第一章 消耗
相沢 恒一は、かつてよく笑う男だった。
朝の通勤電車の窓に映る自分の顔を見て、そんなことを思い出す。つり革に掴まる手は骨ばり、指先は乾燥して白くひび割れている。目の下には、化粧でも隠せない濃い影が落ちていた。
電車はぎゅうぎゅう詰めだった。誰かの肘が肋骨に当たり、背中には鞄の硬い角が食い込んでいる。それでも誰も謝らない。謝る余裕がないのだ。全員が同じ方向を向き、同じ会社へと運ばれていく。
その流れの中に、自分も含まれている。
スマートフォンが震えた。会社のチャットアプリだ。まだ始業まで三十分ある。
黒田:今日の資料、修正しておいて。昨日のやつ全部やり直し。
短い文章だった。理由は書かれていない。説明もない。ただ命令だけがある。
昨夜、終電間際までかけて仕上げた資料だった。帰宅したのは午前一時を回っていた。シャワーを浴びる気力もなく、ベッドに倒れ込んだ記憶だけがある。
電車の揺れに合わせて、胃の奥が重く沈んだ。
「……はぁ」
ため息は雑踏に吸い込まれて消えた。
会社に着くと、既に黒田は席にいた。コーヒーを飲みながら、モニターを睨んでいる。四十代半ばの管理職。背筋は常に伸び、スーツの皺一つ許さない男だった。
「おはようございます」
相沢が頭を下げると、黒田は視線だけを向けた。
「遅いな」
時計を見る。始業五分前だ。
「すみません」
反射的に謝る。理由を説明する気は起きなかった。説明したところで、黒田が納得することはないと知っている。
席に着き、パソコンを立ち上げる。昨日の資料を開く。赤いコメントが無数に並んでいた。
“視点が甘い”
“これでは話にならない”
“やる気ある?”
喉が乾く。修正というより、否定だった。自分の仕事そのものが、丸ごと価値がないと言われているようだった。
キーボードに指を置く。何をどう直せばいいのか分からない。それでも手は動かすしかない。考えるより先に、体が反応していた。
午前中は瞬く間に過ぎた。気づけば昼休みだったが、相沢は席を立たなかった。コンビニで買ったパンを机の端でかじりながら、画面を見続ける。
「また昼抜きか?」
隣の席の同僚が苦笑する。
「時間なくて」
「体壊すぞ」
軽い調子の言葉だったが、どこか他人事だった。誰もが自分の仕事で精一杯なのだ。心配はするが、踏み込まない。それがこの会社の暗黙の距離感だった。
午後、黒田が資料を確認しに来た。
「……まだ甘いな」
低い声が落ちる。
「申し訳ありません。もう一度——」
「言い訳はいらない。結果を出せ」
それだけ言って去っていく。背中を見送りながら、相沢は歯を食いしばった。
結果。結果。結果。
その言葉だけが、頭の中で反響する。
帰宅したのは、その日も日付が変わった後だった。
玄関の灯りは消えている。静かに鍵を開けると、リビングからテレビの音が漏れていた。妻の美咲がソファに座り、ぼんやりと画面を見ている。
「ただいま」
声をかけると、美咲は振り向いた。
「……おかえり」
笑顔はなかった。疲れた目をしている。
「ごめん、また遅くなって」
「うん」
短い返事。沈黙が落ちる。
テーブルの上には、ラップをかけた夕食が置かれていた。冷え切っている。
「温めるね」
美咲が立ち上がろうとするのを、相沢は止めた。
「いいよ、自分でやる」
電子レンジの前に立ちながら、背中に視線を感じる。何か言いたげな空気だった。
「ねえ」
案の定、声がかかる。
「来月の家賃、どうするの?」
振り返る。
「どうするって……払うけど」
「貯金、ほとんどないよね」
事実だった。残業は多いが、手当は雀の涙ほどだ。生活費を差し引けば、ほとんど残らない。
「ボーナスで何とかなる」
「毎回それ言ってるよね」
声に棘が混じる。
「私も働いてるけど、限界あるよ。あなた、転職とか考えないの?」
レンジの回る音がやけに大きく聞こえた。
「今は無理だよ。仕事が——」
「仕事が忙しいから?」
言葉を遮られる。
「いつもそれ。忙しい、疲れた、そればっかり」
胸の奥に、何かが刺さった。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
思わず声が強くなる。
「俺だって好きでこんな働いてるわけじゃない」
「誰も好きでやってるなんて言ってない!」
美咲も声を上げた。
「でも、このままじゃ将来が見えないの。家にほとんどいないし、収入も増えないし……私、何のために結婚したのか分からなくなる」
その言葉は、刃物のように鋭かった。
レンジが止まる音がした。相沢は動けなかった。
「……悪かったな」
絞り出すように言う。
「期待に応えられなくて」
皿を取り出し、テーブルに置く。食欲は失せていた。
美咲は何か言いかけて、口を閉じた。視線を落とし、ソファに戻る。
テレビの音だけが部屋を満たした。
相沢は冷えた料理を無理やり口に運んだ。味はしなかった。ただ、咀嚼して飲み込む作業を繰り返す。
この生活が、いつまで続くのか。
考えようとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。明日も早い。寝なければならない。それだけを考えて、立ち上がる。
寝室のドアを閉める直前、リビングを見る。美咲は背中を向けたまま動かなかった。
何か言うべきだったのかもしれない。
だが、言葉は浮かばなかった。
ベッドに横たわると、全身の力が抜けた。天井を見つめながら、ふと思う。
自分は、いつからこんな顔をするようになったのだろう。
笑っていた頃の記憶は、もう遠かった。
目を閉じる。明日の仕事が頭をよぎる。修正しなければならない資料、黒田の表情、終わらない業務。
胸の奥で、小さな何かが軋んだ。
それが何なのか、この時の相沢にはまだ分からなかった。
ただ確かなのは、静かに、確実に、何かが削れていっているという感覚だけだった。
そしてその摩耗は、まだ始まったばかりだった。




