帝都①
「今年一番の冷え込みだよ! 石炭価格がまた上昇!」
「貧民街で凍死者続出! さあ、新聞読んでおくれ!!」
新聞売りの少年が、霜の降りた街角で声を張り上げている。
ハリエットは足を止めずに通り過ぎた。
(石炭が上がってるのは知ってる。嫌っていうほど)
昼でも夜でも帝都の空は灰色で覆い隠されている。
空を覆うのは雲ではなく、工場が吐き出す煤煙だ。洗濯物は乾く前に黒くなってしまう。
重厚なレンガ造りの街並みは、一見すれば文明の極みなのだろう。だが、その壁も路地も、すべては煤にまみれている。晴天の日は少なく、空の色ひとつ守れないのが現実だ。
蒸気機関の唸りが、誰かのうめき声に聞こえる。腹の底に響く機械の音が、ここじゃ子守歌代わりだ。
この騒音こそが、帝国の繁栄を支えているというのに、そんな「現場」の空気など、高い塀の向こうには届かないのだろう。
高い塀の向こう側の貴族たちは白い手袋が汚れるのを嫌うけれど、その手袋が煤にまみれた手によって作られていることなど、知ろうともしない。
イラディア帝国が誇る産業革命の正体なんて、所詮はその程度のものだ。
(……ま、文句を言っても暖かくはならないか)
ハリエットはかじかんだ手に「はぁーっ」と息を吹きかけ、ひじの部分がすり減ってテカテカになった灰色のウールコートの襟を合わせた。
(私も「凍死者」側に片足突っ込んでるわけだし。急ごう)
市場に着く頃には、指先の感覚がなくなりかけていた。
露店が並ぶこの場所は帝都の庶民たちには無くてはならない場所だ。威勢のいい声が飛び交っている。ハリエットが足早に向かうのは、その市場の外れにある小さい八百屋。ハリエットのバイト先だ。
「おばさん、おはよう」
「あら、ハリエットちゃん、今日も早いねぇ」
店主のノーマおばさんは、しわだらけの顔をほころばせた。
「今日はキャベツがあるよ。外側がちょーっとだけ傷んでるけど、中は大丈夫だからね。ほら、持ってきな。スープにでもしたらお母さん元気になるだろ?」
「ありがとう!助かる」
ノーマおばさんが差し出したのは、茶色に変色し、しなしなの葉に包まれたキャベツ。それから、萎びた人参が数本と、少し芽が出て傷がついているジャガイモがいくつか。
店頭には出せない廃棄寸前の野菜たち。
ハリエットにとっては命を繋ぐ希望の糧だ。
「おばさん、腰の具合は? どう?」
「まあまあだね。寒くなったから痛むけど」
「無理しないでね。あ、そうそう。これ」
ハリエットはポケットから小さな包みを取り出した。
「昨日、薬草が安く手に入ったから。腰に効くやつだよ」
「あんた、そんな余裕ないでしょうに」
「余裕がないのはお互い様でしょ? 野菜いつももらってるし。じゃあ、また後で働きに来るね」
にっと笑って、ハリエットは野菜を抱えた。
これで三日は持つだろう。この食材たちは、スープにして良し、炒めて良しの万能野菜だ。ジャガイモに至っては腹持ちが良い。最高だ。
(母様の咳が落ち着いてきたから、今日はゴロゴロした野菜のスープを作ろう)
市場を抜け路地に入る。
傷んだキャベツたちを抱えて歩く子爵令嬢。
昔の自分が見たら、どんな顔をするだろうか。
(……考えちゃだめね。過去を振り返ったってしょうがないのよ)
今を惨めだとは思わない。自分の足で立っている。自分の手で家族を養っている。
誰かに施しを受けて生きるよりずっといい。そう思った時だった。
「――ハリエット」
背後から、低い声がかかった。聞き覚えのありすぎる声。
ハリエットは、ギギギとゼンマイ仕掛けの人形のように振り返った。
レックス・アシュフォードが、路地の入口に立っていた。
早朝でも、その整った顔立ちは変わらない。
黒髪。灰色の瞳。襟元からは雪のように白いシルクのスカーフが覗き、長身に高級ウールで仕立てられた黒のロングコートが映えている。
(なんで――なんでこの男がここにいるの。こんな路地に明らかに不釣り合いじゃないの)
昨夜のラウンジでじっとこちらを見ていた灰色の目。何か言いたげに動いた唇。
(まさか、気づかれたとか? いや、落ち着け。昨日の今日だけれど、今の私は眼鏡をかけている。赤毛も地味にまとめてる。特徴的な涙ぼくろも眼鏡のふちで見えない。緑の瞳も薄汚れたレンズ越しでは印象が薄れるはず。昨夜の「ローズ」とは別人なのよ)
ハリエットは冷静を装った。
「……レックス様、おはようございます」
「ああ」
たった一言。それきり沈黙してしまった。
レックスの視線が、ハリエットの腕の中に注がれている。
茶色く変色したキャベツ。萎びた人参。芽が出て傷だらけのジャガイモ。
反射的に隠しかけて……やめた。
(隠す必要なんてないもの。これは私のものなんだから堂々と掲げてやるわ)
侯爵家の嫡男から見れば、この光景はどう映るのだろう。
婚約者が、貴族なら絶対に食べない廃棄野菜を宝物のように抱えている。
(みっともないって思ってる? ……思ってるんでしょうね。でも、私はこれで生きてるのよ)
ハリエットは顎を上げた。
「何か、御用でしょうか」
「……その野菜は」
「働いている八百屋さんで、いただいたものです。売り物にならない野菜を分けてもらっています。もったいないでしょう? 捨てるのは。もったいないお化けに憑りつかれちゃいますしね」
レックスは何も言わなかった。ただ、眉間に深いしわを寄せて、じっとこちらを見ている。
その手が、なぜか小刻みに震えている。
(……今日は長いわね)
ハリエットは内心で毒づいた。婚約者との会話が五分続かない、「女嫌い」はどこへ行った。婚約者が廃棄野菜を抱えているのが、そんなに許せないのだろうか。文句があるならさっさと言えば良いのに。
「無理をしているのか」
「は?」
「金が足りないなら――」
「足りてますー」
ハリエットは即答した。
(いや、足りてないわよ! 全然足りてない! ……でも、あんたに頭を下げたら、私はもう立ち上がれなくなる気がするのよ。それならジャガイモの皮をかじって生き延びるわ)
「私は自分の力で生活しています。ご心配には及びませんわ」
レックスの目が、わずかに見開かれた。何か言いたそうに、唇が動く。
だが、言葉は出てこない。昨夜と同じだ。
「レックス様。私がこんな暮らしをしているのが、お嫌でしたら」
ハリエットは一歩前に出て、真っ直ぐにレックスの瞳を見据える。
「婚約を破棄していただいても構いません。私は……私は誰かに憐れまれて生きていくのは、嫌なんです」
沈黙が落ち、冷たい風が路地を吹き抜ける。
レックスは動かなかった。その手はまだ、震えている。
(そんなにお怒りなの? なんで?)
ハリエットは頭を下げて、足早にその場を離れた。




