序章
世は永禄。都では室町幕府がその威光を取り戻し、一見すると天下は再びの安定を謳歌しているかのように見えた。
――だが、それは欺瞞に満ちた平穏にすぎない。
応仁の乱の泥濘から這い出たのは、名もなき怨嗟の凝塊、そして人間と交わりて数を増す人食いの「鬼」どもであった。
刀剣で断ち切れる生類とはいえ、その恐怖は確実に人々の日常を侵蝕し続けている。
越前の名門・朝倉家。
その血脈に連なり、軍神と称された祖父・宗滴の薫陶を受けながらも、永平寺の冷厳な山門で十年を過ごした少年・朝倉景恒。
禍根うず巻く敦賀の地へ赴いた彼は、静謐な寺の石段を離れ、牙をむく暗黒の戦国世界へと踏み出す。
世は、単なる戦国の乱世ではない。 室町の世、応仁の巨禍を経て衰微の極に達した足利幕府であったが、奇怪なことに、その後突如としてその威光を盛り返した。三代義満の全盛を思わせるほどに幕権が復興した背景には、ひとえに異形の存在――「妖怪」の出現という、未曾有の災厄があった。 京師を灰燼に帰した応仁の乱。その泥濘の中に生み出された人々の怨嗟と悲痛の念は、やがて巨大な怨念の凝塊となり、冥府の扉を押し開いた。日本各地で百鬼夜行の如く魑魅魍魎が蠢動しはじめたのは、この時である。 地方を領する大名群雄は等しく狼狽し、この怪異への対処に追われてその国力を著しく消耗させた。結果として彼らは、再び京都の幕府という巨大な権威に縋らざるを得なくなったのである。九代将軍の陣中没後、跡を継いだ十代将軍義稙は、直ちに「悪鬼成仏」の勅命を掲げ、諸国の武士をその傘下に糾合した。陰陽師を各地へ派遣し、一時的にせよ怪異の征伐を推し進めたのである。
だが、真に窮極の災厄と呼ぶべきは、人食いの「鬼」であった。 彼らは他の魑魅魍魎と異なり、旺盛な繁殖力を備えていた。その種族には雄しか存在せず、故に鹿や牛、果ては人間をはじめとするあらゆる生類と交わり、己が血脈を猛烈な勢いで増やしていったのだ。日中の光を恐れず、人間に酷似した歪んだ知性を有するこの悪鬼の横行は、到底、数限られた陰陽師の加持祈祷などで防ぎ得るものではなかった。 幕府も諸大名も沈黙し、恐怖の闇に呑まれかけた。 この膠着した絶望を打ち破ったのが、越前朝倉家の当主・朝倉孝景の放った一言であった。孝景は幕府に対し、冷徹極まる事実を突きつけたのである。 「鬼とて、所詮は肉身を持つ生類に過ぎぬ。ならば、太刀の刃、矢石の鋒をもって断ち切るに何の問題があろうか」 至極当然の理であった。鬼は他者と交わり、生を営む。生き物である以上、渇けば水を飲み、飢えれば肉を喰らい、果ては狼や鹿の背を御して疾走する。人倫からは外れているとはいえ、その実体は人に酷似した卑しい獣に過ぎなかったのだ。 人々を長らく縛っていたのは、「妖怪とは陰陽術でしか滅ぼせぬ」という呪縛めいた先入観に過ぎなかった。 これにより、武士の力による「鬼狩り」が各地で開始され、鬼どもの勢力は急速に減退した。
――しかし、根絶やしには至っていない。 今なお鬼どもは、深山の洞穴や打ち捨てられた廃屋の暗がりに息を潜め、暗夜に乗じては人里を襲っている。百姓を喰らい、女を浚い、己が種族を繋ぐための道具として弄び続けているのだ。
永禄七年、九月のことである。 越前の守護大名にして朝倉家九代当主の義景は、ひとつの重大な決断を下した。北国・加賀において異常な繁殖を遂げた鬼どもを討伐するため、三千の兵力を送り出すというのである。 妖怪の出現により諸大名が幕府の権威の下に平定され、天下がかつてない安定を謳歌するこの時代にあって、例外的に人里を脅かす鬼の掃討は、いまや武士たちに課された最大の責務であった。義景がその討伐軍の大将に指名したのは、一門の重臣である朝倉景鏡と景隆の二名であった。 だが、この人事に対して猛然と異議を唱えた男がいた。