00 始まりの朝
黄金の光が闇色に染めていた世界をゆっくりと満たしてゆく。
海のさざ波の中に喧騒が混ざり始める、そんな時間。視線を空に投げれば家々の煙突からは白い煙が細く伸び始めている。
石畳の上を軽快に走る影がひとつ、街角を曲がった。影と影を飛び跳ね結びながら、くるりと一回転。伸ばした手のひらは青い空を捉える。
「今日もよい天気です」
栗色の柔らかな髪を海風がふわりと揺らした。緑がかった青が手のひらからこぼれ落ちる光に細められる。目的地はもうすぐそこだった。住居区から港近くへ抜ける潮の香りを運ぶ小道に日差しが満ちてゆく光景を見ながら、歩みを再開する。
そこは市が立つ通りからは少し離れた、船着き場に近い建物だった。
潮風に負けぬよう頑丈にあれと造られた壁は朝日を受け、小麦畑のような光を反射している。
少女はドアのカギは何処だっただろうと探し始める。幾つかのポケットを行き来した手がようやく冷たく硬い感覚を探りあてた。そしてドアノブを握り、鍵を挿し入れようとする。
「あれ、開いてる」
カチャリ、とノブが回り扉が動き出した。
誰が中に居るのだろう?好奇心がゆっくりと口元に笑みを形作る。
今日と言う日の一番乗りを逃してしまったのは残念だったが、この商会に所属するようになってから誰ひとりとして自分よりも早くにこの扉を開く人物は居なかったと記憶していた。
殆どのメンバーがこの街に居る場合、集まるのは大体太陽が真上を通過する頃合いが多いだろうか。
陸では深く眠ることが出来る幸せを皆、噛みしめることが出来るのだから二度寝ならず三度寝をしてしまうのだ。
その気持ちは痛いほど共有できるし、分かってもいた。
なので陸に滞在している間は太陽が沈むまでに一度、この場所に来て航海の報なり仕入れなり事務処理なりををすればいいという決まりごとを初代が作ったらしい。
国から支援を受け海原へと出かけてゆく大きな商会からしてみれば小石程度の、歯牙にもかけて貰えない、そんな商会など聞いた事も無いと笑われもする小さな集まりだが、これでもなかなかなものなのだと、少女は胸を張って所属を伝える事も出来た。
この詰所の留守を預かる人物がやって来るのもその頃となる。事務処理が始まるのもその人物が着席してからなので、それまで出来る事は殆どない。だから朝早くからこの場所に来るメンバーはほぼ居ない。
けれど。
窓を開け床を掃き火を起こし湯を沸かした後、露天市にパンや野菜を買いに行くのが陸に戻って来た時の、密かな楽しみのひとつでもあった。
航海中は火を使えないため、同じ献立が続く。主にパンとチーズ、食べつくされるまでは塩漬けにした肉や魚、そしてビールという生モノが食べられない生活だった。それに比べて陸ではタマネギやキャベツなどの野菜が、食べられる。
基本船乗りは陸に家を持たない。家族を持つ場合は陸に移り住むのが普通だ。海に出て戻ってこられるかは、賭けでもあるからだ。家族を陸に残して海に出るならば、それ相当の覚悟が両者に必要となる。だから自然に航海者たちの家は船となり、所属や帆船、ガレー船、乗船経緯などによって関係は様々だが仲間意識も強くなってゆく。
その為港に錨をおろしている時も基本的に船上で生活をした。食事は数人づつ分かれて街中にある食事を提供する店で飲食したり、露天で買い持ちかえって食べている。なぜなら船を空にすれば、あっという間に中身を略奪され船さえ失ってしまうからだ。
警戒さえ怠らなければ火を使える陸は海上で生活している人々にとって日頃の食欲不満を満たす最大の娯楽地だった。
そんな火を独占出来る商館に来ないなんて少女には考えられなかった。幸せを噛みしめないのはもったいなすぎる。だからその幸せを満喫する為に朝早くからこの場所にやって来るのだ。
さざなみが聞こえた。
既に窓は開け放たれすぐそこに海が見える。
ゆっくりと蝶番を鳴らしながら室内へと入ると、既に掃除もされているようだった。暖炉には薪がくべられており火が爆ぜ、鉄の鍋にはくつくつと白いスープが煮られている。
見回せば少々室内の模様替えがされたようだが、大まかな配置は変わってはいない。自分がいつも座っている机もそこに、
「ない…んじゃないのだけれど…」
ぽっかりと空間が空いているわけではない。机はある。様々な日用品や備品が所狭しと並べられてはいるものの、確かに存在はしている。
座れないだけで。
さて、どうするべきかと思案していると、足音が聞こえた。床に落としていた視線が上を向く。
「おや、本当に聞いていた通り、朝が早い。それでこそ待っていた甲斐もありますが。お嬢さん(フロイライン)、本日も良い朝ですね、お久しぶりです」
奥にある台所からゆっくりとした足取りで女性が近づく。
