パピヨン・ノワール
「ようこそお越しくださいました、近衛騎士団長様。ローズ、と申します」
優雅に一礼する。視線はソーンに。レックスの方は一切見ない。
「おお、お前が噂のローズか。ここの一番なんだってな。なるほど……美しい。一番なのも頷けるな」
ソーンの目が、遠慮なくハリエットの身体を舐めまわす。大層不快だが、顔には出さない。
「まぁ! 光栄ですわ。今夜はどのようなお酒をご用意いたしましょう?」
「お前が選べ。お前の好みが知りたい」
「嬉しいですわ。でしたらヴルゴー産の赤ワインなんていかがでしょうか? あの繊細でありながら華やかな味わいが好きですの」
(この店のお高いお酒上位に位置するお酒よ? さあ、どうする?)
「いいだろう、その酒でお前との時間が手に入るなら安いものなんだろう?」
「ふふ、ありがとうございます」
にこりと笑って、ハリエットはソーンの隣に腰を下ろした。その間も、肌が粟立つような感覚があった。
見られている。レックスがじっとこちらを見ている。
(な、なによその目。私が市場でネギを値切ってるときの八百屋の親父さんより厳しいんだけど。あれ? ネギを値切ってる……ぷぷっ。我ながら上手いこといったものね)
横目で窺うと、灰色の瞳がまっすぐこちらを向いていた。
(こっちを見るのはよろしくないですよー、やめてください)
「ローズ」
ソーンの声で、ハリエットは意識を引き戻された。
「お前、どこの出だ?」
「さあ、どこでしょうか? 当ててみてくださいな」
「つれないな。俺はお前のことが知りたいんだが」
「ラウンジ嬢に過去を聞くなんて野暮ですわ、ソーン様」
くすりと笑って見せる。ハリエットはワインを注ぎながら、ソーンの左手の薬指を見た。指輪の跡。既婚者だ。
(奥様がいらっしゃるのに遊び歩いてるわけね……使えるわ)
その手に彼女は自分の手を重ねる。
「――でも、貴方様のことなら、もっと知りたいですわ」
ソーンの目が光った。気に入られた手応えがある。
だが、背後からの視線が、ハリエットにずっと突き刺さっている。
(集中できないんですが)
ハリエットは苛立ちを押し殺しながら、接客を続けた。
ソーンのワイングラスが三杯空いた頃、ソーンはすっかり上機嫌でハリエットの腰に手を回してきた。
「ローズ、お前と過ごす時間はあっという間だな。いい女というのはこういうものなのか。他のやつらとは全く違うな」
「お上手ですこと」
「世辞じゃないぞ。俺の疲れを癒せるのはお前のような賢い女だ。どうだ? この後、二人きりで食事でも」
(っ! 来た! 愚痴を聞き続けた甲斐があったってもんよ)
チャンス到来だ。ここで約束を取り付ければ、任務は大きく前進する。
「嬉しいですわ。でも私、高貴な貴方様に合う身分ではございませんのよ」
「身分など関係なかろう。俺が言えば誰も文句など言わん」
ソーンの手に力がこもる。腰に回された手が這い上がり、露出した背中の肌に、じとっとした指先が触れた。逃がさないとばかりに距離を詰められる。
ハリエットは微笑みを崩さず、次の言葉を選ぼうとした――その時。
「団長」
聞き覚えのある冷たい声が割って入った。
「そろそろお時間では? 明日は早朝から閲兵があります」
「……チッ。堅苦しいぞ、アシュフォード」
「お身体に障りますので」
レックスの声には、一切の感情がなかった。だが、有無を言わせない力がある。
ソーンは不満げに鼻を鳴らしたが、結局立ち上がった。
「……仕方ない。ローズ、また来る」
「お待ちしておりますわ、ソーン様」
ハリエットは笑顔で見送りながら、心の中で絶叫した。
(私のカモのコンフィ~裏帳簿を添えて~が! 皿ごと下げられちゃったじゃないのよ!)
あと一押しだったのに。二人きりの約束まで、あと一歩だったのに。
(あんたは私の営業妨害をするために生まれてきた貧乏神か!?)
近衛騎士たちがぞろぞろと席を立つ。
レックスも立ち上がり――そして、不意に足を止めて振り返った。灰色の瞳がハリエットを射抜く。
「――」
何か言いかけたように、唇が動いた。
だが、言葉は出てこなかった。
数秒の沈黙の後、レックスは背を向けて去っていった。
(……なに?)
あの目はなんだったのだろうか。軽蔑か嫌悪なのか。それとも――。分からない。分からないが、妙に引っかかる。
「ローズ! お疲れさま」
ミラが抱き着きながら声をかけてきた。
「……ええ、お疲れ様」
「あの黒髪イケメン騎士、ずーっとあんたのこと見てたわよ~。気に入られたんじゃないの?」
「冗談やめて、ほんとに」
(気に入られたですって? あの男に? まさか)
彼が見ていたのは「ローズ」だ。婚約者であるハリエットではない。
つまり、婚約者がいるくせにラウンジ嬢に目を奪われていたということだ。
(最低か)
どちらにしろ、碌な男じゃないのが確定した。
ハリエットは頭痛をこらえて、深いため息をついた。
「……石炭三袋じゃ割に合わないわよ、これ」