敦賀郡司を任され、金ヶ崎城を守る朝倉景垙その人である。 景垙は朝倉宗家の血を引く有力者であり、しかも、あの朝倉家の軍師として鳴らした故・朝倉宗滴の孫であった。天下が安定し、他領への侵略戦争のない平和な世にあって、一族の家格や面目は武士にとって何よりも重い意味を持つ。分家の身でありながら祖父の威光を笠に着る景垙にとって、年長者であるとはいえ同じ一門の景鏡らが大将に据えられることは、その傲慢な矜持が断じて許さなかった。 彼は当主・義景の許に馳せ参じ、露骨な不満をぶつけた。しかし、義景はこれを一蹴した。 九月一日、景垙は煮え切らぬ怨嗟の念を胸の底に抱えたまま、加賀への出陣の途についた。
そして、悲劇は唐突に訪れた。 翌九月二日、加賀の陣中において、大将の景鏡と不満分子である景垙の間で激しい口論が勃発したのである。権勢欲と自負に凝り固まっていた景垙は、その舌戦の末に論破され、敗北した。 その夜、恥辱にまみれた景垙は、自らの手でその命を絶った。 平和な世のなかで、しかも一門の将が陣中で自害するなどという不祥事は、軍紀の崩壊を意味するに等しい。加賀に駐屯する全軍に走った動揺は計り知れず、前線はたちまちのうちに混乱の坩堝と化した。
不報はただちに、一乗谷の朝倉館にいる義景の許へともたらされた。 知らせを聞いた義景は、事態の重大さを一瞬にして見抜いた。彼は即座に腰を上げると、自ら総大将として加賀へ出馬することを決断したのである。 主君自らの出陣という劇薬は、浮き足立っていた全軍の動揺を瞬く間に鎮め、規律を回復させた。結果として鬼征伐の作戦自体は成功裏に終わった。 しかし、景垙の振る舞いは、兵を預かる武将として万死に値する愚行にほかならない。義景はその責任の所在を厳しく問い、景垙の父である景紀に処分を下した。
一乗谷の重臣として権勢を振るっていた景紀は、当主の命に従い、まだ二歳であった景垙の遺児・七郎を連れて、自領である敦賀へと退いて隠居した。 しかし、この処置により、景紀の胸中には大野郡司を継ぐ景鏡に対する拭い難い怨恨の炎が灯ることになった。領土的野心による争いこそないものの、朝倉の一門内における名誉と禍根をめぐり、敦賀郡司家と大野郡司家の対立はもはや修復不可能な決定的なものへと変貌していったのである。
では、敦賀郡司家を継ぐべき七郎はまだ幼かった。では、新たな敦賀郡司の座に就いたのは誰か。それこそが、本作の主人公である朝倉景恒にほかならない。 景恒は、景紀の次男であり、すなわち先の景鏡や景垙とは血の繋がった一族の者に連なる。幼い頃の景恒は、一乗谷にある祖父・宗滴の屋敷に預けられて育った。 書庫にこもることを好んだ少年は、無数の古書に囲まれて過ごした。老巧な軍略家として名を馳せた宗滴は、この孫の知的な気質を深く愛し、わずか四歳から七歳までの短い日々のなかで、武将たるべき骨法をその脳裏に叩き込んだのである。 だが、天文二十四年、景恒が七歳の時に祖父・宗滴が世を去った。それを契機として、父・景紀の冷徹な判断により、景恒は世俗から切り離されることになった。曹洞宗の本山・永平寺。彼はその厳粛な伽藍へと預けられたのである。 法名を「松林院鷹瑳」と改められた少年は、読経と雑事に明け暮れる無機質な日々を送ることになった。
それから、十年の歳月が流れた。 永禄八年、雪解けの季節。一通の厳命が永平寺の山門を叩いた。義景の命により、一乗谷の朝倉館へ呼び戻されたのである。 十六歳を迎えていた青年は、還俗して元服を済ませると、新たに「景恒」の名を授けられた。 そして義景の意志により、彼はかつて血の抗争の舞台となり、父祖の因縁が渦巻く敦賀の地へと赴き、新たな郡司としてその重責を担うこととなる。 ――静謐な寺院の石段から、鬼どもがうごめく過酷な現実の表舞台へと、運命の歯車が音を立てて回り始めたのである。




