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貧乏令嬢と秘密のラウンジ~婚約者の浮気相手は私でした~  作者: 梅澤 空


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灰色の瞳①

黒蝶の館(パピヨン・ノワール)』。

 レックス・アシュフォードは、その店の名を聞いた時から気が進まなかった。

 帝都の貴族社会に名を知られた高級ラウンジ。政財界の大物が夜ごと集い、酒と女と、表に出せない密談が交わされる場所だ。


「たまには息抜きも必要だろう、アシュフォード」


 上官である近衛騎士団長ジェラルド・ソーンは上機嫌だが、レックスにとってはつまらない。余計な気遣いというやつだった。葉巻の煙と香水の匂いが混じり合う空間。嬌声と低い笑い声。どれもこれも肌に合わない。


(さっさと終わらせて帰りたい)


 レックスは興味のない顔でグラスを傾けた。

 シャンデリアの下、着飾った女たちが客を取り巻いている。誰の顔も目に入らない。

 ただ、それだけのはずだった。


「ようこそお越しくださいました、近衛騎士団長様。ローズ、と申します」


 レックスの手が止まった。

 深紅のドレス。燃えるような赤毛。真っ赤な紅を引いた唇。

 そんなものは、どうでもいい。見ていたのは目だ。

 緑の瞳。右目の下の涙ぼくろ。優雅に微笑んでいるが、その奥は冷えている。笑っているようで笑っていない。媚びているふりをして、腹の底では値踏みをしている目だ。見間違えるはずがなかった。


(ハリエット?)


 なぜ。

 なぜ、彼女がここにいる。

 頭の中が真っ白になった。


 あの日。

 没落した彼女に、レックスは「慈悲」を与えたつもりでいた。

 泥だらけで現れた彼女に、小切手を差し出し、こう告げたのだ。


「私の妻になってくれればいい。君の家柄は飾りとしては十分だ」


 完璧な提案だと思っていた。

 金も、地位も、安全も保証する。彼女は泣いてすがりつき、感謝の言葉を口にするだろう。

 そう、タカをくくっていた。


「お断りします」


 レックスは耳を疑った。

 今、何と言った。反射的に彼女の顔を見た。

 そこにいたのは、みすぼらしい没落令嬢——ではなかった。

 泥だらけのドレス。水を吸った裾。ぼろぼろの靴。外見は確かにみすぼらしい。

 だが、目が違った。涙が溜まっている。唇は震えている。


「私は、あなたの飾りにはなりません」


 震える声だった。それでも、彼女は真っ直ぐにこちらを睨みつけていた。


「借金は、自分で返します。どんな仕事でもします。あなたに憐れまれて生きていくくらいなら、地を這ってでも自分の足で立ちます」


 一歩も引かなかった。泣きながら、それでも牙を剥いていた。


(——なんだ、この女は)


 没落令嬢が、侯爵家の援助を蹴っている。小切手を突きつけられて、首を縦に振らない。飼われることを、真正面から拒否している。

 こんな女がいるのか。金で動かない女など、本当にいるのか。

 レックスの常識が軋んだ。貴族社会で二十数年生きてきて、こんな生き物は見たことがなかった。

 泣いているのに、心は泣いていない。

 あれは涙ではなく、威嚇だ。追い詰められた獣が、最後の力で牙を剥いている。

 美しい、と思ってしまった。

 ドレスで着飾った令嬢などが霞むほど、その泥だらけの姿が強烈に網膜に焼き付いた。心臓がうるさくて仕方がない。この女が欲しいと渇望している。


「失礼します」


 彼女は短くそう言って、背を向けた。逃げるように、応接室を出ていく。

 レックスは動けなかった。

 追いかけろ。引き止めろ。何か言え。

 頭ではそう思っていた。だが、足が動かなかった。



 ローズがソーンにワインを注いでいる。

 何か気の利いた冗談を言ったのだろう、ソーンが下品に笑った。

 完璧な所作だった。どこからどう見ても、場慣れした一流のラウンジ嬢だ。


 だがレックスは、あの目を知っている。


 笑っていても、媚びていても、その奥にある光は一年前と何も変わっていない。

 あの日、自分を睨みつけた目。

 誰にも飼われないと誓った、野良猫の目だ。


(——これが、お前の「地を這ってでも」か)


 彼女は本気だったのだ。

 どんな仕事でもすると言った。自分の足で立つと言った。

 あの日の宣言を、彼女は本当に実行している。


 ソーンの手がローズの腰に伸びた。

 馴れ馴れしい指が、ドレスの上から腰を撫でる。

 レックスの右手が、膝の上で静かに握り込まれた。

 グラスが軋む。力を入れすぎている。割れる寸前だった。


(——その手を、叩き落としたい)


 だが、彼女は「ローズ」としてここにいる。ハリエット・ガルシアではないのだ。

 その選択を、自分が踏みにじる権利はない。

 今は、まだ。

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