第2章
毎週日曜、19時に更新出来る様に頑張ります。
それは、特別な日ではなかった。
特別でない日が、積み重なっただけだった。
相沢が帰宅したのは、雨の降る木曜日だった。スーツの肩は濡れ、革靴は水を吸って重くなっている。エレベーターの鏡に映る自分の姿は、まるで他人のようだった。
玄関を開けると、部屋は暗かった。
「……美咲?」
返事はない。
リビングに入ると、テーブルの上に一枚の封筒が置かれていた。
嫌な予感は、静かに、しかし確実に広がった。
封筒を手に取る。震える指で開く。
中には紙が一枚。
しばらく実家に帰ります。
ちゃんと考えたい。
短い文章だった。
椅子に崩れ落ちる。
雨音がやけに大きく聞こえた。
スマートフォンを見る。着信はない。メッセージもない。
「ちゃんと考えたい」
何を。
何を、今さら。
胸の奥から、熱いものが込み上げる。怒りなのか、焦りなのか、分からない。ただ、息が浅くなる。
翌日、仕事は通常通りあった。
黒田は変わらず命令を出す。
「来週のプレゼン、お前がやれ」
「はい」
声は驚くほど平坦だった。
美咲のことを話そうかと思ったが、やめた。会社に私情を持ち込むな、と言われるのが目に見えていた。
昼休み、相沢は初めて有給申請の画面を開いた。
だが、申請ボタンを押せなかった。
来週のプレゼン。今月の数字。人手不足。
自分が抜けたら、回らない。
そう思った瞬間、どこかで笑い声がした気がした。
回らない?
自分一人で?
何様だ。
画面を閉じる。
一週間後、美咲と会った。
実家近くのファミレスだった。平日の昼下がり、客はまばらだ。
向かい合って座る。美咲は以前より痩せて見えた。
「久しぶり」
「うん」
水だけが運ばれてくる。
しばらく沈黙が続いた。
「……ごめん」
先に口を開いたのは美咲だった。
「急に出ていって」
「いや」
相沢は首を振る。
「俺も、悪かった」
言葉を選ぶ。だが、本当に言うべき言葉が分からない。
「私ね」
美咲は視線を落としたまま続ける。
「もう、限界なの」
その一言で、全てが決まった気がした。
「あなたが悪いとかじゃない。でも……一緒にいても、未来が見えない」
未来。
その言葉が、妙に遠い。
「頑張ってるのは分かってる。でも、頑張っても何も変わらないじゃない」
責める口調ではなかった。むしろ、諦めに近い。
相沢はテーブルの上の水滴を見つめた。
変わらない。
確かにそうだ。
働いても、評価は上がらない。給料も増えない。時間も戻らない。
それでも、働くしかなかった。
「……離婚、しよう」
美咲が言った。
世界が、一瞬、無音になった。
「分かった」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
引き止める理由が、思い浮かばなかった。
離婚はあっけなく成立した。
財産分与も揉めるほどの資産はない。慰謝料もない。子供もいない。
紙切れ一枚で、七年が終わった。
引っ越しの日、部屋は広く感じた。
冷蔵庫の音がやけに響く。
相沢は段ボールの上に座り込んだ。
何もない。
家族も、未来も。
あるのは、会社だけだ。
その時、初めてはっきりと理解した。
奪われたのだと。
時間を。選択肢を。可能性を。
誰に?
黒田か。会社か。社会か。
違う。
もっと大きい、形のない何か。
だが、抽象的すぎる。
復讐するには、対象が必要だった。
相沢はゆっくりと立ち上がった。
「……会社だな」
口に出してみる。
その瞬間、不思議と胸のざわつきが静まった。
会社。
そこなら、具体的だ。
人もいる。制度もある。弱点もある。
殴る必要はない。
壊せばいい。
中から。
気づかれないように。
長い時間をかけて。
相沢は笑った。
久しぶりに、自分の意志で笑った。
怒りではない。激情でもない。
計算だった。
会社は結果主義だ。
ならば、最低限の結果だけを出す。
クビにならない程度に。
評価は下の中。
昇進もしない。
目立たない。
その位置から、腐らせる。
やる気のない空気を広げる。
未来の不安を言語化してやる。
若い人間に、現実を教えてやる。
事実だけを並べればいい。
それで人は辞める。
誰のせいでもなく。
自己判断で。
相沢は窓を開けた。外の風が冷たい。
人生を賭けよう。
どうせ、もう守るものはない。
会社が潰れるその日まで。
その日が、自分の定年と重なるなら、なおいい。
拍子抜けするほど静かな誓いだった。
だが、その静けさこそが、何よりも確かだった。
この日、相沢の中で何かが死に、
そして何かが、生まれた。
それは正義ではない。
怒りでもない。
ただ、長期的な破壊衝動だった。
そしてそれは、誰にも気づかれないまま、ゆっくりと動き始めた。
第3章は3月1日に更新予定