初めまして、ではない。投げかけられた言葉や記憶が正しければ一度だけだが会ったことがある人物だと思いつく。が、名前が出てこず視線を彷徨わせながら、
「Guten Morgen」
聞こえた言語そのままに、挨拶を返す。所変われば品変わるように、地域によって話されている言葉が少しづつ違う。後に言語として確立されるらしいが、今はまだその時期が訪れてはいない、と聞いたことがあった。
女性は少女に礼を取る。
「覚えていらっしゃらないようですので改めて、自己紹介をさせて頂きます。私は頭目の秘書をしておりますアマンダ。本日0時付けをもちまして頭目より貴方を副頭目に任ずるとの承認が出ております。頭目からの就任のお知らせはこちらに。初代より手紙をお預かりしております。それはこちら」
貴重な紙に綴られた文字列にさっと目を通す。そこには確かに見覚えのある頭目が書いたであろう綴りと、赤蝋で固められた印が押されている。
間違いではなかろうか。
まず思ったのは、この商会には生まれが同じ年の人物がいる。その人物と勘違いされているのではないかと。しかし書かれている名はまぎれもなく自分のものだった。
「お嬢さん(フロイライン)、ユーリシウス・アウラ。現実をしっかりと見てください」
「…冗談です!なんてことは無いんですよねぇ」
波の音が打ち寄せ引いても一向に、否定する言葉は発せられない。久々に帰って来たアウラを歓迎する為に商会のみんなが用意した物、でもなさそうだった。
動揺で視線が泳ぐ。
絹の道が通る遠い異国ではこういう時、晴天の霹靂という言葉を使うんだよねぇ。なんて人がこの状態にぴったりな言葉を作ってくれたのだったっけ。
そんな事を考えながら、アマンダと名乗った女性を見た。頭目はもうこの地には居ないだろう。偶に、時々、こういう風に行方不明になるのは知っていた。知ってはいたが…ふと気がつく。
「どうして初代の手紙があるの?」
アウラは落ちついて来た様子を見せたアウラに席を勧める。頭目がいつも座っていた席がある一段高めに作られた場所のすぐ横、段下へ並行に並べられた机を指し、
「あちらへどうぞ。ご説明させて頂きます」
その言葉に従い、アウラは足を踏み出した。
真新しい机の上に置かれたのは頭目の印が押された用紙と手紙、そして暖炉で煮られていたスープが木で出来たカップに入れられ、運ばれてきた。
どうぞ、というアマンダの勧めに口を付ける。
「搾りたての山羊乳が売られていましたので棚にある材料で作ってみました」
塩とチーズで味付けしたというスープはアウラの空腹をゆっくりと満たしてゆく。港町であるアムステルダムは、夏といえども朝はひんやりと冷たい。スープはゆっくりと温かさを体の中へ広げてゆく。
「それではお話させて頂きます」
アマンダは丸椅子を机の横手に置くと、自ら分も取り分け注ぎ、邪魔にならぬよう端の方へ置き話し出す。説明に時間はかからなかった。大まかな要点を掻い摘んでいるような話し方だったからだ。
「…という状況です。ご理解いただけましたでしょうか」
「大体は」
説明を聞き終わった頃には、始まる前に入れられたポタージュも殆ど飲み干され、残りわずかとなっていた。
簡単に要約すると、頭目はとある用件で長らく留守にする為、新たに副頭目をもう一人選ぶことにした。現副頭目ひとりに全ての責を負わせるには余りに雑用が多すぎる。ならばいっそもう一人任命してしまえばよい。
誰が良いかと頭目が相談を持ちかけたのは、所用でこの街に来ていたという初代だった。
手紙はアウラが処女航海に出ていると聞いた初代がその場で書き封をしたものを頭目が受け取り、保存されていた。というのが経緯らしい。
「一番下っ端の私が担う役目ではないと思うのですが」
「なにをおっしゃいます」
羽ペンを指先で玩ぶアウラにアマンダは
「チェスやオセロがお上手であるともお聞きしております。随分とお強いとか」
初代の船に乗っておられたのも存じておりますよ。
他には…と口を開き始めたアマンダにもういいから、と口止めをしたアウラは大きく息をついた。
はぁ。
大きなため息がもし、形を得るなら幾つこの机の上に転がるだろうかと考えながら、アウラは今一度、頭目がしたためた承認紙を見る。一番下には署名が出来るよう線が引かれていた。ここに名前を書き込めば形式上でも了承、となる。
実際にはこの紙にサインをしなくても、既に副頭目の席へは座らされているのだろう。目に見えるよう事項が紙へ記されているに過ぎない。
所属する商会の名称を『ブルースフィア』、という。所属員数8名という小さな商会で拠点はこの港町、アムステルダムだ。国の庇護を受け大々的に成果を上げている商会を大とするなら、極小以下というこじんまりとした集団だった。取り扱いは多種多様に及び注文がくれば何でも運ぶ。
