第4章 空気
全てをなくした社畜の悲しい復讐劇
佐伯が辞めてから、部署の空席は埋まらなかった。
「今は採用止めてるらしい」
誰かがそう言った。
理由は経費削減。
つまり、残った人間で回せということだ。
業務量は減らない。
代わりに、誰かが余分に抱える。
当然、残業は増えた。
黒田は会議で言った。
「若手が辞めたのは残念だが、我々が支えればいい話だ。今が踏ん張りどころだ」
拍手は起きなかった。
誰も目を合わせない。
相沢はその様子を、静かに観察していた。
踏ん張りどころ。
便利な言葉だ。
終わりがない。
相沢は、自分から愚痴を言わなくなった。
代わりに、聞く。
「最近きついですよね」
後輩の一人が、ぽつりと漏らす。
「そうか?」
相沢は首を傾げる。
「まあ、忙しいのは確かだな」
否定しない。
肯定しすぎない。
「俺、この前、三日連続で終電でした」
「そうか」
「普通なんですかね、これ」
相沢は一瞬だけ考える素振りを見せる。
「普通かどうかは知らん。ただ——」
言葉を区切る。
「長く続ける働き方ではないな」
それだけ。
断定ではない。
評価でもない。
ただの感想。
だが、人は「経験者の感想」に弱い。
飲み会の席でも、相沢は変わらなかった。
以前は場を盛り上げていた。今は静かに酒を飲む。
酔った若手が本音をこぼす。
「俺、ずっとここでやっていく自信ないっす」
「まだ若いだろ」
相沢は笑う。
「選択肢は多い方がいい」
その言葉は、背中を押す。
だが、突き飛ばさない。
自分で歩いたと思わせる距離感。
それが重要だった。
半年後。
退職者は三人になった。
いずれも二十代。
人事は「最近の若者は」と言った。
黒田は「甘えだ」と言った。
相沢は言わない。
ただ、社内の雑談で数字を出す。
「今年、離職率高いらしいな」
「え、そうなんですか?」
「人事部の資料で見た。前年の1.8倍」
事実だった。
「やっぱり厳しいですよね、この会社」
若手がつぶやく。
相沢は肩をすくめる。
「数字は嘘つかない」
嘘は言っていない。
だが、解釈を誘導している。
会社は悪くないかもしれない。
だが、将来性に疑問があると思わせるだけでいい。
人は不安に弱い。
不安は、連鎖する。
黒田が苛立ち始めた。
「最近、雰囲気が悪い」
会議室でそう言った。
「誰かが余計なことを吹き込んでいる」
一瞬、視線が相沢に向く。
だが、すぐに逸れる。
相沢の評価は“可もなく不可もなく”。
目立たない。
会議では最低限の発言しかしない。
数字も平均。
欠勤もない。
模範的な中堅社員。
疑う理由がない。
黒田は若手を叱責する。
「やる気が足りない」
やる気。
その言葉が、さらに空気を冷やす。
相沢は気づいていた。
壊すには、個人を狙うより、環境を変える方が効率がいい。
空気を変えれば、人は勝手に動く。
彼は「相談しやすい先輩」になった。
否定しない。
説教しない。
励まさない。
ただ、現実を並べる。
「住宅ローン組むなら、会社の安定性は大事だな」
「転職市場、今は売り手らしいぞ」
「資格あるなら活かした方がいい」
どれも一般論。
だが、タイミングが絶妙だった。
悩んでいる者にとって、それは決定打になる。
三年が過ぎた。
部署の平均年齢は上がった。
若手が定着しない。
補充はあるが、育つ前に辞める。
黒田の怒鳴り声は増えた。
「根性がない!」
その声を聞きながら、相沢は思う。
根性ではない。
構造だ。
そして構造を悪化させているのは、他ならぬ自分だ。
罪悪感はない。
なぜなら、自分は嘘をついていないからだ。
ただ、事実を提示しているだけ。
会社が弱っているのは、会社自身の問題だ。
自分は鏡を置いているだけ。
ある夜、若手の一人が言った。
「相沢さんって、冷静ですよね」
「そうか?」
「なんか……諦めてるっていうか」
相沢は少し考えた。
「諦めてるわけじゃない」
「じゃあ何ですか?」
窓の外を見る。
ビルの灯りが滲んでいる。
「観察してるだけだ」
若手は意味が分からないという顔をした。
相沢はそれ以上説明しない。
観察者は、感情に溺れない。
実験は順調だった。
退職者は毎年増加。
業績は緩やかに下降。
それでも会社はすぐには倒れない。
大企業ではないが、簡単には潰れない。
だからいい。
時間がかかるほど、価値がある。
定年まで、あと二十九年。
十分だ。
相沢はノートを開く。
・若手離職連鎖確認
・黒田の苛立ち増大
・部署士気低下
順調。
その文字を見ても、心は動かない。
ただ一つだけ、変わったことがある。
最近、夢を見なくなった。
美咲も、かつての自分も、出てこない。
あるのは会社の会議室だけだ。
蛍光灯の白い光の下で、誰かが辞めると言う。
それを聞いている自分の姿。
目が覚めると、少しだけ息が浅い。
だがすぐに整う。
感情は、もう邪魔にならない。
会社の空気は、確実に変わっていた。
重く、澱み、未来を語らない。
それは自然発生ではない。
だが誰も、原因を特定できない。
空気には犯人がいない。
そして相沢は、
その空気の中心で、今日も静かに働いている。
次回、第5章は3月8日 19時更新予定




