『地図にない町』
『地図にない町』
金曜の夜、視界が白く弾けた。
気づくと丘の上にいた。灰色の空。枯れた草の匂い。風が冷たい。同僚たちが地面に倒れている。オフィスは消えていた。
スマートフォンは死んでいた。娘からのメッセージが、画面に残ったままだった。
「パパいつかえってくる?」
日曜は娘の誕生日だ。七歳になる。
遠くに町の灯りが見えた。
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町は静かだった。
石畳の道、木造の家、ランタンの灯り。住民たちが出てきて、温かいスープを差し出した。湯気が顔にかかる。野菜の匂い。
「お休みください。帰る方法は、明日」
長老が微笑んだ。同僚たちは安堵した。
健二だけが気づいた。住民たちの笑顔が、全員同じ形をしている。口角の上がり方。目の細め方。判で押したように同じだった。
誰も「どこから来たのか」と聞かなかった。
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日が沈むと、空気が冷えた。
「夜は外に出ないでください」
長老の声が低くなった。
「何が聞こえても、窓を開けないで」
部屋に入った。鍵をかけた。窓には厚いカーテン。
深夜、音が始まった。
何かを引きずる音。湿った呼吸。地面を揺らす重い足音。窓の外を、巨大な影が横切った。影が通り過ぎるとき、生臭い風が隙間から入ってきた。
隣の部屋から、大森の声がした。
「すごい……」
歓喜の声だった。
「全部、繋がってる……」
そしてすすり泣き。それから沈黙。
「ここにいよう」
抑揚のない声だった。
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朝になった。
大森は住民たちと並んで座っていた。スープを啜り、パンをちぎり、穏やかに笑っている。
「いい町だな」
目が空虚だった。奥に何もなかった。笑顔は、住民たちと同じ形になっていた。
健二は町を歩いた。
北へ向かった。道が曲がった。気づくと広場に戻っていた。東へ向かった。道が曲がった。広場に戻った。
どこへ行っても、同じ場所に戻る。
路地裏で、壁に手をついた。
ぬるかった。
そして、動いていた。ゆっくり膨らみ、ゆっくり縮む。心臓のように。
井戸を覗いた。水を汲んだ。
赤かった。鉄の匂いがした。
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夕方、長老が来た。
「帰りたいですか」
「帰りたい」
「方法があります」
心臓が跳ねた。
「北の丘に門があります。夜だけ開く。あの門を抜ければ、帰れます」
長老の目は穏やかだった。だが口元は、あの同じ笑顔だった。
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夜になった。
健二は走った。あの音が響く中を、息を殺して走った。生臭い風。地面を揺らす足音。振り返らなかった。
丘の上に門があった。
石造りの門。その向こうに、見覚えのある景色。東京の夜景。ビルの灯り。車の列。
あと少し。
門に手を伸ばした。
ぬるかった。
そして、脈打っていた。
門の向こうの夜景が、歪み始めた。ビルが溶けた。灯りが濁った。見えてきたのは、巨大な口だった。歯が並んでいた。粘液が糸を引いていた。
背後で声がした。
「あの方は、見たいものを見せてくれるのです」
長老だった。住民たちが並んでいた。全員が同じ笑顔だった。
「あなたも、すぐ分かります」
足元が裂けた。
赤い肉が見えた。粘膜が光っていた。足首を、温かいものが包んだ。ゆっくり沈んでいく。膝まで。腰まで。
温かい。
不思議と、怖くなかった。
「パパ」
娘の声が聞こえた気がした。
「いつ帰ってくる?」
健二は目を閉じた。口元が緩んだ。あの笑顔の形に。
「ごめんな」
声に、抑揚はなかった。
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朝になった。
町は静かだった。住民たちが歩き、笑い、日常を過ごしている。
広場のベンチに、男が座っていた。穏やかな顔。空虚な目。
遠くの丘の上に、人影が見えた。
新しい客だ。
住民たちは立ち上がり、迎えに向かった。
全員が、同じ笑顔で。
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