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貧乏令嬢と秘密のラウンジ~婚約者の浮気相手は私でした~  作者: 梅澤 空


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白鳥の針

「こちら、うちの職人が最近たどり着いた染料の調合でして。ここでしか手に入りません。素材は最高級のシルクベルベットでございます」


 ハリエットの目が輝いた。照明の下では艶やかに光るが、暗がりでは闇に溶け込む色だ。潜入には打ってつけだろう。


「デザインにも工夫がございます。首元はレースで上品に隠しておりますが――」


 店主がスカートの裾を軽く揺らした。たっぷりと使われた生地が波のように広がる。


「プリーツを深く取っておりますので、立ち姿は淑やかに。動きますとこのように」


 これだ、とハリエットは心の中で指を鳴らした。

 このドレスなら太もものナイフの凹凸は完全に隠せる。しかも裾を踏まずにハイキックも可能だ。


「素敵ですわ」


 声に思わず本音が混じった。レックスは腕を組み、渋い顔でドレスを検分している。


「試着してみるといい」


 ハリエットは試着室へ向かった。手伝いを申し出た店員に断りを入れ、試着室に入る。扉が閉まるや否や、彼女の動きは早くなる。優雅な仕草は脱ぎ捨て、手早くドレスに着替え、鏡を確認する。外からは武器が仕込まれていることなど全く分からない。完璧だ。

 その場で軽く跳躍し、回し蹴りを放った。

 バッ、とスカートが花のように開き、音もなく元の形に戻る。


「動き良し!」


 ハリエットは鏡の中の自分に向かって、小さく頷いた。

 深緑のドレスを纏い、化粧で武装した「ローズ」がそこにいる。

 扉を開き、レックスの前に進み出た。


「いかがでしょうか」


 くるりと一回転して見せる。

 ――返事がない。

 ハリエットは眉をひそめた。レックスは目を見開いたまま、石像のように固まっている。


(え? 何? 似合ってない……とか?)


 不安がこみ上げる。まさか「似合ってないからやめる」とか言い出すのではないか。ここまで来て脱げと言われたら、さすがに泣く。


「……似合っている」


 ようやく出てきた声は押し殺したような響きだった。


「他の男に見せるのが惜しいぐらいだ」

「……は?」


 意味が分からなかった。


(見せるって、何を? このドレスを? そういえば、ここでしか手に入らない調合なんだっけ?)


 ハリエットは首を傾げた。


「お褒めいただき光栄ですわ」


 よく分からないが、似合っていると言っていたし褒められているのだろう。とりあえずお礼を言っておく。


「店主、このドレスと、それに合わせた靴。……それから、あちらの丈夫そうな革靴もだ」


 さらにショールと手袋も、とレックスが店主に告げた。


「ちょ、お待ちになって」


 ハリエットは慌てて制止した。


「ドレスだけで十分ですわ。靴やショールまでいただくわけには――ましてや革靴まで」


(これ以上は借りになってしまう)


 喉元まで出かかった言葉を、ハリエットは飲み込んだ。

「ローズ」なら、遠慮などしない。貰えるものは貰う。他の男からなら遠慮なく貰っただろう。

 だが、胃の底が妙にざわつく。


「……お気持ちだけで十分ですわ」

「構わん」


 レックスは有無を言わさぬ口調で言った。


「トータルコーディネートだ。文句は言わせない。それに……」


 その視線が、ハリエットの足元に落ちた。

 履き古した革靴。何度も修理を重ねた、穴だらけの靴だ。


(見られた!)


 反射的に足を引いた。スカートの陰に隠すように。

 恥ずかしさが込み上げる。

 レックスの目には蔑むような色はなかった。ただ、どこか痛ましげにこちらを見ている。


「その靴では、君の足が傷つく」


 ハリエットは言葉に詰まった。あの路地裏で。廃棄寸前の野菜を抱えた自分を見たときと同じ目だ。

 憐れまれている。分かっている。

 なのに、怒りが湧いてこない。代わりに胸の奥がじわっと熱くなる。


(……何よ、何なのよ)


 ハリエットは唇を噛んだ。

「ローズ」なら、ここで甘えればいい。「ありがとうございます」と微笑んで、すべてを受け取ればいい。

 なのに、喉に何かがつかえて声が出ない。


「あ……ありがとう、ございます」


 ようやく絞り出した声は、少しだけ掠れていた。

 店を出た時、ハリエットの肩にはショールが巻かれ、足元には雲の上を歩くような革靴があった。


「……」


 ハリエットは、隣を歩く男の横顔を見ないようにしていた。


(任務のためのドレスは手に入った。それでいい。それだけでいいのよ)


 新しいショールの温かさが、やけに落ち着かない。靴の履き心地が良すぎて、足が地についていない気がする。

 これを受け取ったのはローズ。ハリエットではない。そういうことにした。

 なのに、胸の奥で何かが小さく軋んでいる。


(なんなのよ、この感じ)


 ハリエットは答えを出さないまま、煤煙(ばいえん)に霞む帝都の空を見上げた。

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