この机はアウラの為だけに作られたものだろう。羽も、インク壺も羽先を削るためのナイフも全てがまっさらな品で揃えられている。
その上へ一枚の鏡をアウラは取りだした。手のひらに十分に乗る小さな古びた鏡だ。職人の手によって彫られた飾りは簡素だが丁寧な仕事がなされている。
「それは?」
「母の形見なんです。この鏡を見ていると落ちつくと言うか、考え事が纏まると言うか…」
磨きこまれた鏡面は建物の天井を映し出している。アウラが手に持てば、背後の窓と海が映し出された。鏡の風景がふたつ重なる。
「少しひとりにして貰っていいでしょうか」
しばしの沈黙の後、アウラが口を開いた。少し考えて、質問したい事柄をまとめる、と。アマンダは頷き席を立つ。そして入口近くの椅子に背を向け腰かけた。
アウラは手鏡に映る向こう側の景色にそっと話しかける。
「どう思う?どうしたらいいのかな」
と言われてもね?向こう側で困った顔をした黒髪の少女が答える。
期間限定かもしれないよ。楽しそうならやってみればいいじゃない。
「うわぁ、他人事だと思って」
他人事だもん。
全くその通り、アウラはくすくすと笑った。
アウラを生んで直ぐに天へと召した母が残したという鏡はこことは違う、遠い世界に住む誰かと話すことが出来た。幾度となく幾人と、船が港へ停泊している数日間の邂逅を楽しむ人々のように出会いと別れを繰り返す不思議な物だった。今回の繋がりはいつもと比べると随分と長い。波長があっているのかも、とはあちらの推測だったが、様々な知識を得られるのはアウラにとって貴重な時間でもある。お互いの事を話し合い、喧嘩もし、時には恋の話に花を咲かせたりもしていた。
頭目の強引さはいつものことだ。初代となにを話したのかは気になるところだが、足掻いて否定するよりも受け入れて本人から直接聞いた方が早そうだとアウラは結論した。
じゃあまたあとでね。と鏡にささやいたあとインクを付けた羽ペンでサインを描く。乾いた事を確認してから立ちあがりアマンダの横へと向かった。
「お心は決まりまして?」
「一応は」
サインを書いた紙を手渡し、聞きたいことなんだけれども、と前置きした。
なんでしょう。アマンダは先を促す。
「ねえ、アマンダさん。頭目はいつ帰って来るか解らないんですよね」
答えはJa。どこに向かったのか、どのような用件なのかもアマンダは知らないと語る。
「アマンダさんだけが残ってるのかが不思議なんです。確か頭目の副官だったのでしょう?」
答えはJa。頼りになる船乗り達が一緒だそうで、心配はしていないとの回答だった。では何のために残されたのだろうか。
「…お目付け役?もしかして、私の」
これは質問では無い。
「…御聡明で助かります」
ほろりとこぼれた言葉にアマンダは頷く。
「副頭目は頭目が留守の場合、商会の顔となります。お嬢さん(フロイライン)には特に恥ずかしくない行動をして頂かねばなりません。その心得等、私がしっかりと躾けて差し上げますのでご安心ください」
にこりとほほ笑んだその笑顔に、アウラは背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
これを後の祭りな予感というのだろうか。
「早速ではありますが、本日、頭目は無視すればよいとおっしゃいましたが、ひとつ会合が入っております。それに早速、参加して下さいませ。もうお一人の副頭目はどうせ夕方近くにならないといらっしゃらないでしょうし」
確かに。玄人な副頭目とはきっと会合後に、会えるだろう。
それでは準備がありますので、と外出したアマンダの背を見送ったアウラは、鏡を取り出した。
ドタキャンってなに、その頭目。私のアウラになになすりつけてんのよっ
こちらの様子が気になって伺っていたらしい鏡の向こうに居る友人の声に覗きこむと、なにやら憤慨している様だった。
「もしかして私の代わりに怒ってくれてる?大丈夫だよ。Graciasそもそもそのドタキャンって言葉が判らないんだけれど、まあ、良い意味ではないよね。頭目ってそういう人なの。度々に怒ると疲れちゃうよ」
もー、暢気すぎ。アウラがそんなんだから私が代わりに怒ってるの、あーゆーあんだすたん?
「うんうん、ちゃんと聞いてる。それよりもお腹空いちゃって。露天まだ開いてるかなぁ、買いに行こうかな。鳥が食べたいなぁ、鳥。塩焼きしたものとキャベツはさんだのなんて…」
ほおのゆるんだアウラに、はいはい、と呆れた返事を返しながら鏡を挟んで弾む内緒話は、こっそりと続く。
6月22日に初投降したものを大幅な書きなおし、再編集したものです。
ご覧頂いております皆さまに、お楽しみ頂ければ幸いです。




