訪問者①
(……なんて、格好つけて誓った夜もあったわね)
記憶の底から浮上すると、目の前にはスープの器があった。もう湯気も立っていない。
(あの時の牧草、美味しかったな。意外にちゃんと育つもんなんだって驚いたもの)
ハリエットは冷めたスープを一気に飲み干した。
「ハリー?」
母が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「え? ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出してて」
「昔?」
「ううん、なんでもない。ごちそうさま、片づけたらバイト行ってくるね」
ハリエットは空になった器を置いた。感傷に浸ってる暇はない。過去を振り返ってもお腹はいっぱいにはならないし、お金も増えないのだ。
手早く片づけを済ませ、身支度を整える。
眼鏡をかけ、赤毛をまとめる。木綿のワンピースとウールのコートを着れば、鏡の中にいるのは「夜の蝶・ローズ」とは似ても似つかない、ド庶民だ。
誰にも目を付けられず、風景に溶け込むのが一番良いのだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
母に見送られ、ハリエットは街へと飛び出した。
八百屋への道は、いつものように鉄と油の混ざった臭いがした。
両脇には黒ずんだレンガ造りの建物が並び、洗濯物が煤けた旗のように垂れ下がっている。
すれ違う人々は皆、猫背で急ぎ足だ。誰もが生きるのに必死で、他人のことなど見ていない。
ハリエットもその一人として、石畳を足早に歩く。
市場の外れにあるノーマおばさんの店に着くと、ハリエットはすぐにエプロンを締めた。
「今日もよろしくお願いします」
「ハリエットちゃん、朝くれた薬、よく効いたよ。ありがとね」
「良かった! また出来たら持ってくるね」
八百屋の仕事にもすっかり慣れた。泥付きの野菜を並べ、声を張り上げて客を呼び込み、釣り銭を間違えないように会計をする。指先は冷たいし、泥で爪の間が黒くなる。だがハリエットはこの時間が嫌いではなかった。
「はい、お釣りは三ペニーよ! ありがとうございました!」
チャリン、と硬貨が触れ合う音がする。その音を聞くたびに、心が少しだけ軽くなる気がした。この積み重ねが明日のパンとなり、母の薬になる。
「ハリエットちゃん、今日はここまででいいよ」
客足が途絶えた頃、ノーマおばさんが声をかけてきた。
「これ、持ってきな。売れ残りの野菜たちだけど」
差し出されたのは、少し柔らかくなったスウィードとセロリが入った麻袋だ。
「え? ……悪いですよ、おばさん」
「いいからいいから。あんたが持って帰ってくれなきゃ、ゴミになるだけなんだから」
「……愛してます、おばさん!」
ハリエットは満面の笑みで袋を受け取った。
ゴミだなんてとんでもない。皮をむいて茹でれば甘いし、スープにしたらごちそうだ。タダより高いものはないと言うが、「廃棄品」と「試供品」だけは別だ。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「はーい!」
ハリエットは麻袋を抱え、意気揚々と店を後にした。
市場を離れると、周囲の空気は一変する。活気ある声は遠ざかり、工場の機械音が鳴り響く。空はすでに薄暗く、ガス灯の灯りもまだ灯っていない。
ハリエットは今にもスキップをしそうな足取りだ。今日は大収穫だ。この野菜があればしばらく食べていける。近道の路地裏を歩きながら、今夜のメニューを考える。
(ミルクあったから、シチューにしようかな)
スウィードが入れば甘みのある美味しいものが出来るはずだ。トロトロに煮込んだ野菜が入ったシチューに、硬いパンを浸して食べる瞬間を想像すると、自然と頬が緩む。
(むふふ、早く帰って仕込みをしなくちゃ。母様もお腹をすかせているだろうし)
角を曲がってすぐのことだった。
――カツン。
前方から、わざとらしい靴音が響いた。同時に背後からも複数の気配が近づいてくる。
「ガルシアさぁん?」
背後から、ねっとりとした声が鼓膜を撫でた。ハリエットの足がピタリと止まる。冷や水を浴びせられたように、夕食への高揚感が一瞬で凍りついた。野菜を抱える腕にギュッと力が入る。
油汚れのように不快で、一度聞いたら忘れられない、この声は。
(やっぱりだわ)
ハリエットは表情を消し、ゆっくりと振り返った。
そこには、薄汚れたコートを着た男たちが三人。一人は葉巻を噛み、一人は腕を組んでニタニタと笑い、残る一人が退路を塞いでいる。安酒と汗の染みついた臭いが、風に乗って漂ってくる。
「久しぶりだねぇ、お嬢さま。……いや、今はもう『お嬢さま』って身分でもなかったか?」
男たちはゲラゲラと笑う。ハリエットの幸福な気分を踏みにじる、最悪の訪問者だった。




