表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社畜復讐  作者: 我茶
1/5

第一章 消耗

相沢 恒一は、かつてよく笑う男だった。

朝の通勤電車の窓に映る自分の顔を見て、そんなことを思い出す。つり革に掴まる手は骨ばり、指先は乾燥して白くひび割れている。目の下には、化粧でも隠せない濃い影が落ちていた。

電車はぎゅうぎゅう詰めだった。誰かの肘が肋骨に当たり、背中には鞄の硬い角が食い込んでいる。それでも誰も謝らない。謝る余裕がないのだ。全員が同じ方向を向き、同じ会社へと運ばれていく。

その流れの中に、自分も含まれている。

スマートフォンが震えた。会社のチャットアプリだ。まだ始業まで三十分ある。

黒田:今日の資料、修正しておいて。昨日のやつ全部やり直し。

短い文章だった。理由は書かれていない。説明もない。ただ命令だけがある。

昨夜、終電間際までかけて仕上げた資料だった。帰宅したのは午前一時を回っていた。シャワーを浴びる気力もなく、ベッドに倒れ込んだ記憶だけがある。

電車の揺れに合わせて、胃の奥が重く沈んだ。

「……はぁ」

ため息は雑踏に吸い込まれて消えた。

会社に着くと、既に黒田は席にいた。コーヒーを飲みながら、モニターを睨んでいる。四十代半ばの管理職。背筋は常に伸び、スーツの皺一つ許さない男だった。

「おはようございます」

相沢が頭を下げると、黒田は視線だけを向けた。

「遅いな」

時計を見る。始業五分前だ。

「すみません」

反射的に謝る。理由を説明する気は起きなかった。説明したところで、黒田が納得することはないと知っている。

席に着き、パソコンを立ち上げる。昨日の資料を開く。赤いコメントが無数に並んでいた。

“視点が甘い”

“これでは話にならない”

“やる気ある?”

喉が乾く。修正というより、否定だった。自分の仕事そのものが、丸ごと価値がないと言われているようだった。

キーボードに指を置く。何をどう直せばいいのか分からない。それでも手は動かすしかない。考えるより先に、体が反応していた。

午前中は瞬く間に過ぎた。気づけば昼休みだったが、相沢は席を立たなかった。コンビニで買ったパンを机の端でかじりながら、画面を見続ける。

「また昼抜きか?」

隣の席の同僚が苦笑する。

「時間なくて」

「体壊すぞ」

軽い調子の言葉だったが、どこか他人事だった。誰もが自分の仕事で精一杯なのだ。心配はするが、踏み込まない。それがこの会社の暗黙の距離感だった。

午後、黒田が資料を確認しに来た。

「……まだ甘いな」

低い声が落ちる。

「申し訳ありません。もう一度——」

「言い訳はいらない。結果を出せ」

それだけ言って去っていく。背中を見送りながら、相沢は歯を食いしばった。

結果。結果。結果。

その言葉だけが、頭の中で反響する。

帰宅したのは、その日も日付が変わった後だった。

玄関の灯りは消えている。静かに鍵を開けると、リビングからテレビの音が漏れていた。妻の美咲がソファに座り、ぼんやりと画面を見ている。

「ただいま」

声をかけると、美咲は振り向いた。

「……おかえり」

笑顔はなかった。疲れた目をしている。

「ごめん、また遅くなって」

「うん」

短い返事。沈黙が落ちる。

テーブルの上には、ラップをかけた夕食が置かれていた。冷え切っている。

「温めるね」

美咲が立ち上がろうとするのを、相沢は止めた。

「いいよ、自分でやる」

電子レンジの前に立ちながら、背中に視線を感じる。何か言いたげな空気だった。

「ねえ」

案の定、声がかかる。

「来月の家賃、どうするの?」

振り返る。

「どうするって……払うけど」

「貯金、ほとんどないよね」

事実だった。残業は多いが、手当は雀の涙ほどだ。生活費を差し引けば、ほとんど残らない。

「ボーナスで何とかなる」

「毎回それ言ってるよね」

声に棘が混じる。

「私も働いてるけど、限界あるよ。あなた、転職とか考えないの?」

レンジの回る音がやけに大きく聞こえた。

「今は無理だよ。仕事が——」

「仕事が忙しいから?」

言葉を遮られる。

「いつもそれ。忙しい、疲れた、そればっかり」

胸の奥に、何かが刺さった。

「じゃあどうしろって言うんだよ」

思わず声が強くなる。

「俺だって好きでこんな働いてるわけじゃない」

「誰も好きでやってるなんて言ってない!」

美咲も声を上げた。

「でも、このままじゃ将来が見えないの。家にほとんどいないし、収入も増えないし……私、何のために結婚したのか分からなくなる」

その言葉は、刃物のように鋭かった。

レンジが止まる音がした。相沢は動けなかった。

「……悪かったな」

絞り出すように言う。

「期待に応えられなくて」

皿を取り出し、テーブルに置く。食欲は失せていた。

美咲は何か言いかけて、口を閉じた。視線を落とし、ソファに戻る。

テレビの音だけが部屋を満たした。

相沢は冷えた料理を無理やり口に運んだ。味はしなかった。ただ、咀嚼して飲み込む作業を繰り返す。

この生活が、いつまで続くのか。

考えようとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。明日も早い。寝なければならない。それだけを考えて、立ち上がる。

寝室のドアを閉める直前、リビングを見る。美咲は背中を向けたまま動かなかった。

何か言うべきだったのかもしれない。

だが、言葉は浮かばなかった。

ベッドに横たわると、全身の力が抜けた。天井を見つめながら、ふと思う。

自分は、いつからこんな顔をするようになったのだろう。

笑っていた頃の記憶は、もう遠かった。

目を閉じる。明日の仕事が頭をよぎる。修正しなければならない資料、黒田の表情、終わらない業務。

胸の奥で、小さな何かが軋んだ。

それが何なのか、この時の相沢にはまだ分からなかった。

ただ確かなのは、静かに、確実に、何かが削れていっているという感覚だけだった。

そしてその摩耗は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