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貧乏令嬢と秘密のラウンジ~婚約者の浮気相手は私でした~  作者: 梅澤 空


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アシュフォード②

「お……お断りします」


 絞りだした声は、情けないほど震えていた。だが、その言葉はハリエットの腹の底から出たものだった。レックスの眉が、わずかにピクリと動く。


「なに?」


 不機嫌なほどに低い声。ハリエットの心臓がどくんと脈打つ。怖い。逃げ出したい。相手は侯爵家の嫡男で、ハリエットは没落した貴族の娘だ。絨毯の染み一つで、こちらの首なんて簡単に飛ぶだろう。けれど、ここで引いたら一生後悔する。この先ずっと、彼の言う「飾りもの」として生きることになる。


「私は……あなたの所有物にはなりません」


 ハリエットは顔を上げた。涙が目に溜まっていたが、決してこぼしはしなかった。


「借金は、自分で返します。どんな仕事をしてでも、地を這ってでも」


 言い切った瞬間、部屋に重苦しい沈黙が落ちた。部屋の時計の秒針の音だけが響く。チク、タク、チク、タク。その音が、やけに大きく響く。その規則的な音がハリエットにはどうしようもなく息苦しかった。


 レックスは何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ている。だが、ソファーのひじ掛けに置かれた彼の右手が、固く握りしめられ、小刻みに震えているのが見える。


(……怒ってる。絶対に怒ってるわ)


 ハリエットの背筋に冷たい汗が伝う。プライドの高い貴族の男が、「飾り」として受け入れてやると言った女に拒絶されたのだから、激昂してもおかしくない。


(斬り捨てられる!? それとも撃たれる!?)


 恐怖で足がすくむ。それでも、目だけは逸らさなかった。ここで目を逸らせば、負けを認めることになる気がしたからだ。


 永遠にも思える沈黙の後。


「……そうか」


 レックスが呟いた。彼はゆっくりと小切手を引き寄せ、懐にしまった。その動作はひどく緩慢で、どこか名残惜しそうに見えたが、ハリエットには怒りを鎮めているようにしか見えなかった。


「君の好きにするといい。だが、覚えておいてほしい。アシュフォード家はいつでも君に手を差し伸べる用意があると」


 その言葉が、本心なのか、憐れみなのか、ハリエットには分からなかった。ただ、「失礼します」と短く告げ、逃げるように部屋を出ることしかできなかった。


 ***


 アシュフォード家を出ると、雨は小降りになっていた。鉄柵が閉まる音が背後で響く。ハリエットは自宅までの道をふらふらと歩き出した。


「……バカね、私」


 彼の家の暖かさが、まだ肌に残っている。あの小切手があれば。あのまま頷いていれば。今頃は温かい紅茶を飲み、ふかふかのベッドのことだけを考えていられたはずなのに。


 靴底の穴から、雨水がじわじわと入り込んでくる。空腹で胃が締め付けられるたび、ここまで来るときに嗅いだパン屋のバターの匂いの幻覚がして、余計に惨めになった。


「これから、どうしよう……」


 市場の通りに差し掛かる。市場はもう店じまいの準備を始めていた。売れ残りの野菜が並んでいるが、今のハリエットの財布には銅貨(ペニー)が数枚しかない。丸パン二つ買えるか買えないかの金額だ。その時、雑貨店の隅に麻袋が無造作に置かれているのが目に入った。中には砂粒のような小さな種が入っていた。


「おじさん、これ……」


「ああ、そりゃただの牧草の種(ルーサン)だよ。古くなっちまってな。鶏の餌にでも混ぜようと思ってたんだ」


 店主は興味なさげに言った。


 本来なら、馬や牛が食べるための牧草(ルーサン)の種。けれど、この種は水さえあれば育つと聞いたことがある。水だけでひっそりと芽を出す強い草だと。


「これ、ください」


 ハリエットはなけなしの銅貨(ペニー)を差し出した。


「はあ? 嬢ちゃん、こんなの食っても腹の足しになんねえぞ」

「いいの。育てて食べるから」


 その夜、冷え切った食卓でハリエットは膝を抱えていた。吐く息が白い。


「……強がっちゃった」


 後悔がないと言えば噓になる。あの小切手があれば、今頃こんな寒さに震えることもなかったのに。明日からの生活はどうする。仕事はあるのか。母の薬は。現実は待ってくれない。床板から這い上がってくる冷気が、足首を氷のように掴んでいる。

 ハリエットは目に浮かんだ涙を袖で乱暴に拭うと、テーブルの上の皿に残っていたパンを手に取った。ガリッ。硬い音がした。口の中の水分が奪われるほどパサパサだ。それでも噛み締めると微かな甘みが広がった。


「……甘い」


 自分で守った誇りの味だ。誰にも頭を下げず、自分の稼ぎで食べるパンは、どんな高級料理よりも尊い味がした。


「美味しい、ものすごく美味しい」


 ハリエットは立ち上がると、スープ皿に水を張り、種を流し入れる。


「やってやるわよ、見てなさい!」


 ハリエットは水面に浮いた種を指先でつついた。


「後悔、させてやるんだから」


 低い声が漏れた。誰に向けた言葉なのか。レックスか、世界そのものか。


 チャプ、チャプ。


 彼女は祈るように、呪うように、指先で種を暗い水底へと沈め続けた。


「見てなさいよ! この牧草(ルーサン)のように、踏まれても刈り取られたって、何度だって生い茂ってやるわ!」

ルーサン=アルファルファ。

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