アシュフォード①
ハリエットは真剣な表情でレードルを握っていた。
鍋の中で煮えているのは、ノーマおばさんからもらった野菜だ。スープに加える塩の分量。それが朝食の運命を分ける。
(……あと三粒。いや、二粒にしよう。繊細な味付けだわ。三ツ星シェフもビックリしちゃうんじゃない? ハリエットちゃん! うちで働いてってね)
手首のスナップを利かせ、塩の結晶を鍋に落とす。パラッと小さな音がした。
この塩を買うのに、どれだけの内職で造花を作ったか。そう思うと、ただの塩味が尊い「労働の味」に思えてくる。
これに合わせるのは、今日の大事な穀物――カチカチのパンだ。市場のパン屋の親父さんに「今日の髭、とても素敵ですね。おじさまのダンディズムに拍車がかかってますよ」などとお世辞を言って獲得した戦利品である。
「ハリー、いい匂いね」
背後から、母の穏やかな声がした。
振り返ると、母が薄手の毛布を何重にも巻いて椅子に座って待っている。ハリエットが心配するからと着ぶくれするほど巻いてくれている。家の中でも息が白くなるぐらいだ。病弱な母はすぐに体調を崩す。
暖炉を使えば良いのだろうが石炭を節約しているので使えない。料理で火を使っているのでキッチンが一番暖かいのだ。
「母様。もうすぐできるから、手を出さないでね。火傷しちゃうわ」
器にスープを注ぎ、テーブルに運ぶ。湯気が上がると、部屋が温かくなった気がした。
「美味しいわ。……ごめんね、ハリエット。苦労ばかりかけて。わたくしも料理ぐらい出来るようになった方が良いかしら」
「やめて母様。母様の手はピアノを弾くための手なんだから。ここは私に任せてよ。それに今日のスープは私の自信作よ? 愛情たっぷり、お金じゃ買えない味なんだから」
笑顔を作って答える。嘘ではない。けれど胸の奥がチクリと痛む。
母の白く痩せた手を見るたびに、一年ほど前の記憶が蘇るのだ。
あの日、ハリエットはもっと簡単な道を選べたはずだった。
***
あれは父が蒸発した直後のことだった。帝都は冷たい雨が降っていた。
ハリエットは傘も差さず、裏通りのぬかるみを歩いていた。差さなかったのではない、傘の骨が折れて使い物にならなかったのだ。
母からのお下がりのドレスの裾は泥水を吸って重く、靴底の穴からは氷のような雨水が浸みてくる。
(寒い……感覚なくなってきた)
足の先が痺れているが、止まるわけにはいかなかった。
父が蒸発し、借金取りが家に押し寄せた翌日だ。このままでは母と共に路頭に迷う。
頼れるのは、祖父の代に取り決められた婚約者レックスのアシュフォード侯爵家だけだった。
たどり着いたアシュフォード侯爵邸は、鉄柵の向こうにそびえ立っていた。
門番に名を告げると、彼はハリエットのずぶ濡れの姿を頭からつま先まで無遠慮に眺め、あからさまに眉をひそめた。
「ガルシア子爵のご令嬢? 失礼ですが、本物ですか?」
「レックス様の婚約者のハリエット・ガルシアです。お取次ぎを」
寒さで震える声を抑えて告げる。門番は疑わしそうに鼻を鳴らしたが、それでも邸内へ通された。
通された応接室は、別世界だった。
暖炉には赤々と火が燃え、高価な香油の香りが漂っている。
(……どうしよう)
ハリエットは入り口で立ち尽くした。
こんな泥だらけの靴で、この深紅の絨毯を踏んでいいわけがない。一歩進むごとに、自分の惨めな足跡が残ってしまう。
彼女は部屋の隅、絨毯のないフローリングの部分に縮こまるように立った。
濡れたドレスから雫が落ちる。身体の震えが止まらない。
惨めだった。心の底から、自分がちっぽけな存在に思えた。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
「待たせた」
現れたのは、レックス・アシュフォード。
銀の刺繍が施された漆黒の軍服は皺ひとつない。左の胸元には略綬、腰にはサーベルを吊るした皮ベルトが軋む音を立てていた。手には雪のような白手袋。汚れ一つない姿。同じ人間とは思えないほど、清潔で清廉な姿。
彼は部屋の隅にいるハリエットを見て、わずかに眉を動かしたが、すぐにソファーへと促した。
「座りたまえ」
「……汚してしまいますから」
「構わない。座れ」
ハリエットは恐る恐るソファーの端に腰を下ろした。
目の前のローズウッドのテーブルに、彼が一枚の紙片を置く。
「白紙の小切手」だった。
それが、ハリエットには悪魔からの招待状に見えた。
「ガルシア家の負債は、全額こちらで引き受けよう。君がここに訪ねてきたのもこれなのだろう?」
レックスは、彫像のような無表情で告げた。整いすぎた顔立ちは人間味すら感じさせない。
「見返りとしては……そうだな。私の妻にすぐになってくれればいい」
レックスはハリエットから視線を外し、窓の外の冷たい雨を見つめながら淡々と続けた。
「私には、煩わしい有象無象を黙らせるために『飾り』が必要なんだ。……君は、家柄だけは申し分ない。金で買える平穏があるなら安いものだ」
彼は淡々と言った。
(……飾り? 家柄だけ?)
ハリエットは奥歯をガリッと噛んだ。
この紙切れ一枚あれば、すべてが終わる。
母の薬代に悩むこともない。借金取りの怒鳴り声に震える夜もない。暖かい部屋と、柔らかいベッド、そして焼きたてのパンが手に入る。
喉から手が出るほど欲しい。
今すぐペンを取り、金額を書き込んでしまいたい。そうすれば、この凍えるような寒さから、母と共に永遠に解放されるのだ。
「飾りらしく大人しくしていてくれればそれでいい」
「っ!」
胸の奥で燻っていたわずかな火種が、彼のその言葉で一気に燃え上がった。
(私は、飾りじゃない! 泥水を吸ったドレスを着ていても、硬いパンを齧って生きていても、私はハリエット・ガルシアという人間だ)
タダより高いものはない。
この借りは、一生かけても返しきれないだろう。対等な人間として見てもらうことは、二度と叶わない。何といっても飾りなのだ。
この男は今、自分を助けようとしているのではない。ハリエットという人形の人生を、金で買い叩こうとしているのだ。
ハリエットは膝の上でドレスを握りしめた。指の関節が白くなるほどに力を込める。
歯の根が合わないほど震える、恐怖か、寒さか、それとも屈辱か。
それでも、言葉にしなくてはならない。
「お……お断りします」
レックスの手がわずかに震えた。




