でそれはどーかと思う程、敵愾心むき出しの表情ではあったものの、そんな彼の態度を非難する気にだけはオレはどうしてもなれなかった。

 むしろ……やっぱ、そうなるよね。

「やっぱ二人で一杯ってのはダメみたいだな。どうする?」

 ところが、オレが振り返るや葵は突如、ふるふると瞳を潤ませ始めた。

「え? なな、何で泣くんだよ?」

「ご、ごめんなさい、私一人じゃどんぶり一杯なんて、とてもムリ……」

「うん、うん。わかったから、もう泣くなって、」

「どうしよう。もし残しちゃったら、私のために命を落としてくれた牛さんが、お米さんが、かわいそう……ごめんなさい、ふぇっ、みんな、ごめんなさい……ふぇっ」

「ああ……なるほど」

いよいよ小刻みな嗚咽を始めた葵をなだめつつ、オレは店内の空気に注意を向けた。

 あああ……やっぱり、すげぇ殺気立ってるぅぅぅ。

 あからさまなケンカ目線で、ちらちらとこっちを伺ってるぅぅぅ。

 分かるぜ同志よ。なぜならオレも、孤独を愛する男の一人なのだから。

だからこそ、どこぞの浮わついたチャラ男が、このような男の聖域を自分の彼女で穢そうものなら、そいつを八つ裂きにした挙句にミンチにし、ハンバーグに捏ねた上で愛犬のエサにくれてやりたくなる気持ちは、死ぬほど良く分かる。いや、オレの場合、正確に言えば決して穢してなぞはいないのだが、お前達からすれば十二分に穢していると見えよう。

 その上、その連れと、一杯のドンブリを分け合いたいと。

一杯のドンブリを、二人で仲良く突っつき合いたいと。

「―――で、一杯だけすか」

 再び、店員がオレに訊ねる。いよいよその声に、カミソリを思わせる鋭利な殺意が宿る。

 どうする、オレ。

この空気じゃ、二杯頼まなきゃマジで店員に殺される。

 運良く店員に殺されなかったとして、客の誰かに殺される。

 かと言って、二杯頼んだ挙句に食い残せば、間違いなく葵は自分を責める。

 どうするオレ。どうする……

 切り抜ける方法は、ただ一つ。

完食、するしかねぇ。

「すみません……じゃ、もう一杯……」

 新たな食券を買うべく、オレはゆっくりと席を立った。

 そして、その五分後。

オレ達のテーブルに、バレーボール大の二つのどんぶりが聳え立った。 



「今日は、本当にごめんね」

 駅の改札前にて別れる間際、葵は本日何度目とも知れない「ごめんね」を口にした。

「本当に、色々迷惑をかけてしまって……」

「きにすんな、って、言ってるだろ……うぷ」

「ごめんね修司くん。迷惑ばかりかけて……」

 先程から葵は、泣きそうな顔で「ごめんね」ばかりを繰り返している。葵にこんな顔をさせたくないがために、ほぼ二杯近くの『男盛り丼』を平らげたオレの努力と胃袋は、今のところ、完全な水の泡と化していた。

 今日は金曜日だ。このままでは、ダウナーなテンションを引きずったまま互いに週末をまたぐという、最悪の結果を迎える事になる。できればそれだけは避けたい。だが、何とか気分を高揚させてやりたいとは思うものの、今のオレの体力と精神力、そして腹具合では、とてもじゃないがテンションを浮上させるのはムリだ。

オレの方こそ、ゴメン。お前を慰める方法を、見つけられなくて。

これはいよいよブルーな週末を迎える事になるな、と覚悟した、その時だ。

 突然、葵はきっと顔を上げ、決然と切り出した。

「私、決めた」

「決めた? ……どんな?」

「もっとたくさんご飯を食べられるように、おなかを訓練する」

「訓練? どんな訓練だよ」

 すると葵は腕を組み、小首を傾げてうーんと唸った。

「ええと……朝ごはんを増やしたり、お弁当箱を、もっと大きくしたり……」

 確かに、食べる量を増やすのは、胃袋をデカくするには手っ取り早い方法だ。……だが、食べる量が増えるという事は、同時に、摂取カロリーが増える事も意味する。で、摂取カロリーが増えるという事は、それすなわち、太りやすくなる事を意味するワケで。

「いや、オレは今のままで、いいと思う」 

「どうして?」

「ど、どうして、って……いいんだよ。無駄に食い過ぎたって、どうせ健康に悪いだけだし」

「でも私、もっと男の子らしくならなきゃ。そうすればきっと、お爺様も私のこと―――」

 と、そこで葵は、何かを言いかけた唇を慌てて閉ざした。その瞳は、物音に驚いた小動物のように大きく見開かれている。

「お爺様?」

「う、ううん! 何でもない、何でもないから! 別に、私とお爺様との間には何も……」

「あ、そう」

何もないと言われて本当に何もないと信じるバカはいまい。そんなにフラグを立てたくなければ、そこは軽く聞き流しておけば良いものを。

葵の爺さん―――って事は、霧島先生の親父さんか? その爺さんと葵の間に、一体何があったというのだろう。

「そ、そうだ、修司くん」

「ん? ああ……どうした?」

「明日……空いてる? 土曜日……」

「明日? 空いてるけど」

 即答したオレは、しかし、実のところヒマであるはずはなかった。本来であれば土曜日のオレは、ウィークデーに溜まった掃除や洗濯などの家事を、一挙に片付けねばならない事になっている。

 だが、それが何だというのだ。

 その程度の障害で、オレ達の間に結ばれた男の友情を、引き裂く事などできようものか。

 たとえ、友情のために死を突きつけられようと。

 たとえ、トランクス一丁で一晩中ベランダに立たされようと。

 たとえ、夕食の間中、妹に屈辱の人間椅子を強制されようと。

 たとえ、大キライなアサリの味噌汁を、鍋ごと丸々食わされる羽目になろうと。

 オレはお前との友情を優先するぞセリヌンティウスっっ!

「で、どうした? 葵」

 すると、葵は途端に頬を赤らめ、気恥ずかしそうに俯きながら、ぽつりと言った。

「新しいお弁当箱を、一緒に選んで欲しいの……」


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