帝都②
家に着くころには、息が上がっていた。
(はぁ、はぁ、なんで……なんであんなこと言っちゃったんだろう)
婚約破棄――自分から言ってしまった。本当に破棄されたら困るのは自分なのに。
アシュフォード家との婚約は祖父の代に決められたことだ。当時のガルシア家はまだ裕福であったし、アシュフォード家とは祖父たちが戦友であり、親友だった。その固い絆と縁もあり結ばれたものだった。
そして今のガルシア家にとってはそれが最後の命綱だ。
没落し、領地を失い、屋敷を追い出された今、「ガルシア子爵家」などという看板は、市場の腐った野菜より価値がない。
そんな無価値な私たちが、なぜまだ五体満足でいられるのか。それは「アシュフォード侯爵家の婚約者」という立場だ。借金取りたちは、私という不良債権が「アシュフォード侯爵夫人」という『金の卵』に化けるのを待っているのだ。彼らはその可能性に投資しているからに過ぎない。
婚約が破棄されれば、もちろんその防壁は消える。
私と母様は、その日のうちに本当の地獄を見ることになるだろう。
(……分かってる。分かってるのよ。そんなこと)
けれど、あの目を見ると、頭に血が上るのだ。まるでそこいらの石を見るような、何を考えているのか分からない無表情な顔。私に関心などないくせに「無理しているのか」などと義務感だけで聞いてくる。彼に見下ろされると負けたくないと、憐れまれるぐらいなら、嫌われた方がマシだと思ってしまう。
(私、バカだ)
ハリエットは深いため息をついた。
野菜を抱きしめ、湿気で歪んだドアの前に立つ。
表札代わりの木片には、流麗なカリグラフィーで『ガルシア』と記されている。母の字だ。その優雅な筆跡と、カビの浮いた壁のちぐはぐさ。周りの家に表札なんてない。
郵便配達夫も困惑するだろう。宛名は由緒ある子爵家、届け先は長屋の二階。ハリエットは建付けの悪いドアノブを回すと、ガツンと肩をぶつけて強引に押し開けた。
「ただいま……」
「おかえり、ハリエット」
奥から穏やかな声が返ってきた。
母が、薄い毛布を肩にかけて微笑んでいる。
その顔を見た瞬間、ハリエットの中で張りつめていたものがふっとほどけた。
「母様、起きて大丈夫なの? まだ寝ててよかったのに。あ、そうそう。今日はいっぱいお野菜いただいたから、スープにするね」
「まあ、嬉しいわ。わたくしもお手伝いするわね」
「ううん、座ってて、水が冷たいから」
母が動くと、狭い長屋の部屋がそこだけサロンになったような感覚を覚える。美人で穏やかな母。裕福だったころは見事な金髪だったが今は煤で汚れてしまっている。部屋の壁紙は剥がれかけ、家具は中古品だが、母の所作一つひとつが優雅すぎて今の生活に馴染んでいない。それが時々、ハリエットには痛々しく、そして愛しかった。
「あら?」
母が野菜を覗き込み、首を傾げた。
「でもハリエット。この人参、お爺さんの指みたいにシワシワね。大丈夫かしら」
「……煮込めば一緒なのよ、母様」
母の天然な一言に、ハリエットの感傷は一瞬で吹き飛んだ。
やはり現実は厳しい。感傷に浸っている暇はないのだ。
ハリエットは流しに向かい人参を洗い始める。少し柔らかい人参。皮をむいてしまったら食べるところが減ってしまう。丁寧に泥を落とし皮ごとひと口大に切る。手際よく包丁を動かす音が部屋に響き始める。
まずはお腹を満たすこと。明日も生き延びること。これからどうするかなんてお腹がいっぱいになってから考えればいいのだ。




